深夜バス
夜の川は怖い。
昼間の川は死者を拒むが、夜の川は生者を拒むからだ。
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その日は久しぶりに遅くまでの残業となった。
世田谷の岡本にKさんという、ある金持ちの顧客の自宅に不動産投資の打ち合わせをしたりKさんの好きなゴルフの話やら、この岡本やその近辺の昔話をしているうちにテッペンを回ってしまったというわけだ。
しかし、まぁ、直行直帰も多いし、今回みたいに顧客から高級なウイスキーをご馳走になったりと、楽な仕事だ。
俺にはとても買えないような高級ウイスキーを「安物だから」とやたらに勧めてくるので、気付いたら深夜になっていた。
世田谷の岡本といえば高級住宅街であるものの、近くの駅まで行くにはバスか自転車を使わなければならない不便なところだ。
とは言え、この近辺に住む輩は会社の重役ばかりで、マイカー通勤する人達ばかりなので、さほど不便ではないのだろう。
その日も俺は、近くの二子玉川駅家から顧客の家までバスで着ていた。
まあ、歩けない距離じゃないが、疲れることこの上ないので、バスを使った。
帰りも当然ながらバスを使おうと思ったが、終バスに間に合うのか気になっていた。
玄関先まで見送ってくれたKさんに挨拶して別れると、マフラーを首に巻き、ブルっと震えた。
見上げると、家々の屋根の上にはオリオン座がキラキラと
火照った体に残るアルコールが有り難い。
バス停はKさん宅から歩いて一分もかからないところにあった。
しかし、こんなに遅くなったけど、バスはまだあるのだろうか?
俺は小走りにバス停に向かうと、急いでバス停の時刻表に眼を走らせ、腕時計の針と交互に見合わせた。
──── しまった!終バスに遅れたー!
これじゃあ、駅まで歩かなくちゃならん。折角頂いたウイスキーもこの寒さでは駅に着く前に酔が冷めちまう。
俺はガックリ項垂れた。
その時、
正面上には真っ赤な文字で「深夜バス」とだけ書いてあった。
行き先は書いてない。
バスは俺の前で停まると、プシューッと音を立ててドアが開いた。
中にはマスクを掛けた三十代から四十代ほどの男が運転席に座っていた。陰気な感度で顔はよく見えなかった。
ドアが開くと、「このバス二子玉川駅に行くんですか?」と俺が尋ねると、運転手はこちらを見もせずに、黙って頷いた。
バスに乗ると、白髪のお婆さんと、左足と右腕に包帯を巻いた学生風の若者が席についていた。若者の傍らには松葉杖が立て掛けられていた。
お婆さんは運転席のすぐ後、学生風は車両の中ほどに腰掛けていた。
俺はバスの一番後ろの席に陣取った。
バスはゆっくり走りだした。塀からはみ出した木々のギリギリをかすめて行く。
バスの中は気味が悪いほど静かだった。
バスのエンジン音が響くのみ。
幾つかバス停を過ぎていったが、降りる者も乗り込む者もいなかった。
ただ、ただ、住宅街の闇間をバスは走っていく。
やがてバスはT病院前というバス停に近づいた。また誰も乗降するものはいないと思っていた所、バスがT病院のロータリーに入ると、長蛇の列ができているのに気付いた。
扉が開くと冬の夜気と共に、大勢の人達が乗ってきた。
老若男女の人々が声も立てずに、ぞろぞろと乗ってきた。どちらかと言えば、老人が多いようだ。ゴボゴボと気持ちの悪い咳をする者も大勢いた。
今まで三席しか埋まってなかった席が、一気に埋まり、立ち乗り客まで出だし、バスはすぐに満員になった。
こんな夜中に風邪の診察でもしてていたのだろうかと俺は
さっきまであまり効いていなかった暖房だったが、満員になるとすぐに暑いくらいになってきて、バスの窓ガラスは曇っていった。
前の方に老人が何人か立っていたので席を替わろうとしたが、痩せぎすの青年と、同じくやせ細った三十代半ばの女に席を押されて、窓際まで押しやられたし、車内の暖かい空気に気だるくなってしまい、そんな考えは消えていった。
気が付くと轟々、ザァザァいう音に目が覚めた。
起き上がると目の前に黒い河が流れていた。
遠くの駅から漏れる明かりが河の波間を不気味に照らしていた。
どうやら河川敷に寝ていたようだ。
バスの姿も客の姿も何処にもない。
そう言えば、あのT病院って、昔は「
轟々、ザァザァ。
川の流れる音を聞いていると、水に吸い寄せられる死者の魂の数々が見えるような気がした。
カントウの怪談 相生薫 @kaz19
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