第8話 残滓
いつもと何ら変わりなく、学校の中庭は静寂に包まれている。時折吹き抜ける夜風が、木の葉を揺らす音だけが鼓膜を打つ。ふと腰掛けたベンチに目を向けると、一匹の蟻が忙しなく足を動かしながら、何やら探し歩いている。そこに何かを見いだす程、僕は文学少年でも感受性の豊かな芸術家でもなかった。
夜が更けると、もう肌寒い。季節の経過というのを身を以て知ることは、どこか心地よい。日本は四季の有る事が自慢だと、よく方々で口にする人々がいるが、まあ賛同くらいはしてやってもいいだろう。そろそろ、中庭の木の葉も黄いろや赤色に染まり始める季節だ。
僕は、ポケットから煙草の箱を取り出すと、手慣れた手つきで一本取り出す。人差し指と中指の間に挟まれた毒薬は、いつもと変わらず酷い臭気を放っている。
カチリ…。
ライターで火を灯す。宵闇に支配された中庭が、悪夢のように一瞬だけ浮かび上がり、消える。
「ふうー…」
煙を肺に取り入れるのも、最初はただの苦痛だった。今もそれは変わらないが、苦痛に中毒が追加されたのは、言うまでもない。独特の苦みが口の中に広がる。僕はそれを、いつも通り噛み潰す。
二十時も回れば、学内に人はほとんどいない。喫煙を咎められることもない。アイツも、いつもそうだったのだろう。
「未練、かね。」
呟く。喉の奥から、薄い硫酸のように周囲を焼きながら、それは吐き出された。吐き気を、煙草の煙で飲み込む。そして、また吐き出す。
ふと、彼女はなぜこれを吸いはじめたのだろう、と疑問に思った。だからといって、もうそれを確かめる術もない。確かめられるとしても、どのみち僕が直接尋ねることなどないのだろう。深入りすることは、今も苦手だから。
ちょうど一本目の煙草が燃え尽きる。ぼうっとしていたせいで、長くなった灰がジーンズの上に散り落ちる。
カチリ……。
二本目に火を点ける。先ほどと変わりない、相変わらず何が美味しいのか全く分からない味が口の中に広がる。肺は、今にも裏返りそうに拒否反応を示している。
それでも、僕はそれを吸って、吐く行為をやめない。
「………。」
あれやこれやと、記憶が廻る。色々な顔が、光景が、感情が、ニコチンとタールに紛れて体中を駆け巡る。…。
…嘘だ。煙草を吸う時は、「色々な顔」が浮かぶ訳ではない。実のところ、浮かぶ者は一人しか居ない。奴のおかげで、僕はこの非生産的でなんの取り柄も無い毒物に侵されているのだから。
今日も一日が終わる。
きっちり「二人分」の煙草を吸い終える儀式を終えると、僕は帰路に向けて歩き始めた。
私たちは独りでしか生きられない 鹽夜亮 @yuu1201
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