第7話 大した事のないお話
夕暮れ。煙草を吹かす。白煙が宙を舞う。
人を待つというのは、これほど苦痛なのかと20年とそこそこもの時を過ごしていながら、私は初めて実感していた。視界の端に映る人影が、「ニアミス」のようで、もどかしい苛立ちを募らせる。
待ちぼうけを孤独に食みながら、苦い煙草の吸い殻だけが増えていく。夕暮れも、そろそろ終わりそうだ。空も近いうちに、血のような紅から薄暗い青へ、そして何もない漆黒へと姿を変えていくだろう。
「ハローこれがもう、はなすのも最後ー…そうー何度ーもー、きーめてにーらむあーけぞら……。」
虚ろな鼻歌が、白煙に捲かれて行き場を失っている。ぼうっと目で追えば、それは数秒もしないうちにありきたりな空気に紛れて、消え失せてしまった。
「何歌ってるんだよ、変人。」
背後からの声に背筋がびくりと震える。驚く私を横目に、声の人物は私の隣へ静かに腰掛けた。
「待たせたか。随分退屈そうじゃないか。」
秀一は、そう言いながら軽く左の口角だけをつり上げる。私は、それを見ながらまだどこかぼうっと、夢を見ているような心地でいた。
「女性を待たせ過ぎよ。モテないでしょ、貴方。」
取り繕うような軽口が口先で踊る。それは、若干の声の震えと共に、私には滑稽に思えた。しかし、秀一はそれを特に気に留める様子はなかった。
「大きなお世話だ馬鹿。……それで、それだけ退屈しながら待ってでもしたい話ってのは?」
私はその問いかけをききながら、視線を中庭の大木に移した。横にいる相手の、目を見ながら話す内容でもないと思ったからだ。
「前置きとか、世間話とかないのね。」
「面倒だろ、そういうの。それに、はぐらかすのは好きじゃない。」
「前菜とかも嫌いなタイプ?貴方。」
…。無駄な言葉が喉から手を伸ばしている。それは無意識に溢れてくる。伝えるべきことは、大した事でもないし、それは特に何か、言いにくい事でもないはずなのに。そう、私ははぐらかしている。周囲を漂うこの白煙のように、心のどこかでその話題も消えてなくなってしまえばいいとさえ思う。
「……。あのね、私、大学やめることにしたの。」
「…………そうか。」
言葉にすればあっけない。特に大した事ではない。私という人間が、この学校からいなくなる、ただそれだけのことだ。…この男との繋がりも薄れる、それだけのことだ。
夜風が木々を撫でる音だけが、中庭に響いている。物悲しくも、騒々しくも聞える。それは邪魔なようで、この居心地の悪い沈黙を覆い隠す気の利いたBGMのようでもある。お互い無言のまま、私は又一本、新しい煙草に手を伸ばす。
「なあ。」
ふいに、沈黙を破る柔らかい声と共に、横から手が伸ばされた。私のそれよりもごつごつとして、大きなその手は、私の手の中にある煙草を奪っていった。
「火、くれよ。」
秀一は、それを口に咥えながら、言う。私は愛用のライターでそれに火をつける。
「……げほっごほ…まっず………。」
「随分かっこつけておいて、貴方吸った事ないの…?」
横で咳き込む秀一を、私は呆れながら見る。そう、呆れながら。
……いや、愛おしく思いながら。
宵闇がいよいよ全てを覆い尽くす時間になって、私たちは軽くさよならを言った。
さよなら、と直接口にするのは、私たちにとって初めてだった。いつも、どちらかが無言で立ち去っていたから。
さよならだけが、今日の特別だったのかもしれない。私にとってそれが喜ばしいことなのか、それとも悲しいことなのか、それは今はわからない。
いつか、わかる日も来るのかもしれない、そう思いながら、私は騒々しい帰路を愛しい煙草の煙と共に歩いた。
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