古いアルバムのにおい(4)

 佳織は指定されたカラオケ屋にほど近いコンビニで百円のコーヒーを買い、時間を潰していた。イートインのスペースに腰掛け、スマホをいじる。

 なんとなくツイッターのタイムラインを眺めていたら、綿乃原先輩が出演するバラエティ番組が今週の水曜に放送されるという情報を得てしまった。

 まるで普通のファンみたいだと、佳織は思う。

 そうなってしまえば楽なのだろうけど、そうはなりたくない。

 わがままなことを考えたちょうどそのときに、綿乃原先輩からの着信がきた。頬が緩みそうになる。

 昨日の夜よりは余裕をもって、佳織は電話に出た。

 挨拶もそこそこに、綿乃原先輩が言う。

『準備できたから、もうこっちに来てもええよ』

 そうして伝えられた部屋番号を忘れないよう復唱する。入ってくる前に店員さんに一声かけるんやよ、と言わずもがななことを注意された。

『そんで、ここからが重要やからよく聞くように』

「綿乃原先輩の言いつけを守ればくさくない、っていう話ですか」

 真剣な口調になった綿乃原先輩へ、佳織も真面目に聞こうと姿勢を正す。

『まず、個室に入る前に息を止めること』

「はい」

 それは、だいたいの除霊ではやろうにもやれないことだ。綿乃原先輩にバイトを持ちかけられるような幽霊は、結構な距離があってもにおいが漂ってくるので息が持たない。それをあえてやれ、というからには、何か理由があるのだろう。

『個室の外には、においが漏れんようにしたつもりやけど、代わりに部屋の中はにおいがこもっとると思う。そこはささっと除霊を終わらせるまで我慢してな』

 佳織は春先に行った工事現場を思い出す。あの時はたしか、盛り塩で作られた結界の中だけ他よりもにおいがこもっていた。今日はそれをもう少ししっかりやったということだろう。

『部屋の机の上にアルバムを広げて準備しとる。開いたページの右側。真ん中あたりに貼ってある親子連れの写真が、今日の目標やね』

 綿乃原先輩の説明に、佳織はなるほどとうなずく。それは分かりやすい。

「物にも憑くんですね」

 コンビニの中なので、幽霊なんて言葉は使えない。

『ホラーの定番は、割と正しいんよ。写真とか人形とか。順番が逆、いうか、ほんとに霊能を持っとる人がそれと知らずに題材にしたり口伝されたり、って流れがあったんやと言われとる』

「はあ、なるほど」

 よくある鶏と卵の話だ。綿乃原先輩の口振りから察するに、霊能者と呼ばれるような人たちにもコミュニティがあるのかもしれない。

『とにかく、その親子連れの写真を、部屋に入って速攻で平手打ちすれば大丈夫やと思う。簡単やろ?』

「はい。大丈夫だと思います。近くにいるので、そうですね。五分くらいで着くと思います」

 ちらりと窓の外へ視線を向ける。信号を渡る必要があるけれど、十分はかからないはずだ。

「急がんでええから、車とか気を付けて来るんやよ。ちゃんと待っとるから」

 なんだか予言めいたことを言われて、電話が切れた。綿乃原先輩にそんな予知っぽいことができるなんて聞いたことはなかったのだけれど……。

 佳織は立ち上がり、半分ほど残っていたコーヒーを一息に飲んだ。随分と冷めてしまったそれは、なんだかやけに酸味が増していたような気がした。


   ◆


 もちろん、佳織は交通事故になんて遭わなかった。

 綿乃原先輩に伝えられた個室の前で深呼吸をしている。確かに、ここはまだくさくない。言われたとおり息を止めれば、くさい時間は本当に最小限で済みそうだった。

 個室の扉には窓がついていたけれど、すりガラスになっていて中の様子は見えない。

 佳織は息を止め、鼻をつまんで個室の扉を押し開けた。

 くさくない。けれど、暑くないサウナに入ったような、ねっとりとした空気が体を包む。こもったにおいが、物理的な重さまで持っているかのようだった。

 素早く室内に視線を走らせる。一瞬、奥の方に座る綿乃原先輩と目があった。佳織の動きを邪魔しないように、入り口から遠いところにいたらしい。今は挨拶なんてしない。運動部でもない佳織にとって、息を止めていられる時間はそんなに長くない。

 机の上にアルバム。

 飛びつくようにして、佳織は右のページを見る。

 親子連れの写真が真ん中あたりに……ない。あるのは仲の良さそうなカップルの写真ばかりだ。

 佳織は慌てて、綿乃原先輩へ視線を向ける。怪訝そうな顔。

「どれですか……っ」

 口を開いて、失敗した。まとわりつくように佳織の体を覆っていた部屋の空気は、口の中にも入ってきた。

 つん、とくる。プールで溺れて鼻に水が入ってきたときに感じるような冷たい熱さ。鼻で嗅いだわけでもないのに、痛い。

「これ!」

 事態を察したらしい綿乃原先輩が、机へ身を乗り出して一葉の写真を示す。

 佳織は鼻をつまんでいない方の手で、思い切りその写真を叩いた。

 ぴりっとした静電気みたいな感触が手の平に走る。二度、三度と叩き続ける。静電気はもう走らなかった。

 体にまとわりついていた重い湿気のような感覚が消える。軽く口を開けてみた。もう、痛くない。

 はあっ、と止めていた息を吐く。それから、大きく息を吸った。何度か繰り返すと、すぐに呼吸は落ち着いた。

「大丈夫なん?」

 心配そうな顔の綿乃原先輩を、佳織はジト目でにらむ。

「親子連れの写真と違うじゃないですか」

 その言葉に、一瞬だけ驚いた表情をした綿乃原先輩は、アルバムに目を落とした。

「……ああ、あの子も霊やったんか」

 綿乃原先輩は、そう呟いて写真を撫でる。

 それで、分かった。綿乃原先輩には、父と母と子供の、親子連れに見えていたのだ。このカップルの写真が。

「分からない、ものなんですか?」

 佳織が問えば、綿乃原先輩は苦笑した。

「写真だと、そういうこともあるんよ。普通にそこら辺におるのは、もっと分かりやすいことが多いんやけど」

 綿乃原先輩は軽く首を振った。

「たぶん、元々は女の人に憑いとったんやろね」

「この女の人、ですか」

 視線の先にカップルの女性。もとから、この男女のアルバムなのだろう。

「女の人の除霊とかはしなくていいんですか?」

「もう亡くなっとられる」

 ばさり、と言われた。目を見張る。

「人に憑く霊の方が強いんよ」

 呪いのようなものはある、と以前に綿乃原先輩は言っていた。霊が人に憑いている状態がそうだと。子供の霊がどういうものだったのかを考えそうになって、佳織はぶるりと肩をふるわせた。

「前にも言うたと思うけど、霊に思い入れたらあかんよ。うちらがやっとるのは後始末なんやから」

「……わかりました」

 佳織は頷く。

 その反応に満足したのか、綿乃原先輩はパンと手を叩いた。

「そしたら難しいお話はおしまい。はい、これ今日のバイト代」

 分厚い封筒を押し付けられる。いつもよりも多いのは明白だった。

「これ、多いんじゃ」

「違いますー。適正価格ですー」

 ふん、と首をそらす綿乃原先輩。

 なんでこの人はこうなんだろうと、佳織は眉を寄せた。しぶしぶとポケットにしまう。

「じゃ、お仕事終わったし、歌おか?」

 ころりと表情を変えて、綿乃原先輩が笑う。

「えっ、歌うんですか」

 てっきり仕事が終わったら帰るのだと思っていた。

「なあに、現役アイドルの生歌が不満なん」

「いえ、その……」

 しどろもどろになる佳織。ポケットの中にあるお金の詰まった封筒が、嫌な存在感を主張していた。

「私、アニソンしか歌えませんよ」

 言い訳にもなっていない返し。

 綿乃原先輩は一度きょとんとしたあと、アイドルにあるまじき態度でお腹を抱えて笑った。


   ◆


 そうして、その日の晩のこと。綿乃原先輩のツイッターにひとつの呟きが増えた。

『友達とカラオケに行って九十五点も出したったで!』

 点数の映ったカラオケ画面の写真つきツイート。

 嬉しいはずのそれを見ていられなくて、佳織はスマホをベッドの上に投げ捨てた。


   〈古いアルバムのにおい・了〉

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それは幽霊のにおい 佐藤ぶそあ @busoa

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