戻れる物・戻らぬ者・10
霊山の数ある祠の中のひとつに、八角の部屋は作られている。
巫女姫の母屋からも最高神官の居所からも渡り廊下で繋がっている、まさに霊山の中心にあるかのような場所だ。
光を信仰する彼らの真ん中に闇の空間があるというのも、一見矛盾のように思われる。しかし、闇の世界は彼らにとって休息であり、新たな命を育むところであるという考えから、何の不思議もないだろう。
そして、この場所は祈り所と同じように、外からの気を遮断する働きがあった。
だから、扉の前で控えていたそれぞれの仕え人フィニエルとリュシュは、この時何が中で起きたのかはわからない。
最高神官は、二人が想像したよりもはるかに短時間で、部屋から出てきた。
他の巫女姫と比較すればそれほど変わらないともいえるが、相手が相手だけに、朝まで過ごすと思っていた。
リュシュは慌てて立ち上がり、最高神官に敬意を示したが、彼はびっくりするほどの早足で、何も言わずに彼女の前を通り過ぎたのである。
リュシュは困惑してちらりとフィニエルの顔を見たが、無言の合図にうなずいて、バタバタと最高神官のあとを追った。
二人の姿が廊下の向うに消えていったのを確認すると、フィニエルはサリサが置き去りにした燭台をもち、部屋の奥へと入っていった。
かすかに光る影。エリザは部屋の中心で、フィニエルが見送ったと同じ姿勢で座り込んでいた。
何もなかったに違いない。
それは、この夜においては、何かがあったことを意味するのだ。
でも、フィニエルが一番驚いたことは……。
翌日になってこの夜のことをエリザに問いただしても、彼女は何も覚えていなかったということだ。
フィニエルが部屋を出て行ってからの記憶があいまいで、行為があったかどうかも、なんとサリサと会ったのかどうかも、さっぱり記憶にないのである。
サリサのほうは……といえば、少し仕え人としては落ち着きのないリュシュのおせっかいに辟易していた。廊下を走る音も不快であれば、どうしたのですか? とひっきりなしに質問を浴びせる態度もどうにかして欲しい。
だが、それは、彼女が必死に仕事をしようと務めていることでもある。
「私のことはいいですから、巫女姫の様子を見てきていただけますか? 巫女姫の仕え人から、よく聞いてきてください」
部屋に戻ってすぐに、サリサはリュシュに命令した。彼女は大きくうなずいて敬意を示し、あっという間に出かけていった。
厄介払いである。
どうせ、今夜のことは、明日フィニエルを呼び出して聞こうと思っているのだから。
とにかく、一人になりたかった。
サリサは窓から巫女姫の母屋を見る。
もとより、ここからは巫女姫の部屋は見えない。さらに、ミキアが建てさせ、今はサラがは住んでいる子育て用の小屋があり、かつてのように読書にふけるエリザの姿さえ、もう見ることができないのだ。
「あんまりです……」
思わずサリサは呟いていた。
八角の部屋の闇は、祈り所に似ている。
蝋燭を掲げてエリザの顔を見たとき、会えてよかったという安堵感よりも、予知夢の死者の顔を思い出し、サリサは戸惑った。
だが、笑顔をもって接したのだ。
「お久しぶりですね。お元気ですか?」
などと、あまりにもありきたりな挨拶。反応がないので、恐る恐る触れてみた。だが、まるでピクリとも動かない。
「会いたくてたまりませんでした」
だが、まるで人形のように反応がないのだ。サリサは困惑した。
体調が悪いのか? と思えば、あっけなくそうではないと言う。唯一の反応が、それだった。
そこで今度は、二人の共通点になりそうなマリの話や小茶豆の味、最後には思い切ってエオルに会った話までした。
エリザの手を握り締めたまま、一人でただ空気に向かって話すように、どんどん話を続けた。
すると、エリザはその話の腰を折り、いきなり言ったのだ。
「他の巫女姫と同じようにしていただきたいのです」
それは、まるでサリサの過ごした年月を責めるかのような響きすらあった。
サリサは、シェールには少し甘えて接したかも知れない。ミキアには、慰められたかも知れない。サラには振り回されたと思う。
だが、夜の行為に愛情を持って接することはできなかった。
最高神官といえど、種を守るための道具にしか過ぎない。様々な効能を持つ薬や薬湯を駆使して、まるで作業のような夜を過ごしてきたというのに。
エリザを、同じようには扱えない。
「そんな……」
かつて、心を通わせたように一緒に過ごしたいのに。
それだけを願っていたのに。
「できません」
ムテ人は心で繋がる種族である。
サリサは、全く無反応のエリザを抱きしめた。
かつて抱き合ったあの頃の感覚が戻り、お互いの愛を確かめたことを思い出してもらえれば……。口づけを交わし、苦しみや悲しみは、二人で分け合おう……と誓ったことを思い出してもらえれば。
しかし、エリザの体は痩せこけていて軽く、中味が空ではないかと思うほど頼りなかった。
いや、実際に空だった。
サリサの腕の中で、エリザが漏れていくような……。
その感覚を、サリサは覚えていた。
もうすでに、予知夢で知っていた。
エリザから、まるで羽のない蝶が羽化するように、本当のエリザが分離してゆく。
おろおろとするサリサの手の中で、エリザはただの抜け殻になり、飛べないエリザははるか地へと落ちてゆく。
深い闇の中へ……。
祈り所の地下の墓所へ……。
サリサは耐え切れなくなって、立ち上がった。
そして、そのまますたすたと歩くと、八角の部屋の重い扉を引いて外に飛び出した。
その夜は、もうおしまいである。
そして今、サリサは一人、部屋で苦悩の海に沈んでいた。
「これが報いなら……ひどすぎる」
好きな人を選んだだけだ。
好きな人と一緒にいたいと望んだだけだ。
そのために、できるだけのことはしたはず。
腹立たしいやら、情けないやら、後悔やら……色々な感情がごちゃ混ぜになって、今はただひたすら虚しい。
エリザは確かに霊山に戻ってきた。
だが、サリサの望んだエリザは、まだ祈り所の闇に捕らわれていて、戻ってこない。
――永久に戻ってこないのかもしれない。
=戻れる物・戻らぬ者/終わり=
【銀のムテ人】第二幕了
銀のムテ人 =第二幕= わたなべ りえ @riehime
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