戻れる物・戻らぬ者・9
フィニエルは、その夜の薬湯の調合に悩んでいた。
エリザの好きな瑠璃色が出る調合にすることは決めていた。だが、気分が落ち着くものがいいのか、それとも高まるものがいいのか……。
エリザの複雑な状況につい、悩んでしまう。
できれば、今夜はやめたい。
だが、この状況がいつまで続くのやら……。
医師から今夜、と告げられたとき、エリザは真っ青になってしまった。
しかし、時間が迫ってくると、今度は頭がぼうっとしてきて、何も考えられない。
「エリザ様、体調が悪いようでしたら、今回はお休みしますか?」
いきなりフィニエルに信じられないような提案をされて、今度は山を駆け上がったときのように、心臓が激しく打ち続けた。
「だめ! だめです! せっかくの夜を逃すなんて、そんなことはできません!」
そう。
この夜を逃して、至らぬ巫女とは言われたくはない。最高神官その人に、もう冷たい目では見られたくはないのだ。
今までの巫女姫が果たしてきた仕事を、自分もちゃんとやり遂げて、認めてもらいたい。そのためには、我慢も必要だ。
今までの巫女たちのように……。
子供さえ、できていたら……。
結局、エリザの考えていることは、こればかりだった。
子供ができなかったから、あれだけがんばったのに落ちこぼれ、祈り所に閉じ込められることになった。
綺麗な色の湯に浸かり、エリザはほっと息を漏らした。が、急に祈り所で窓格子に指を絡めている自分の姿が脳裏に浮かび、悲鳴を上げてしまった。
湯気がまるで銀の粒子のように輝く。
その中にいたのは、エリザではなく――立派に仕事をなしえた女たちだ。
エリザの髪を洗っていたフィニエルが、あまりの突然のことに驚いて櫛を落としてしまった。
「あぁ、変な声を出してごめんなさい」
慌てて詫びるが、フィニエルが拾った櫛の歯を見て、吐き気を感じた。
――まるで、檻のよう……。
目の前で、ガシャガシャと柵が降りてゆく。もう、エリザには逃げ場がない。体がお湯の中に沈んでいく。
フィニエルがエリザを湯船から抱き上げた。痩せた体に浮かんだ肋骨が恥ずかしかった。
――見られたくない。
「大丈夫ですか? 少し、横になられては?」
「大丈夫。何ともない……」
エリザは、八角の部屋を覚えている。
だが、暗闇に閉ざされたまるで祈り所のような部屋は、エリザをますます萎縮させた。
重たい黒い扉が、嫌な音を立てた。
「エリザ様、ここは祈り所ではありません。思い出してください。ここであなたは、マリを癒したりもしたのです。けして、嫌な場所ではないはず……」
ひっきりなしに、フィニエルが耳元で囁いてくれる。まるで暗示のように響き渡り、エリザは少しだけ落ち着いた。
だが、壁が闇となり迫ってくるようだ。エリザは、目をつぶった。
――目をつぶれば、すべては闇ですもの。
そう、心も塞いでしまえば、怖くはない。
何も感じなくなっていた。
意識が遠のいている。
まるで心も体も、すべてが動きを止めたように平穏な中に、エリザはいた。それは、死の感覚にも似ている。
「……ですか?」
誰かが話しかけているようだが、エリザは返事をするほどにそこにはいなかった。再び、声がする。
「もしかして、具合がよくないのではないのですか?」
そういえば。
この声は、先ほどから何か、ひっきりなしに話しかけてきていたのだ。
でも、エリザが何も反応を示さないので、不安げに聞いてきたのだ。気が付けば、その人はエリザの手を握っているようだ。
「いいえ、全く」
早くこの時間をやり過ごしたい。
なのに、声の主はしつこいのだ。再び何かを話しているようだ。
なぜ、抱いてはくれないのだろう? さっさと済ませてくれればいいのに。
きっと……私が至らないからだわ。
そこまで未熟だと思われているのだわ。
仕方がない。子供を作れなかったのだから。でも、そんなに責められると、たまらない。
ついにエリザは訴えた。
「他の巫女姫と同じようにしていただきたいのです」
そうすれば、私だって使命を果たすことができるはず……。
しかし、返ってきた言葉は、エリザの期待したものではなかった。
「できません」
それっきり、声の主はいなくなった。
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