戻れる物・戻らぬ者・8
なだらかな坂道を、四人のムテ人の影が登ってゆく。
ゴツゴツとした石がむき出しになっているのは、つい最近までその道が、霊山の雪解け水を運んでいた小川であったことを物語っている。所々、まだちょろちょろと石の間から流れが顔を出し、時に水を好む青草が頼りなさそうに芽吹いていた。
エリザとフィニエル、そして薬草の仕え人ともう一人。午後からの薬草摘みの仕事に向かっていたのだ。
ここしばらく続いている晴天にも、どうにか体が慣れてきた。エリザは、久しぶりの霊山の風に、気持ちよさそうに目を細めた。
祈り所の闇のことは、もう思い出したくはない。今後は、いつもこの明るい日差しの中で生きていたい。それには、果たすべきことを果たし、立派な巫女をやり遂げることが重要である。
今のところ、何の問題もない。祈りの言葉も失敗はしていない。自分でも驚いたのだが、最高神官の力にさえなっているようである。
祈り所にて篭る……ということは、やはりムテの力をさらに磨く効果があったようだ。もうこりごりではあるが。
しかし、それよりもエリザが驚いたことは、かつての霊山とは雰囲気が違うことだ。
確かに、初めてここに来たときは、あまりにも至らなすぎて、霊山の人々全員の冷たい眼差しにさらされていた。だから、余計に霊山のあり方が厳しく感じたのであろう。
だが、今は明らかに軟化していると感じるのだ。
まずは、最高神官からの朝食のお誘いだ。信じられない。フィニエルが、それが今では当たり前になっている……と説明してくれても、エリザには納得がいかない。
その後も、少し気分転換に散歩でもしないか? とか、美しい泉があるから見に行かないか? とか、フィニエルが最高神官の提案を持ってくるたびに驚かされている有様だ。
エリザが知らない間にそれが当たり前になり、巫女姫たちはその誘いに乗って楽しく過ごしたのだろう……と思うと、胸がちくりと痛む。
――私は、子を生せなかった落ちこぼれの巫女ですもの。
だから、何も許されない。
わけもわからず痛む胸の理由を、エリザはそう考えて納得していた。
巫女姫として、立派に仕事をこなして、そして……最高神官の子供さえ産めば、エリザはきっと、すべての苦しみから逃れることができるはず。
「あの洞窟に行ってみましょうか? そろそろ竜香香が芽を出しているはずです」
フィニエルの提案に、エリザはギクリとした。なんだかとても恐ろしいことに感じる。
「では、私たちは向うの草原でタウリ草を集めます」
薬草の仕え人が、フィニエルに答える。まるで申し合わせていたかのように、話がどんどん決まってしまう。
洞窟になんて、行けない! エリザは慌てた。
「待って! 私がタウリ草を集めます!」
残りの三人の目が、きょとんとしてエリザを見つめている。
でも、絶対に洞窟には入れない。そこに入ったら、エリザは毒にあたって死んでしまうような気がするのだ。
「あ、あの……ごめんなさい。私、どうも光のない闇の空間が、まだ怖いのです。もう少ししたら、少しは落ち着くと思うのですが……」
これは、本当のことである。
エリザは、祈り所の闇を感じさせる空間が怖いのだ。夜も一人でいるのが怖い。なぜかしら、うなされてしまう。だから、一晩中蝋燭に火をつけて眠っている。
これはフィニエルにも打ち明けられないことだ。
情けない巫女姫と思われてしまったら、エリザはくじけてしまうだろう。
「エリザ様は、より分けがお上手ですから……残念ですわ。洞窟には行ってはもらえないのですか?」
思いのほか、薬草の仕え人はしつこい。
エリザは、フィニエルの顔をちらりと見たが、彼女はそっぽを向いている。どうやら、エリザの態度をわがままとでも思っているようだった。
「わがままを言ってごめんなさい。私、どうしても……怖いのです。許してください」
声が震える。しかも心臓が激しく打って苦しい。
「それでは、我々がそちらを担当します」
薬草の仕え人が、残念そうに言葉にした。
確かに竜香香と香り苔の選別は難しく、薬草の仕え人としても苦労するところだ。だが、エリザはこれを得意としていた。
「どなたがそれを教えてくれたのやら……」
ぽつりと独り言をもらしたフィニエルに、エリザの頭はぼうっとする。今にも気が遠くなりそうだ。
顔色が引いたのかもしれない。薬草の仕え人が助けてくれた。
「私が教えましたよね? では、また後ほど……」
そういって別れた二人の影は、やがて消えて見えなくなった。
つまり……。
仕え人三人でたくらんだ計画は、見事に外れてしまったのだ。
洞窟で待っていたサリサは、薬草の仕え人の話を聞いてすっかりしょげてしまい、さっさとマール・ヴェールの祠にあがってしまった。
だが――巫女姫と最高神官は、必ず二人になれるときがある。
その夜は、誰にも邪魔されることなく、エリザと話をすることができるだろう。
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