雪下、彼方への願い

芦原 聖

雪下、彼方への願い

 ちらりちらりと夜に散らした白絵の具のように降る雪の下、一人の男が帰路に就いていた。


 裾の長い外套にこんもりとしたマフラーをして防寒に余念がない男だったが、吐く息を白く染め上げるほどの外気だ。たちまちの内に隙間から入り込み、男の身体を冷たく苛んでいく。


「ここは、変わらないな……」


 自身と同じように足早に歩き去っていく通行人を横目に見ながら、男はふと立ち止まった。

 マフラーにうずめたその口から悪態染みた呟きが漏れる。


 この街は男が以前、中学を卒業するまで居を構えていた所だった。

 その後両親の仕事の都合により他県へと引っ越しし、そこからは一度も戻る機会に巡り会うことはなかった。


 それが何の因果か、社会人となった今ある仕事の関係で再びこうして街を歩いている。

 久しぶりに目の当たりにした故郷は男にひどく郷愁を抱かせてならなかった。


「ここがあいつの家で、そこから真っ直ぐ行ったところにあの子の家…。何度も遊びに行ったなぁ」


 ふと立ち止まったコンビニの前で、記憶の中の地図を辿っていく。

 一つ、また一つと記憶を掘り返していく度に自分自身がだんだんと若返っていくような心地だった。


 元気良く中身を吐き出し始めた記憶を頼りに、寒さも忘れ男は帰路から外れ、街を歩いていく。


「曲がってここに駄菓子屋が……、ってさすがにもう無いか。大分歳取ってたからなぁ」


 記憶の中との乖離に嬉しいような寂しいような複雑な感情が沸き上がる。

 この街に帰ってきてから男の内面は、若かりし頃を取り戻したような勢いで揺れ動いていた。


 歳を取る毎に枯れていく感情に気が付いたのは何時の頃だっただろう。

 気付いた時には既に驚くことすら無くなっていた事だけを男は鮮明に覚えていた。


 それがどうした事か、この街では歩く度に何かを感じて、何かを思っている。

 その事がさらに感情を揺らし、興が赴くままに男は記憶の徘徊を続けた。


「ここはーーーー」


 言葉を続けようとして、思わず息を呑む。


 一つまた一つと零れ落ちる記憶を手探りに男が辿り着いた先は、年季を感じさせる古めかしい公園の裏手だった。

 遊具自体は危険防止のためか、その醸し出す雰囲気に比べて新品に見える物が多い。


 一見は何処にでもある何の変鉄もない公園だ。そこにある遊具もいくらか記憶にあるものとの差異はあるものの、男自身この場所で友人と遊んだような記憶が微かに思い出された。


 しかし、男が言葉を呑んだのは何も公園に感慨を覚えたからではない。そこには明らかに今の状況に不釣り合いな異分子が紛れ込んでいたからだ。


「こんな時間に、子供…?」


 公園の片隅、公衆トイレの影に埋もれるように、その少年は立ち尽くしていた。

 暫く様子を見てみるも、しゃがんだり、トイレの壁に背を預けたりと少年は一向にその場を立ち去ろうとしない。


 いよいよ心配が不信を上回った頃、男は事情を聞かんと公園の入り口へと回り込み、少年がいる場所へと足を運んだ。


「君、こんなところで一体何をしているの?」


「――――ここにね、どこか遠くに繋がる扉があるの。だからこうして待ってる」


「――?扉...?アニメの中みたいな?」


 荒唐無稽な言葉に男はただただ困惑を隠せない。少年は男には目もくれず地面の一点を見つめている。まるでそこから少年を別世界へと連れていく扉が現れるのを期待するかのように。


「もう夜も遅いし、帰った方がよくないか?親も心配してるだろうし」


「もうちょっと、もうちょっとだけ」


「そうは言ってもなあ......」


 無理やりこの場から少年を動かすのはひどくはばかられた。このご時世だ、瞬く間に不審者と判断され、警察のお世話となる事間違い無しだろう。


 とはいえ、このまま少年をここに野ざらしにしておくのも気が引ける。男自身、自分を根っからの善人だなどと口が裂けても言えないが、こうして関わった以上見て見ぬふりが出来ないのが日本人というものだ。

 男は静かにトイレの壁にうちかかった。少年の気が済むまで保護者代わりを買って出たのだ。


 それから幾ばくか時間が過ぎた。ちらりちらりと降っていた雪もいつしか止み、ただただ凍えるような冷たい風が吹くばかりとなっていた。その間、少年は飽きもせずにほとんど同じ地面をひたすら見続けていた。


「今日もまた、扉出てこなかったなぁ...」


 唐突に、少年は哀切を滲ませながら呟いた。その言葉に、少年がこうして夜の公園に一人佇んでいるのが今日の事だけではないということがうかがい知れた。


「満足したのかい?」


「満足は出来ないなぁ。扉を見つけるまではね」


「本当にそんなのがあるのか?俺にはそうは思えないけど...」


 つい、本音が零れた。ハッと口を手で覆うも時すでに遅し。口からこぼれ出た言葉は現実を思い知らせるかのように少年へとしみ込んでいく。


「――――あるよ」


 それでも、ただ一言少年は呟いた。

 男の、大人の夢から覚めるような呟きを耳にしてもなお、少年はただ愚直に、己の中の答えに対してひたすらまっすぐに向き合っていた。


 公園を照らす街灯が、ぱちぱちと音を立てて点滅する。夜も大分更けてきたようだった。

 さすがにこれ以上公園にいる事は、男にとっても少年にとっても良くない。ここら辺りが切り上げ時だろう。


「もう、帰らなきゃ」


「そう、だな。さすがに寒くて敵わん。......君は、一人で帰れるのかい?」


 男の問いに、少年はそっぽを向くようにして答えない。先ほどの失言に対するお返しだとでも言いたいのだろうか。

 溜息を吐きたくなるのを堪えて代わりにポッケに入れていた右手で男は頭を掻きむしった。


「あー、俺は帰るぞ?帰るからな?」


「......帰ろう」


「あぁ、それがいい。じゃあ、俺も帰るとするよ」


 ようやく機嫌が収まったのか、反応を返す少年にほっと一息吐き、男は踵を返した。

 どうにも不思議な少年だった。男の根底に何かを訴えかけるような、夜の寒空の下にいてなお、ふつふつと煮えたぎるような情熱を感じた。


 男はそれっきり後ろを顧みることなく、公園の出口へと足を進めていく。

 何か、何かを忘れているような、そんな胸を打つ焦燥を感じながら。


「――――」


 焦燥感が納得に変わるのは一瞬だった。

 公園からいざ出ようと足を踏み出したその瞬間、過去から記憶が膨大な奔流となって現在へと流れ込んできたかのようだった。


「そう、そうだ...。あれは、あの少年は――――」


 慌てて、背後を振り返った。

 少年が先ほどまで佇んでいたトイレの影に向かい、小さく駆ける。


 そこに確かな実像を持っていたかのように思えていた少年はもういない。

 いや、ただ己の夢に向き合い、どこまでも真摯にその実現を信じていた彼が元からそこになど存在していなかったかのように、そこは夜の闇の中に沈んでいた。


「夢を、見たのだろうか。...いや」


 夢ではない。幽霊を見たのでもない。

 ただ、少年はずっと探していた扉を見つけたのだろう。

 そして遠い遠いここまで渡ってきたのだ。


 それは確かに過去から現在に向けた激励だった。


「そうだな、帰ろうか」


 男は公園の片隅でぽつりと呟いた。

 ただ懐かしの故郷で帰り路を歩いていただけなのに、ずいぶんと寄り道してしまっていたようだった。

 

 身を切る冷たい夜風は、もう吹いていなかった。 

 雪を降らしていた雲も、とうにどこかへと消えていき、夜空には冬の星座がきらきらと己を主張している。


 空を見上げる事など、いつ振りだったろうか。男は知らず心中で独り言ちた。

 こうして今深い感慨を抱きながら、空を見る事が出来たのだ。きっとあの少年が公園の片隅で一人寂しく遠いどこかへと繋がる扉を探していたことは無駄ではなかった。無駄なんかじゃなかったのだ。


「明日からは、もっと頑張ろう。うん、あの頃のように、愚直に、意地を張って」


 男は胸の中の熱の赴くままに、やや駆け足になりながら帰途へと就いた。

 枯れていたはずの心は若かりし頃を思い出したかのように瑞々しく、また小さな灯をともしていた。

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雪下、彼方への願い 芦原 聖 @sho_ashihara

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