下之巻

「――、――? ――!」


 昔の、記憶だ。

 わたしがまだ、妖怪になっていない……ただの、普通の、何処にでもいるような子ぎつねだった頃。


 わたしは道に飛び出して、車に轢かれた。

 今にして思えば……どうしてちゃんと周りを確認しなかったんだろう。どうして、迫りくる車に足を止めてしまったんだろう。不思議だけど、ごぅぅと音を立てて走ってくる鉄の塊に、わたしは怖くて動けなくなっちゃったんだ。


 わたしは、道の向こう側に行きたかった。森の外。人間の町。騒がしいけど、たまにいい匂いがして……


 死ぬんだな、って思った。血が出てて、痛いのかどうかもよくわからなくなっちゃって、でもなんだかどんどん寒くなるのは分かって。

 助からないなぁ。やっちゃったなぁ。取り乱す元気もなくなったわたしは、ぼんやりとそんな事を考えながら、ずっと倒れてたんだけど。


「――、――ッ!! ――!?」


 突然、声がした。小さな人間の子どもの声。

 その時のわたしはただの狐だったから、なんて言ってるのかは分からなかったけど。哀しげな、必死な様子で、心配してくれてるんだな、ってことは分かった。

 それがわたしには、嬉しかった。

 もうそれだけでいいや。最後に優しくしてもらえて、良かった……


 *


 ……

 …………

 ………………


「ぅ……ぁ……」

 気が付いたら、わたしは布団で眠っていた。

「……ここ、は……」

 でもその布団は、わたしの布団じゃない。……保健室のベッドでもないみたいだ。

「目、覚めたか」

「……月野、君……?」

 傍らに、月野君がいた。

 沈んだ顔で、わたしを見つめてる。

 ……ええと。

 何が、あったんだっけ。

(そうだ、わたし……)

 熊谷さんに憑りついた羅刹が、月野君を攻撃しようとして。

 それで、わたし、咄嗟に前に出ちゃって……


「そうだ! 熊谷さんは!? あの後どうなったの!? ……ッう!」


 がばり。起き上がったわたしは、脇腹の痛みにびくりと体を震わせた。

「馬鹿かお前、急に起きるから……!」

「いってて……」

 脇腹を抑えると、どうも包帯がしてあるみたいだ。黒いシャツを捲ると、わたしのお腹には、白い包帯がぐるぐるに巻いてある。

「傷はもう塞がってるけど……下手に動くとまた開くぞ。少し落ち着け」

「でも熊谷さんが……!」

「だから落ち着けって! ……一分一秒を争うって状況じゃねぇ筈だから」

「なんで! だってそんなの……」

「俺はお前より羅刹の事を知ってる! ……話してやるから、まだ動くな」

 月野君はわたしをもう一度寝かせて、それからぽつぽつと、その後の事を話してくれた。

 あの後、羅刹の攻撃が直撃したわたしは、気を失って倒れた。

 月野君は咄嗟に札を使って目くらましをして、わたしを連れて逃げてきたのだという。

「血、すげぇ出てたしな。……お前の家は知らねぇし、保健室にも連れてくわけにも行かなかったから、ここへ連れてきた」

「ここ、って……」

 わたしは辺りを見回す。古い、和室。木造かな。ちょっとだけわたしの住んでる神社に似た雰囲気がある。

(……? あれ、ここ……)

 不思議と、懐かしい気持ちになる。わたし、この場所を知ってるような……

「ここは、俺の家だ」

「……月野君の家? ってことは……」

 退魔士の家系の、屋敷?

「わたし、入って良かったの? その、わたし……」

 妖怪、だけど。

 わたしが言うと、月野君は「別に珍しいことじゃねぇよ」とつっけんどんに答える。

「……お前は俺の使い魔だからな。使い魔を部屋に入れるくらい普通だろ」

「そ、そっか。そうだよね……」

 月野君の言い分に納得しつつも、わたしはどうしても緊張して部屋をきょろきょろと見回してしまう。

 だって退魔士の家だよ? 月野君に襲われた事もあって、わたしはちょっと退魔士が怖かったりする。

 そんなわたしをみて、月野君は「安心しろよ」と声を掛けた。

「この家には、他に誰もいねぇから」

「お母さんもお父さんも、出かけてるの?」

「いや……」

 月野君は、そこで言葉を切り、もう一度「いないんだ」と繰り返す。


「二人とも、死んだ。……俺のせいで」


「……えっ、と」

 それは……どういう、事だろう。わたしが返答に困っていると、「羅刹との会話、聞いたろ」と月野君は苦しげな様子で喋り始める。

「そういえば……月野君の事、知ってる口ぶりだったけど」

 五年振り、とか、成長してない、とか、そんな感じのこと。

 こくり。月野君は頷いて、「五年前、アイツは一度俺の両親に封印された」と告げる。


「だが封印は不完全で、その時俺の両親は、俺を庇って死んだ」


 その原因を作ったのは……というより。

「アイツが現れるキッカケを作っちまったのは、俺なんだ」


 *


 五年前の事だと言う。


『おおぅ、坊や。我の声が聞こえるかい』

「誰?」

 声の主は、名乗らなかった。ただ代わりに、『幽霊、みたいなものだよ』と答える。

『苦しいなぁ。苦しいなぁ。坊や、助けてはくれないかぃ』

「……どうしたらいいの?」

 つらそうな声に幼い月野君は心を動かされた。

 話を聞くに、幽霊は大昔、退魔士の術に巻き込まれて成仏出来なかったのだと言う。

 以来、ずぅっとこの町に縛り付けられたまま、何十年、何百年と同じ景色だけを見せ続けられて。

『もう嫌でのぅ、嫌でのぅ。坊や、このしめ縄を少し、緩めてはくれないか』

「……うぅん……お母さんに聞いてからじゃダメ?」

『嫌じゃあ……もう待つのは嫌じゃあ……苦しいなぁ……』

 道場を誘うような、幽霊の声。

 いたたまれなくなった月野君は、その言葉通り、しめ縄を……解いて、しまった。


『ふふ……うははははは! 愚か者じゃ! 愚か者がおったわ!!』


 だがその言葉は、全て嘘だった。声の主は幽霊なんかじゃない。巻き込まれたわけでもない。正真正銘、この地に封印された悪しき存在、名を羅刹。


 復活した羅刹は、そのまま月野君の身体の自由を奪い、自分を封印した月野の家に復讐しようとした。

 月野君を人質同然に取られた両親は……必死に抵抗して、なんとか月野君を取り戻したけど、もうその時点で満身創痍。


 完全な封印を施す妖力は残っておらず、いずれ効果の無くなるであろう不完全な封印を施して、この世を、去った。


 *


「……だから。俺がアイツを封印しなくちゃならない」

 喋り終えた月野君は、唇を噛み締めながら、絞り出すようにそう言った。

(……そっか)

 それを聞いたわたしは、何だか色々腑に落ちた。

 月野君が妖怪を嫌いな理由も、わたしの事を信じてくれなかった理由も。

 ……でも。わたしは自分の身体の巻かれた包帯を、そっと指で擦る。


「月野君って、優しかったんだ」


「……はっ!?」

 何でそうなる!? わたしが褒めてあげると、月野君は慌て始める。

「あ、月野君のそういう顔、初めて見た」

 それが何だか面白くて、ふふ、とわたしは笑ってしまう。だって月野君、教室ではニセ爽やかイケメンだし、わたしといる時は大抵ピリピリしてるし……。

「何笑ってんだよ……。……俺はただ、馬鹿だっただけだろ」

 妖怪なんて信じてさ。そのせいでこんなことになって。


「俺が変に助けてやりたいなんて気を起こさなきゃ、誰も不幸になってないんだ」


 すっかり不貞腐れたように言う月野君に、「そんなことないよ!」とわたしは言う。

「だってわたしは、助けてもらえてよかったって思ってる」

「それなら羅刹だって、馬鹿を騙せて良かったとか思ってんだろ」

「そうじゃなくて~……」

 なんて言ったら良いんだろう。……考えて、わたしは思い出す。


「わたしが人助けしたいのはね、そういう人間の優しさに触れたから……なんだよ」


 夢を、見た。わたしが妖狐になる前の夢。

 わたしは車に轢かれて死にそうになって……でもその時、誰かがわたしを心配して、声を掛けてくれた。

「それがすっごく嬉しくって、嬉しくって。……その後の事は覚えてないんだけどね。気付いたらわたし、森の中にいて。生きてたんだよね。びっくりした」

 わたしは死んだと思ったんだけど、気付いたら森の中に立っていた。優しくしてもらった、暖かい気持ちを胸に抱えて。

「だから、何とか恩返しがしたい! って思ってたら……」

 神社に、辿り着いた。

 古びた神社だ。もう誰もいない。……でもわたしは、その社に大きな力を感じた。

 わたしはその力に祈った。わたしに、ヒトを助ける力を下さい、って。

「そうしたら、神様が答えてくれた。だったら私の元で修行を積みなさい、って」

 それがウカノミタマ様との出会いで……飯綱さんとの出会いでもある。

「……ね、わたしのランドセルある?」

「これか」

 しっかり持ち帰っててくれたみたい。安心して月野君からランドセルを受け取ると、わたしはその中から、一冊の手帳を取り出した。


 古びたその手帳は、善行帖。


「人間の姿で学校に通いながら、これを埋めなさいって、ウカノミタマ様は言ったの。それが出来たら、わたしはあの神社を継ぐんだ」

 そうして、多くの人のお願いを叶える。……恩返しが、出来る。

 はい、と、わたしは月野君に手帳を渡す。

「開いてみて」

 言われるがままに、月野君は手帳を開いてくれた。

 そして、ただ無言でぱらぱらとめくる。

 多くの人の名前と、出来事が、そこには記されている。

「わたしがそうしたいって思ったのは、本当にたった一人の、優しい気持ちがキッカケなんだ。……だから、ね?」


 月野君の優しさだって、きっと誰かを幸せに出来る。


「というか、わたしはなったよ」

 信じてくれて、ありがとう。

 そう言うと、月野君はゆっくりと善行帖を閉じ……俯いたまま、部屋を出る。

「月野君……?」

 肩を落として、月野君は何処かへ行ってしまった。

 千里眼を使えば、ここからでも月野君の事は見られるけど……

(……うぅん、やめとこ)

 何だか今は触れちゃいけないような気がして。ふぅ、と息を吐いて、眼を閉じて、わたしは月野君が戻るのを待つ。


「……悪い。待たせた」


 しばらくして、戻って来た月野君は、手に持った服をわたしに投げつけてきた。

 目元が少し赤くなってるのは、気付かないふりをしておこう。ふふふ。

 ところで、この服は何だろう?

「それ、もう乾いたから返しとく」

「……へ? 乾いたから、って……」

「ああ、血で汚れてたから……」

 投げられた服を、広げてみる。

 うん? これ、わたしが今日来てた服だ。変だなと思って、布団をもう一度めくってみると……

「ああっ! これわたしのシャツじゃない!」

「気付いてなかったのかよ……」

 わたしの叫びに、月野君は呆れたように呟いた。わたしの来てた黒いシャツ、これはわたしのものじゃない。よくよく見てみたらちょっとだけおっきいし!

「つ、月野君のシャツかな、これは……?」

「他にねぇだろ……」

 どきんっ! その事が分かった瞬間、わたしの心臓が跳ね上がる。え、なんで? 何処にドキドキする要素があったのかな??

(……あれ、でも……)

 着替えてる、ってことは、もう一つ。もしかして、わたし……


「ねぇ、月野君? この服を着せたのって……」


「……。それ以上は聞くな。お互いの為だ」


 月野君は顔を背ける。

 かぁっ! と、わたしの頬が赤くなるのを、感じた。


 *


「……もうそろそろ、だね……」



 その日の、深夜十二時。

 布団から起き上がったわたしは、飯綱さんに気付かれないよう、そっと着替えをする。


(熊谷さん、今行くから待っててね……!)


 わたしはこれから、熊谷さんを助けに行くのだ。


(わたしたちで羅刹を倒しで、絶対に熊谷さんを助けてみせるよ!)


 月野君は言っていた。熊谷さんに憑いている羅刹は、まだ完全じゃない。

 妖気が足りないのだ。

『封印の時に妖気を散らされて、今も実体を持つには至ってない。……推測だが、羅刹は熊谷に憑りついてないと消滅してしまうんだ』

 熊谷さんが狙われたのは、その妖気耐性の強さからだ、という。

 人間は妖気に弱いけど、生まれながらに他の人より妖気に強い人間というのがいる。月野君の一族や熊谷さんがそうだ、というのだ。

『熊谷の場合、一族レベルなのかアイツだけ特別なのかは分からねぇけど……それにしたって、限度はある』

 羅刹の溜めた妖気に、流石の熊谷さんも体調を崩した。

 それじゃあこれ以上妖気を溜められたら熊谷さんは死んじゃうんじゃ、とわたしが聞くと、月野君は頷いて、『だが』と続けた。

 もし熊谷さんが命を落とせば、その中にいる羅刹も無事では済まないだろう、と。

 それは逆に言えば、羅刹が復活するまでの間は、羅刹も熊谷さんに危険が及ぶ事はしないだろうという事。でもそれも、今夜までの話だ。

『熊谷の限界が近いからな。その上俺が来て、妖気を除去しにかかってきた。今夜の内に妖気を掻き集めて、多少足りなくても肉体を生み出したい筈だ』

 そうなれば、熊谷さんはどうなるか分からない。

 リミットは妖気が最も強くなる丑三つ時。相手はその時間に復活を狙うだろう。……月野君に言われた事だ。


 わたしと月野君は、その時間までに学校に乗り込んで、羅刹と戦う。


(……熊谷さん……)

 ぐ、とわたしは胸を抑える。熊谷さんが心配だった。

 本当ならすぐにでも駆けつけたかったんだ。でも月野君は、準備に時間が掛かるから一度家に戻れと言った。

「……そういえば飯綱さん、随分簡単に家に入れてくれたな……」

 わたしがあの後家に帰ったのは、七時過ぎ。いつもよりずっと遅い帰りなのに、飯綱さんは深く追求することは無かった。

(いつもなら……もっと、色々行ってくると思うんだけど)

 修行中の身なのに、自覚が足りない! とか。

 神になることよりずっと楽しい事があったのですねぇ、とか。

 嫌味なりなんなりいつもなら言われそうな気がしたけど……まぁ、多分、わたしの演技が上手かったからだろう。

 部屋を出て玄関へ、音のしないように靴を履いて、ドアを開く。


「いってきまぁす……」

「ほほぅ。こんな時間に何処へ行かれるのですか、ヨーコ?」

「うえぇっ!?」


 にこり。

 背筋の凍るような笑みを浮かべて、玄関前に、飯綱さんが立っていた。

「いっ、いぃぃい、飯綱さんっ? どっ、どしたのこんな夜中に!」

「うるさいですよヨーコ。山の中で御近所さんはいないとはいえ、大声は感心しません」

 飯綱さんは有無を言わせぬ口調でそう言うと、「さて」とわたしを睨み付ける。

「もう一度聞きます、ヨーコ。何処へ行かれるのですか?」

「そ、それはぁ……そのぅ……」

 言えない。

 いくら友達を助ける為とはいえ……言えば飯綱さんにバレてしまうからだ。

 人間に、正体を見破られている事を。

「夜遊びは感心しませんねぇ、ヨーコ。……確かに夜は妖怪の時間ですが……貴方はそれ以前にまだ子供です。明日も修行や学校があるのですから、寝てください」

 いいですね、と、飯綱さんは穏やかな口調で圧力を加えてくる。

「それは……えっと、その……」

 どうしよう。咄嗟に上手い言い訳が思いつかなくて、わたしはしどろもどろになる。

 そんなわたしを飯綱さんはじぃっと見つめる。口元は微笑んでいるけど、眼が全然笑ってないよ!

 怒ってる、のかな。飯綱さんは感情が読めなくて、こういう時凄く苦手だ。

(……駄目だ、いい言い訳なんて出てこない)

 考えたけど、わたしの頭じゃ無理。諦めて、話せるところだけで分かってもらおう。

「その、友達が! 友達がピンチで、助けに行かなきゃで……」

「友達、ですか」

 ふむ、と飯綱さんは考え込むように顎に手を添える。

 もしかして、分かってくれる!? 期待したのも束の間、次の瞬間飯綱さんから出た一言は、とんでもないモノだった。


「熊谷ミコトさん、ですね。……悪いことは言いません、諦めてください」

「へっ……」


 どうして、と、思わず口に出た。

 どうして飯綱さんが、その事を知っているの?

 飯綱さんは顎に手を当てたまま、また見透かすような眼でわたしを見る。

 じぃ、と青く光る眼が、わたしを捉えた。まるで蛇ににらまれたカエルみたいに、わたしは動けなくなってしまう。

「大体の事情は知っていますよ。わたしは監察役ですから」

 監察役。簡単に言えば、見張りだ。

 飯綱さんはウカノミタマ様に言われてわたしの見張りをしている神使。……でも、だからって、なんで熊谷さんの事を。

「級友の事だけではありませんよ。月野の末裔……カゲリと言いましたか。あの少年の事も、既に検討はついています」

 飯綱さんはそう言ってわたしの前に膝を立て、立ち尽くすわたしの手首を取った。

 じわり。手首が急に熱を持つ。

(これって……月野君が命令する時だけ熱くなるんじゃ……?)

「簡単な炎熱の術ですね。妖気を注ぎ込めばその分熱くなる。初歩的な術です」

「え、それだけ……?」

 命令に違反すると電撃が走るとか、焼き切れるとか、そういうのないの?

「えぇ。これはただの『暖かくなる』術です」

「そうなのっ!? 月野君わたしの事騙したんだ!!」

 そんな単純な術で脅かすなんて! ……叫んでから、わたしはハッと気付く。

「い、飯綱さん! 謀ったね! 言わせたね! 酷い!」

 自分から白状するように仕向けるなんて! わたしが言うと、飯綱さんは困った顔で苦笑いした。

「ヨーコ、貴方は自分が思っている以上に迂闊な娘ですよ……」

 そこまでハッキリ言ってくれるとは思ってませんでしたよ……。飯綱さんは溜め息交じりに肩を落として、立ち上がる。

「まぁ、それで貴方が命令を破れないと思ったのなら、それは立派な『呪い』ですよ。……と、いうか、仮にも化け狐である貴方が、退魔士とはいえ子供に化かされてどうしますか。貴方は狐の妖怪としての自覚も足りないようですね。心身共に本当に小学生並だ。それだから貴方はいつまでたっても狐火の制御が出来ないで――」

 ぐちぐちぐちぐち。

 始まった。飯綱さんの嫌味コンボだ! 次から次へと突き刺されるダメ出しに、わたしの心がどんどん傷ついていく。

「い、飯綱さん、それくらいで勘弁して……」

「駄目です。……ええ、この際ハッキリ言いましょう。


 貴方は、禁忌を犯したのですよ?」


 禁忌。

 人間に正体を悟られてはいけないという、最初に交わした約束。

「それは……」

 言い訳できない。わたしは月野君に正体を知られた。本当ならその時点で、神になる資格を失っている。

「すぐにでもあの方にご報告差し上げようと思いました。……ですが相手は退魔士。百歩譲って今後の貴方の行動次第では、と思いましたが……」

 貴方の過ちは、それだけに留まりませんでした。

 とても残念そうに、飯綱さんは言う。どうして助けたのですか、と。

「あの時月野の末裔を見捨てれば……貴方を知る者はいなくなる。その上でゆっくりと善行帖の最後の一枚を埋めれば、貴方はそれだけで、神になる資格を得られたのですよ?」

「……。そんなの、おかしいよ」

 飯綱さんの言う事は、最もかもしれない。うん、確かにそうすれば、わたしが狐だって知ってる人はいないし、課題の百八個はクリア出来たかもしれないね。

 でも、それは違う。

「わたしは、人間を助ける為に神様になりたかったの。……目の前で傷つく人をほっとくんじゃ、意味ないよ」

 それは本当にわたしのなりたいものじゃない。

「しかし貴方が神となれば、その力でもっと多くの人間を救えたかもしれない。たった一人二人の犠牲で、です。貴方はそれをふいにした。その自覚がありますか?」

 想像してください、と飯綱さんは言う。考えて、天秤に掛けろ、というのだ。

「貴方の級友の状況も概ね理解しています。あの薄汚れた悪鬼が、やがては貴方のご友人を殺してしまうだろうと言う事も。……けれど貴方は妖怪です。そして神になられる方です。一人や二人の人間に、そう執着する必要がありますか?」


 もう一度言います。


「貴方は、その選択で、将来救える数千の人間を見捨てたのかもしれないのですよ」


「……っ」

 なだれ込むような飯綱さんの言葉に、息が、詰まる。

 確かにそうかもしれない。……飯綱さんの言っている事は正しいのかもしれない。……本当はそうした方が良いのかもしれない。


 間違った選択を、しているのかもしれない。


「……なんて、思うわけないじゃん」

 ぽつり。呟いて、ふふっとわたしは笑う。

「ごめんね、飯綱さん。飯綱さんの言ってること、間違いじゃないとは思う。……思うんだけど、一個だけ、間違ってること、あるよ」

 一人や二人の人間に、執着する必要があるか、だってさ。

「人数じゃないんだ。わたしは、目の前で困ってる人を助けたいだけ」

 熊谷さんは苦しんでいた。月野君は力が足りなくて困ってる。

 たとえそれでわたしが神様になれなくなるんだとしても……


「見過ごしたら、嘘になっちゃうよ」


 人を助けたいっていう、わたしの気持ちが。

 嘘を抱えたまま神様になるんじゃ、やっぱりそれは違うもん。

「わたし、行くよ。飯綱さんが報告するっていうなら、してもいい」

 神様になるのは諦めてでも、今わたしは友達を助けるよ。

 はっきりと宣言すると、飯綱さんは数秒、わたしの眼を見つめて……


「……分かりました。行ってください」


 はぁ。微笑んで、そう言ってくれた。

「でも、必ず戻ってくるのですよ。例え神になる資格を失ったとして……」

 私は貴方が心配です。飯綱さんは、眉を寄せて呟いた。

「……! 飯綱さん、わたしの事心配してくれるんだっ!?」

「当たり前ですよ。どうしてです?」

「いやてっきり、飯綱さん、仕事で仕方なくやってるのかなぁって思ってたから……」

 あんまり感情を表に出さない飯綱さん。口を開くのはわたしにぐちぐち言う時だけ。だからてっきり、あんまり大事に思われてないのかなぁ、なんて、思ってたのに。

「伝わらないモノですねぇ……」

 不思議そうに飯綱さんは零す。私は貴方の事、結構気に掛けてるんですよ、と。

「出来の悪い子ほどかわいい、と言いますしね」

「……出来、悪いんだ……」

 それは聞きたくなかったなぁ……。

「いえ、まぁ、能力的には、ですよ」

 誤魔化すように言ってから、「申し訳ないですが」と飯綱さんは続ける。

「私は悪鬼の件について、関わる事は出来ません。今はまだ人里の問題ですしね。……ですがこれ以上、貴方を止める事も致しません。……頑張ってください」

「うん、頑張るっ!」

 わたしは飯綱さんに大きく手を振って、階段を駆け下りた。


 ぶわりっ! その最中、わたしは変化のリミッターを外し、耳と尻尾を露わにする。

 夜中だもん。あんまり見てる人はいないし、神様になる資格はもうなくなっちゃった。


「全力全開で、行くよっ!」


 *


「『……ぬぅ、来たか』」


 深夜の体育館。

 月明かりさえも照らさない真っ暗闇の中に、ぼぅ、と数個の火の玉が浮かび上がった。

「羅刹!」

 火の玉に照らされ、声をあげたのは月野カゲリ。その姿を確認すると、羅刹はふんっと馬鹿にしたように笑った。


「『お前か。懲りもせずよぅ来たものだ。そんなに我が憎いか?』」


「ああ、憎いね」

 月野君は言う。心底憎らしい。両親を殺したお前を、絶対に許すつもりは無い、と。

 でも。

「それだけでここにいるわけじゃねぇよ」

 敵討ち。そういう気持ちが無いなんて言ったら、嘘になる。

 でもそれ以上に、今ここにいるのは、何の罪も無いクラスメイトを助ける為だ。

「返してもらうぞ、そいつを」

「『ふん。……親子揃って、いいや一族揃って、言う事は変わらんなぁ』」

 退魔士はみんなそうか? 関係も無い誰かの為に必死になって、馬鹿馬鹿しい。

 羅刹の言葉に、月野君は「そうでもねぇよ」と返した。

「俺だって馬鹿馬鹿しいとは思ったけどな。お前みたいなやつ助けちまって、あげく父さんや母さんが死ぬ目に遭って。……でもな」


 誰かを想う気持ちが、馬鹿馬鹿しいわけあるか。


 月野君はそう叫んで……暗闇の中、火の玉と共に駆け出した。

「『破魔の符よ、邪悪な気を斬り裂き祓え!』」

 呪文と共に投げた符は、大きく弧を描き左右から羅刹へと迫る。

「『小賢しい!』」

 だが羅刹は熊谷さんの身体を操り、両腕に妖気を固めるとそれを投げ、符へとぶつける。

 ぶつかった符と弾は、大きく音を立て共に崩れ去る。……だけど妖気はこの体育館中に充満している。相手の弾数は無限大だ。

「ちっ、やっぱ夕方より増えてんな……!」

 周囲の妖気を集めたんだ。でも、結界がある。

 町から吸えた筈の妖気は、ここには無い。

 それに羅刹は未だに熊谷さんの肉体を使っている。ってことは、まだ必要な量が集まってないってことだ。

 絶え間なく札を投げ続け、その間、月野君は着実に羅刹との距離を詰めていく。

「『貴様、またあの札を狙っているのか?』」

 だが無駄だ、と羅刹は叫ぶ。

 お前の妖力風情では、我に傷一つ与える事は出来んのだ!


「……確かにな」

 月野君は言う。彼は退魔士だが、持っている妖力はそう強くなかった。

 所詮は人間。それも子供。……そんなところだろうか。

「だけどそんなもん!」

 お札を投げる。また攻撃か、と羅刹が身構えた瞬間、かあっと札は強い光を放った。

「『ぐぅっ、眼がっ!!』」

「お前が人間の眼を使ってるのは分かってる。そいつは熊谷の身体だからな!」

 だから目くらましは効く。力が足りないなら、知恵を絞ればいい。

「侮ってくれるなよな。……喰らえっ!」

「『ぬ、しまっ……!』」

 光が消え、眼の慣れた頃には、もう遅い。

 懐まで潜り込んで、札を手に、熊谷さんのお腹を狙って。

「『甘いわっ!』」

 だが羅刹は、目の前に来られる事は想定済みだったらしい。

 両手に作った妖気のボールを、目の前へと投げつける。


「……ふふっ」


 それを、『わたし』は、

「甘いのはそっちだよ、羅刹っ!」

 跳躍して、回避する。

「『なっ……お前は……!?』」

 姿は確かに月野君。でもね、わたしは本物の月野君じゃないの。

「残念でした! 変化解除!」

 ばふん! 煙を立てて、わたしは耳と尻尾の生えたいつもの女の子の姿に戻る。

「月野君だと思った!? わたしは化け狐のヨーコ! 化かされちゃったね!」

 ふふん。すたっと着地を決めながら、わたしは渾身のドヤ顔を披露してやった。

 そうです、変化の術です!

 わたしは一度見た人間なら、その姿を真似る事が出来るんだよ!

 まぁ、月野君にやった時は騙されなかったから……

「羅刹、あなたより月野君の方がずぅーっと頭が良いんだよ!」

 だから、弱い弱いって馬鹿にするのは、止めて。

「『ぬぅ、しかしあの声は――』」

「あの声って、この声か?」

 狼狽える羅刹の背後から、低い男の子の声が、響く。

「『しまっ――』」

「『破邪の符よ、その身に宿りし邪悪を取り除け』!」

 羅刹がもう一度反応するより速く、月野君の札が熊谷さんに届く。

「『だっ、だぁが! お前の妖力では、我には――』」

 ふふは、と笑いかける羅刹に、「それも違うんだなぁ」とわたしは勝ち誇る。

「『何っ!?』」

「これ、なーんだ」

 言いながら取り出したのは、一枚のお札。その図柄を見て、羅刹はハッと声を上げる。

「『まさか、結界か!』」

「正解っ!」

 答えつつ、わたしは床にその札を貼り付ける。

 瞬間、羅刹を取り囲むように、更に三つのお札が光り輝き、四角い線を描く。

「さっき既に貼り付けてたんだよっ」

 攻撃札の合間に、月野君が投げていたのだ。

 こんなに暗い体育館。それも妖気で薄暗い中、火の玉に注意を逸らされて。

 それで気付けるはずが、無いよねぇ?


「結界、起動!」


 そして結界に注ぐのは、月野君の妖力じゃない。わたしの妖力だ。

「言ってたよね、羅刹。『あの結界は厄介だ』って」

 聞き逃してないよ。月野君の術は威力が足りないのかもしれないけど、わたしに使えるこの術を、狭い範囲に濃縮すれば……!

「『ぐあぁああッッ!!』」

 羅刹が、苦しみもがき始める。結界の力で妖気が弾かれ始めたんだ。

 そうすると、月野君の退魔札がようやく力を発揮し始める。熊谷さんの身体から、黒いもやもやがどんどん噴き出していった。

「『ぐぅぅ、こんな、ガキどもにぃ……!』」


「『取り除け』!」


 もう一度、月野君が呪文を唱える。すると……がくん。突然羅刹は、いや熊谷さんは、ふらりと力を抜き、倒れる。

「あぶないっ」

 咄嗟に抱きかかえてから、ハッとした。これ、もう大丈夫だよね? 羅刹入ってないよね?

 恐る恐る顔を覗き込む。

 熊谷さんは……何処かすっきりしたような、顔で、眠っていた。

「よ……」

 胸に手を当てる。どくんどくん、ちゃんと心臓は動いている。息は? してる。体温もある。無事だ。大丈夫だ。熊谷さんは……!


「良かったあぁぁああ~!」


 安心して、わたしはなんだか緊張が解けてしまい、わぁわぁと泣き叫んだ。

「おい……」

 それを見て、月野君は苦笑する。でもその顔も、何だか嬉しそうで。

 良かった。これで終わったんだ。

「月野君~……ありがどぅ、作戦考えでぐれでぇ~」

「お前、泣くか喋るかどっちかにしとけよ……顔ヤバいぞ……」

 呆れながら、月野君はハンカチを手に、わたしの前にしゃがみ込む。

 暗闇で隠して、数段仕込みで騙して、結界を使って弱らせて弾く。

 全部、考えたのは月野君だ。考える時間と、わたし用に調整した札作りで、遅くまでかかっちゃったみたい。

「ほら、顔拭けよ……」

 熊谷さんを抱きしめながら、わたしはされるがままに顔を拭かれる。

「うぶぶ……」

「……それに、礼を言うのはこっちだ」

 涙を拭いて、月野君はわたしの頭にぽんと手を置く。


「俺一人じゃ羅刹を封じる事なんて、出来な――……!」


「……月野君?」

 がふっ。

 月野君は、言葉の途中で咳き込み、がくりと腕を垂らす。

「く、そ……」

 その身体には……細い、剣のようなものが……突き刺さっていた。



『ぬぅぅぅぅぅーーーーむ』



 そして響く、野太い声。がしゃん! ガラスが割れるような音がして、光り輝く結界が、消滅する。


『全く、危ない所だった。よもやこれほど追い詰められるとは、のぅ……』


「……なん、で……」

 鬼が、いた。

 月野君の背後には、紅の肌に角を持ち、細い刀の様なものを持った、大男が、一人。

『何故、と? ふむ、簡単な話だ。我は既に肉体を生み出す程の妖力を溜めておった』

 ちぃと欲を掻き過ぎたなぁ。そう言って、鬼は下品に顔を歪め、笑う。

 悪鬼、羅刹。これがこいつの、本当の、姿。

『まぁ良い。まぁ良い。そこな月野の末裔を痛めつけられただけ、良しとしようではないか』

 羅刹はそういうと、わたしに背を向け、立ち去ろうとする。

「待って、どこ行くの!」

『どこ? ……さてのぅ。まぁ、ひとまず適当な町でも襲うて妖力を高めるかの。このままじゃちぃと物足りん』

「……行かせない」

 ごめんね、と囁いて、わたしは熊谷さんを床に寝かせる。


「お前は絶対、行かせないっっ!!」


 身体がかぁっと熱くなる。許せない。絶対許せない。

『ほーぅ。戦う気か。お前、戦う意味があるのか。同じ妖怪で』

「友達に酷い事した! それだけで十分だよ!」

 ぐるる。わたしは唸る。歯は鋭く光り、爪も鋭利に伸びる。

 ごうっ! 両の手に、わたしは狐火を吹き上がらせた。燃え盛る狐火が、体育館全体をオレンジ色に染め上げる。


「狐火、全開!」


 わたしは吹き上げた狐火を、数個の火炎弾にして撃ち出す。

『ぬるい』

 羅刹はそれを手にした刀で切り払い……ぐっ。体を跳ねさせて、一挙にわたしとの距離を縮める。

『なればまず、貴様の妖気を喰らう事としよう!』

 切っ先が、わたしを狙う。

 でも遅い。全然遅いよ、そんなの。

(千里眼!)

 ぎらり。わたしの両目が紅に光る。

 近くから。遠くから。上から。下から。横から。あらゆる方向から見た斬撃の映像が、わたしの脳内に雪崩れ込む。苦しい。でもそんなの知らない。

 すっとわたしは身を引いて、斬撃を避ける。そのまま、刀を握る羅刹の拳に、狐火を纏わせた手刀を叩き込む。

『ぐぬぅっ!』

 衝撃と熱で、羅刹は唸り、刀を持つ手が緩む。その瞬間を見逃さず、わたしは尻尾を使い身を翻らせ、刀に蹴りを入れ、弾き飛ばす。

 弾かれた刀は妖気となって霧散した。これで羅刹の身体はがら空き。

「許さない!」

 蹴った足が地面に着いた瞬間、もう片方の足で、わたしは羅刹の腹を蹴る。ずどん! 大砲でも撃ったみたいな鈍くて重い音が聞こえた気がする。

『ぬぉぅ!』

 羅刹が吹き飛んだ。でも足りない。わたしは両脚に狐火を纏わせて、そのまま跳躍する。


「『逆巻け、狐火! 邪悪を全て灰に帰せよ!』」


 そして中空から、羅刹へ向けて巨大な火球を――月野君には撃てなかったそれを、容赦なく叩き込んだ。

『ぐぉぉぉぉぉお!!?』

 火炎に包まれ、羅刹は悲鳴を上げる。

『この、力……何故だ、これは……!?』

 断末魔、何かを言いながら、羅刹はどんどん燃えて、小さくなっていく。


『そうか……貴様……狐……ふははははははは!!』


 そして羅刹は最後に、大笑いしながら……消滅した。


「……」


 わたしは床に降り、羅刹の消えた跡を見下ろす。

 今度こそ、本当に消えた。

「……そだ、月野君……!」

 慌てて振り向く。月野君は大量の血を流して、床に倒れていた。

「ど、どうしよう、わたし……!」

 何をどうしていいか分からなくて、わたしは困惑する。ああ、どうしよう、月野君が死んじゃう!

「……いや、死なねぇから……」

 その時、か細い声がした。誰!? あたりをきょろきょろ見回すと、ぐい、とシャツの胸元を引っ張られた。

「俺だ。……まだ平気だ」

「月野君! 生きてたの!?」

「勝手に殺すな……」

 っていうか死んだって思ってなかったろお前、どういう事だよ……

 消え入りそうな声で文句を言いながら、月野君は、はは、と笑った。

「格好つかなかったなぁ……悪い、最後油断して……」

「いいよ! そういうのいいよ! ホントにこれから死ぬ人みたいだよ!」

 ドラマとかで観たことあるよ! だから辞めて!

 わたしが叫ぶと、なら、と月野君は、ポケットの一つを指さした。

「使って、くれ」

「使えって……このお札!?」

 ごそごそと探ってみると、中にはお札がある。それきり月野君は、気を失ってしまった。


「使えって……いや、やろう!」


 どういう札か、どう使うのか、全然聞いてないけど……

(……なんだろう、なんでか分からないけど、分かる気がする)

 わたしはそれを月野君の胸元……傷に張り付け、ありったけの妖力を、注ぎ込んだ。

 自分の力がどんどん移っていくような感覚。力が抜けそうになるけど、わたしは堪えて、しばらくの間、注ぎ続ける。

「……っ、はぁ、はぁ……」

 札が、薄く光る。

 光った札は妙に温かくて、わたしはその温かさを、知ってる気がした。

 何処でだろう。妖力を注ぎながら考えて……わたしはふっと思い至る。

「そうだ、あの後……」

 子ぎつねだったわたしが、車に轢かれた後。

 薄れた意識の中、そういえばこんな温かさを、感じたような、気がする。

(……でも、それじゃ……)

 もしそうなら、わたしはこの術を使ってもらって助かった、ってこと?

 使い方が何となく分かるのも、その時術を使ってもらったから?

 だとしたら……あの時わたしを助けてくれたのって。


「……月野、君、だったの?」


 呼び掛ける。ねぇ、と。けれど気を失った月野君から、返事は無い。

 やがて血は止まり、低かった月野君の体温も、普通になって来た。

 きっと助かったんだ。わたしは手を休めて、はぁぁと息を吐く。


 なんだかとっても、くたびれた。


(あ、駄目だ……)


 意識が持たない。ふわぁっと、わたしはそのまま、月野君の隣に、倒れてしまって……


 *


 真っ暗な闇の中、点々と光る階段と、何百個も連なる朱塗りの鳥居。

 わたしはそこを、ただひたすら登っていた。

 疲れは、しない。だってここ、現実じゃないもん。


「夢、なんですよねー?」


 上に向かって、わたしは叫んだ。

 その通りです、と、声が返ってくる。……いや、声もしてないな、これ。

 わたしの頭に直接言葉が入ってくる感じ。じゃあ登んなくてもって思うんだけど、やっぱりこれ、登った方が良いのかな。

『登ってください』

「うぅん……疲れないからいいんだけどさ……」

 延々と登るのって、結構嫌だよ?

 そう言うと、声は『そういうものです』となんだかよく分からない答えを返す。

「そうなの? ……なら諦めます」

『それよりも、ヨーコ。貴方はここに呼ばれた意味、分かっていますね?』

「うん。……修行の事、だよね、ウカノミタマ様」

 わたしの声に応えているのは、ウカノミタマ様……わたしを神様にしてくれると言った、現役の稲荷神様だ。

 修行を言い渡された時もこんな場所を通ったから、覚えてる。

 ウカノミタマ様は、姿を見せない。喋れるのは、夢の中だけ。神様だから、なのかどうかは、わたしがまだ神様じゃないから、分からない。

「ごめんなさい、ウカノミタマ様。わたしは百八個のお願いを叶える前に、人間に正体がバレちゃった。だから……破門、ですよね?」

 破門っていうのは、追い出されること。修行は失敗したんだもん。わたしはウカノミタマ様の元から追い出されるんだろう。

『そうですね。確かに貴方は人間に正体を見破られました。通常なら、これは許しがたいものです。ですから、貴方を神様にする事は、出来ません』

「……はい」

 わたしは頷く。飯綱さんも言ってたもん。仕方ない、って思う。

 やっぱりどう考えても、神様になるために友達を見捨てるなんて、出来ないもん。


『ただし』


「……?」

 ウカノミタマ様が言葉を続けたから、わたしは首を傾げた。まだ何か、言う事があるのかな。

『貴方はもう一つの課題……百八個の願いを叶える、という事に関しては、既に完了しています』

「え?」

 待って、それはおかしい。

 だって最後の一個は、まだ誰にも……



『ですから、貴方には新たな修行を授けます。……もし仮に、それを熟す事が出来れば、貴方を神様にしましょう』


「え、ちょっと待ってください! 最後の一ページって――



 *


「はっ!」


 気付くとわたしは、自分の部屋の布団の中にいた。

 今度こそ自分の布団だ。月野君の家じゃない。でもなんで。

「私が運びました。全員、ね」

 と、いつの間にか部屋の入口に立ってた飯綱さんが、にこりと笑って告げる。

「それより、沙汰が下ったのでしょう。ウカノミタマ様は、なんと?」

「うん、それがね……」


 *


「おはよ、ヨーコ!」

「あ、おはよう熊谷さん! もう学校来て平気なの?」

「平気平気。そう何日も休んでらんないって!」


 あれから数日後。

 学校はすっかり平穏に戻っていた。休んでいた子達も、少しずつ回復して戻ってきている。

「おはよう、稲荷さんっ」

「う、あ、おはよう、月野君……」

 月野君も、勿論いた。しかも教室では相変わらずのニセ爽やかイケメンを演じている。

 実際顔もかっこいいから、秘かにファンが増えているというけど……

 じわり。わたしの手首が熱くなる。斜め後ろの月野君を見ると、月野君は冷たい眼でわたしを見て、小さく頷いた。

 また呼び出しか……。はぁ。わたしは心の中で溜め息を吐く。


 *


「遅いぞヨーコ」

「しょうがないでしょ! 今日も係の仕事してたんだから!」

 カゲリは厳しすぎだよ! わたしが訴えると、月野君はハンッと馬鹿にしたように笑う。

「こんなんで厳しい? それで俺の使い魔やってけんのかよ」

「うるさいなー! ウカノミタマ様に言われたからって調子のらないでよもう!」

 そう、なのだ。

 あの事件の後も、何故だかわたしは、月野君の使い魔をやらされているのだ。

 それもこれも、ウカノミタマ様の言い出した新しい修行のせい。

「善行帖埋めなおしだってあるんだから、そういうカゲリの手伝いばっかりしてらんないよ……」

「それはそれだろ。こっちも条件の一つなんだから、しっかり働いてもらう」


 神様になるための、新しい修行条件。

 一つは、善行帖全百八ページを、『最初から』埋め直す事。

 もう一つは……不本意だけど、月野君の使い魔として、そのお手伝いをすること。


「大体カゲリだって、わたしに命救われた身なんだから、そこはもう少し譲歩して……」

「……あー、それ言うか。普通言うか。恩着せがましいぞヨーコ」

 その御蔭か、素の月野君と話す機会も増えて……今では下の名前で呼び合ってるけど。


 あ、そうだ。これも忘れちゃいけない。

 カゲリ以外の学校の人には、絶っ対に正体を知られてはいけない!


 つまり、この主従関係も秘密、ってこと。

 なんか、前よりずっとハードになってるよねぇ、これ……。


 ちなみに、前の善行帖は、今も大事に取ってあるんだよ!

 特に最後の一ページが、わたしのお気に入りなんだ。


 *


『助けてもらった。……気が楽になった。

 ありがとな、化け狐。      月野カゲリ』

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狐のヨーコの神さま修行! 螺子巻ぐるり @nezimaki-zenmai

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