第11話
珠耶が苦労に苦労を重ね、災害に襲われた国を歩き、やっとの思いで沙地の王宮に帰りついた時、すべては終っていた。
王宮は半壊していた。
一番被害が大きかったのは、どうもここだったらしい。すでに、近くに多くの仮小屋が建てられている有様である。
竜の力におののいて風輪は去っていったというが、これではあんまりではないか? 珠耶は呆れてしまった。が、復旧作業を仕切っているのが夫と知って珠耶は涙を流して喜んだ。彼は一時的に捕虜になっただけだったのだ。
今や実質上も女王となった紗羅が、笑顔で珠耶を迎えてくれた。だが、その顔は蒼白で、かつての笑顔ではなかった。
気丈な態度。しかし、明らかに何かがおかしい。
まだまだ弱っている体でありながら、何かを忘れるように女王として振舞っているようにも見えて、痛々しかった。
紗羅の前で夫の無事を喜ぶのは、酷だったかも知れぬ……と、珠耶は悔やんだが遅かった。
怪我人は多くでた。だが、これだけの大災害でありながら、死人はわずか二名だけ。
まさに奇跡。神の御業。誠に信じられない話である。
その死者とは……。
風輪の王と竜人の流緒であった。
天を引き裂き地を割った竜神は、去っていった。
そう風輪の国の記録には残されている。しかし、真実は沙地の国の人々にしか知られていない。
岩屋奥に再び現れた古の地底湖――その清らかな水中に、流緒の亡骸は埋葬された。
厳かな葬儀であった。
真白の衣装に身を包んだ人々によって運ばれる棺。竜人の亡骸は、杉材の棺に納められ、色彩豊かな花々で囲まれた。当人が生きている間は、自ら手折ることもできなかったような光の世界の――手の届かぬ花々である。
すすり泣く声があちらこちらから漏れ、岩屋に響き渡り、やがて大音響となる。まるで国中が悲しみに包まれたかのよう――死して初めて、流緒は王族として愛されたのだ。
紗羅は自ら冷たい地底湖の中に入り、人々が見送る中、たった一人で流緒の棺に付き添った。
棺は船のようにゆらりと水に浮いた。紗羅が身を預けると、かすかに傾き、流緒の穏やかな死に顔がこちらに向いた。
ぐるりと裏返る眼球はすでに動くことはなく、瞼の奥で眠っていた。元々透き通るような肌はますます白く、色が失われていた。紫に染まった唇からは、赤い舌が覗くこともない。
あれほど人々に忌み嫌われたものも、今となっては何一つ見出せない。死に顔はまるで人だった。頬も唇も氷のように冷たかった。
紗羅の顔も死人のように凍りつき、涙のひとつも出なかった。兄の冷たさを指先で味わい、そして、息を漏らすこともない唇に口づけした。
甘美な夢――それは、もう訪れない。
底の栓を外すと、棺の中に花が湧き出るように水が満ちてくる。流緒を乗せた棺はゆっくりと水の中に沈んでゆく。添えられた本物の花が水面に浮かび、白髪がふわりと広がった。
流緒の青白い顔が、水面で揺れ、青みを増していった。ゆるりと……遠くなる。水面、水中、そして、水底へ。
ゆるり、ゆるりと――。
やがて水の中へと溶けこむように、その姿が見えなくなるまで、紗羅は冷たい湖の中で、見送り続けたのだった。
人は悲しみを忘れるもの――
だが、紗羅の場合は違った。
風輪が去った後、七日。
珠耶が帰ってくる頃まで、紗羅は女王としての職務に埋没していた。
しかし、徐々に王宮が建て直され、国の形が現れ、国民の表情にも笑顔が戻ってくる頃になると、彼女は物思いにふけることが多くなった。
十四日も過ぎる頃、珠耶が声をかけても返事がなくなった。そして、風輪との新しい和平がなった後には、信頼の置ける者に政を任せ、ふらりと岩屋に出入るようになった。
そして、ついに二十日も過ぎる頃、紗羅は岩屋に篭ってしまい、地底湖のほとりで一日を過ごすようになったのである。
死装束の白。染め粉が落ちた髪は、すでに漆黒の輝く髪ではない。老婆のごとくの白髪となった。そして瞳も、群青は失われた。
珠耶をはじめ、人々は、やがては心の傷も癒えるだろうよ……と語り合い、しばらくそっとしておいた。しかし、それが三十日を越える頃になると、さすがに誰もが心配した。
――紗羅様は気がおかしくなられたのでは?
とはいえ、竜神の末裔である紗羅以外に王位につける者はいない。
時に悪い噂が囁かれたが、珠耶はそれをたしなめつつ、不安におののきながらも、紗羅の食事を岩屋に運び続けた。
『我々……紗羅と私は二人で一人。共にあって幸せも不幸も分かち合う運命なのだ』
流緒の言葉が珠耶の頭に響いていた。
ほとんど手がつくことのない紗羅の食事を下げる日々を送りながら、珠耶は嘆いた。
「流緒様は、死して紗羅様を呪い殺すおつもりか……」
紗羅は、かつての流緒のように岩屋で寝起きして、かつての古の竜巫女のように、地底湖で一日を過ごしていた。
最後に食事をした日を忘れた。地底湖の水を飲むだけだった。
陽光を最後に見た日も忘れた。紗羅の肌は真白になった。流緒が背負った悲しみを、すべて奪い返して身に帯びたかのようだった。
これを――人は気狂いと呼ぶのかも知れない。
だが、紗羅は、悲しみで気が狂うような女ではない。
聡明であり、幼き日々より伝承を調べて日々を過ごした。あらゆる知識を身につけた。それは、兄を救うための日々であった。
何一つ、変わることはない。
こうして兄が失われた今も、紗羅にとっては兄を救いたい日々なのである。気が狂ったのでも変わったのでもない。
ただ今まで、あまりにも堪えすぎていた。
悲しみを感じてはいけない、泣いてはいけない、紗羅は常に幸せな王女でなければならなかったのだ。
流緒を失った悲しみに浸る自由くらいは、許してもらいたかった。
そのわがままを言うほどの勇気が紗羅にあれば、流緒を孤独のままに死なせずにすんだはずである。
兄の際の言葉が思い出される。
――あの死に様を、満ち足りた……と言うのだろうか?
いや、違う。
流緒と紗羅は二人で一人。互いに互いを受け入れて、ひとつのものとなれたはずだった。
流緒が死んで四十九日目。
紗羅はいつものように地底湖の冷たい水を手にすくい、飲もうとした。
すると……。
それは、間違いなく紗羅自身の姿である。が、その顔は違った。
真白の髪、そして、血の目。明らかに竜人の女であった。
――待ち人が来た。
紗羅の心臓は激しく鼓動を打った。
「竜巫女……?」
女はにやりと妖しく笑った。
水を手にすると、水面は激しく揺れた。竜巫女の姿は消える……が、澄めば再び現れる。
紗羅が瞬きすると、竜巫女はぐるりと眼球を回して見せた。
――待ち人が来た。
紗羅は、喉まで上がりそうな心臓を押さえた。
そして、地底湖の中に歩を進めた。
かんざしをはずし、真白の髪を下ろす。そして、帯を外し、白い死装束の衣装も脱ぎ捨てた。
真白の皮膚が水面に揺れる。脇に鱗が輝いた。
紗羅は、まさに生まれたままの姿になって水の中へと歩を進めた。
――入水。
足。太腿。腰。
さらに水の中へと歩を進める。
乳房。項。唇。
さらに水の中へと……。
額。頭。そして、髪の毛の先端までも。
紗羅のすべては水に没した。
紗羅は、人であることを捨てたのだ。
紗羅に流れるは、竜神の末裔の血。
日の中、人間の中で暮らせば、竜人の血は眠り続ける。だが、竜人として闇に暮らせば、その血は目覚めよう。
絡みつくような口づけを竜人と交わし、古の地底湖でその水と戯れ、その水を飲み。
――紗羅の中の血は、古の竜巫女として蘇った。
かつて――
沙地の国の王族は、脈々と竜神の血を守り続けていた。
竜巫女といわれる歴代の女王は、人前に姿を現すことすら嫌ったが、類稀なる力を発揮し、時に
冷たく澄んだ水の中、紗羅は水底へと降りてゆく。
ゆるり、ゆるりと。
「流緒」
その名を呼ぶ。
死人を蘇らせる竜巫女の力を持って――
その名は水の中に溶け、ゆるり、ゆるり……と降りてゆく。
闇の世界まで。
そして、冷たく暗い水底に眠る竜人の眠りを覚ますのだ。
水に白銀の髪が揺れていた。
それは、まるで岩に根付いた藻草のように、かすかな水の動きにそっていた。真白の手も足も、今や水に抱かれた月石のように、ぼうと光を放つだけ。紅玉の瞳は固く閉じられていた。
だが、永久に眠るはずの彼の体は水底を離れた。きらきらと輝く水面に向かって――
ゆるり、ゆるりと……。
耳にかすかに音が届く。懐かしくも愛しい声。
る・お……と。
流緒はゆっくりと目を開けた。
くるりと……紅玉が回ったとき、そこから漏れた熱い水が冷たい水に混じりあい、小さな泡となって、水面に向かって上っていった。
その泡を追って、流緒はゆっくりと上昇してゆく。
ゆるり……と。
水面に煌く光は、かつて憧れた日の光にも似て――流緒は名を呼ぶ。最初は小さな声で、やがて少し大きな声で。
しゃ・ら……と。
流緒の唇は言葉を紡いで揺れた。何度も何度も、名は水に溶けた。
人ならぬ竜人の目が、人ならぬ少女の姿を見とめるまで。そして、その手に抱くまで。
いや、その後も――
互いの名は耳元で熱い吐息となって、何度も繰り返されることだろう。
*****
これは、昔の伝承にすぎない物語。
異国では迷信とされている言い伝えである。
だが、沙地の国では……。
王族は、今も脈々と古の竜神の血を伝えていると信じられている。
=竜神の末裔・終わり=
竜神の末裔 わたなべ りえ @riehime
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