第10話


 薄曇の空の下、竜は低空を飛んだ。

 沙地の国は地震と雷に襲われて、それなりの被害が出ていた。

 だが、半壊した王宮に比べると、まだいいほうといえるだろう。人々は恐怖におののきながらも、どうにかおさまった大地の揺れと天の怒りにほっとしているようだった。

 決壊した川に石を積む人々、家畜を追う人々、怪我をした人を救う人々……。

 日も射さない薄闇の大地に、さらに黒く何かの影が映し出される。人々は戦慄する。

 彼らは再び空を見上げ、空を舞い飛ぶ竜を見た。

 その姿を見て人々はひれ伏し、竜神の祟りを恐れて震えた。そして竜が飛び去ってゆくと、怒りが静まったことに安堵するのだった。

 風輪の人々も沙地の人々も、今後長く語り継ぐことだろう。


 竜神が引き起こした災害の恐怖を――


 その様子を、女王の目で紗羅は見ていた。


 ――この人々を、守っていこうと……。


 たとえ竜神が祟りを起こそうとも、竜神の末裔である沙地の王家は、常に人々を守り続ける。

 紗羅は、自らが支配する国を竜の背から見下ろした。



 だが、やがて……。

 みるみるうちに、張りつめていた気持ちが解けてゆく。

 紗羅自身の目に戻り、自らを運ぶ竜を見つめる。

 手を伸ばし、何度も何度も鱗をさする。そこには何本も何本も矢羽根が当たって落ちたはず。しかし、銀に輝く鱗にはたったひとつの傷もなく、紗羅を安心させた。

 紗羅は銀白色に輝く鬣に頬をうずめ、目を伏せた。

「流緒……。ありがとう」

 涙がこぼれた。

 思えば、この二年間辛いことばかりが紗羅に降りかかった。だが、紗羅は泣けなかったのである。

 流緒がいなかったので……泣けなかった。




 竜は徐々に高度を下げた。

 王宮の手前、幼い日々に過ごした岩屋――流緒が竜として飛び出してきた場所に、ゆっくりと降り立った。

 紗羅の足が地に着いたとたん、竜は白い光に包まれて人の姿へと変化した。

「兄様……」

 紗羅は喜んで駆け寄ろうとした。

 が……。

 ますます青白く透き通った顔、弱々しく濁る紅玉の瞳に、足が止まってしまった。流緒は立っていることも辛いのか、よろよろと岩に手をかけた。

 空は割れて日が差し始めている。

 雲の隙間から、光が幾筋も放たれ、七色に煌いていた。

 竜人は光に弱い。紗羅は兄の腕を取ると、抱えるようにして岩屋の中へと入っていった。

 普段は扉がある岩屋であったが、竜が飛び出してきた時に入り口ごと壊されて、今はただの洞窟であった。

 まったく体に力が入らないのか、流緒はずっしりと重たかった。紗羅は必死に足を運んだが、岩屋の入り口の日差しを防げる場所まで行って、そこで諦めた。

「紗羅……」

 岩にもたれかかりながらも、流緒は微笑んで紗羅の頬を撫でた。

 紗羅は顔をこわばらせた。その頬は、二年前からは信じられないほどこけている。髪も艶はなく白くなり、目の輝きも失せている。

 その姿を兄に見せて心配させたくはなかった。

 だが。

「おまえは美しいな」

 その言葉を聞いて、紗羅は言い知れぬ不安に襲われた。

 今の紗羅は、兄が記憶に留めている美しい紗羅であろうはずがない。隠すようにあつく塗った化粧も激しい雨と涙で消え失せて、やつれた少女であるはずだ。

「……兄様は……疲れているのです」

 不安が胸に広がっていった。

 幼き日、初めて会ったその時のように、流緒の前に膝をついて、真直ぐに彼の目を見つめた。

 ぐるり……と、爬虫類の血の瞳が力なく回った。

 真白の手をとると、まるで水のように冷たかった。

「兄様は……疲れているだけです」

 紗羅は震える声で繰り返した。竜人は力なく笑った。

「紗羅。すでに力は尽きた。私は、死ぬのだ」


 一瞬。

 ――耳が嘘をついた。


「……いえ、疲れているだけです」

 虚しく紗羅は繰り返した。

「私は、なぜ生まれてきたのか? と、常に思っていた。誰にも愛されぬ、忌み嫌われるこの姿で……」

「兄様」

「おまえが幸せであるように」

「違います」

「おまえを守るために」

「違います!」

「今日、この日……おまえを救い、死ぬために生まれてきたのだ」

「違います! 違います!」


 紗羅は兄にすがりついて泣き叫んだ。

 その体は、すでに氷のように冷たくなっていた。激しく打ちつける紗羅の心臓に比べて、流緒の鼓動はかすかになってゆく。

「兄様! 私と兄様は、二人で一人なのです。どちらかがどちらかのために、一方的に不幸を背負えば二人とも不幸になるのです! 少しでも私を思うならば死んではなりません!」

 爬虫類の紅玉が、くるり……と回った。

「泣くな、紗羅に涙は似合わない」

 流緒の言葉とは裏腹に、紗羅の目からは涙が留めなく落ちた。

 岩屋の外は、まぶしい世界。

 竜神の力が尽き、今や本来の日差しを取り戻した明るい世界となっていた。

 だが、岩屋にはまだ闇があった。

「私のために死んではなりません!」

 しかし、紗羅の叫びはもう流緒には届いていないのか、答えはなかった。紗羅は何度も激しく揺すった。

「流緒! 流緒!」

 竜人は、自身の名を聞いて意識を戻し微笑んだ。

「……おまえのおかげで、満ち足りた生だった」

 くるりと眼球が回る。だが、その動きは緩慢になり、やがて半回転したとことで裏返ったまま……ぴたりと止まった。


 こうして、竜人は事切れた。


 紗羅は泣きながら名を呼び続け、流緒であった物を揺すり続け、そしてすがりついた。

 だが、それはもう流緒ではない。

 明るくまぶしい光が、ちょうど岩屋の入り口に届いた。

 流緒の屍にも光があたり、真白な皮膚が透けて見える。

 紗羅は、しばしその物を見つめていた。


 ……はたして、何があったのだろうか?

 この物体はいったい何であろうか?

 七色にからからと光る様は、何事か?

 風に飛びそうなこの軽さは……。


 何があった? 何もない。

 ただ、そこに透けたものがあるだけだ。

 何とも虚しい美しさであることか。


 すでに抜け殻――そして、紗羅も抜け殻になっていた。  

 紗羅はもう泣いていなかった。涙も涸れていた。

 日の光を浴びながら、震える手で、力なく裏返った爬虫類の目に瞼を下ろした。

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