第9話
「何かが、来る」
くねくねと踊る暗雲と、広がってゆく闇。
王宮の衛兵がおそれおののき、つぶやいた時。
誰も知らないところで、最初の変化は起きていた。
岩屋の奥のさらに奥。異国の民にふさがれた上、過去の大災害で涸れたといわれている地底湖に水が満ちてきた。
最初はじりりと……そして、やがて地下水が噴出した。
激しい水しぶき。と同時に、埋められた岩が吹き飛んだ。
水と共に真白の竜が飛び出した瞬間を、誰も見てはいない。だが、誰もが気がついていた。
空気が違う……。
何かが来ると。
王宮の広間で。
紗羅は、目をつぶり……そして、筆をとった。
子供たちを殺されるわけにはいかない。
結局、傀儡のままに死ぬのであれば、夕に王宮から飛び降りるべきと悔やみながら、紗羅は署名しようと筆を紙に置いた。
その時、ぐらりと王宮が揺れた。
婚姻の誓約書の横に置かれた墨壷が倒れ、紙はあっという間に真っ黒に染まった。
どよめきが起きた。
揺れはひとまずそれで収まったが、人々は不安に辺りを見回した。
「……竜神の祟りだ……」
最初に震える声で言ったのは、子供を殴った兵士だった。
彼は真っ青になって震え出し、そして武器を投げ捨てて、叫びながら広間を飛び出していった。
「た、祟りだ、祟りだ!」
その様子を見て、ざわりと空気が動き、あちらこちらから、竜神の名が呼ばれた。
「愚か者めが! 婚姻さえ成立すれば、崇りなどおこらん! さっさと新しい書を持て!」
風輪の王が立ち上がり、叫んだ。
その時、再び大きな揺れが起こった。
天井がみしみしと音を立てた。ぴしりっと音を立てて、壁の石にひびが入った。
人々は皆大騒ぎになり、王の命令を聞くものはいなくなった。
「早く! 早く外に出るのです!」
紗羅が叫ぶと、風輪の兵士も沙地の民も、我先にと王宮の広間から飛び出した。
乱れた髪のまま、白い衣装のまま、紗羅は子供たちのほうへと駆け寄った。そして、倒れた少年を抱きかかえ、普段は王族しか使わぬ通路を開け放った。
揺れはその後、何度も続く。杉材の天井が大きく歪み、下がっていた灯篭がばたばたと床に落ちて弾けた。
紗羅は子供たちを導いて、王宮の渡り廊下の横の階段を下り、芝の庭へと出た。
その廊下も崩れ落ちようとしている。
空は、信じられないほどの黒雲が覆いつくしていた。
地面がうねった。
突然、地割れが生じ、そこから大量の水が噴出した。
稲光が空に走り、雷鳴が轟いた。
水は、まるで大地から雨が降るように、激しく空に吹き上がり、雨雲の中に吸い込まれていった。
「竜神様の祟りじゃ! 竜神様の祟りじゃ!」
狂ったように叫びながら、人々が逃げ惑う。
雨に濡れながらも、紗羅は子供たちをかばうように抱きしめた。
「怖いよ、怖いよ……」
緊張と恐怖から少しだけ解放されたのか、正気に戻って、子供たちは泣き出した。
わずかに残った髪飾りを外し、それを縄にあてがって、紗羅は子供たちの戒めを解いた。
「大丈夫。竜神様は沙地の国の守り神だから……。私が生きて女王である限り、災いは起こらないのよ」
そう言いながらも、紗羅は震えていた。
これは……。
この力は、人のものではない。自然の力でもない。
神の――力だ。
「愚か者め! これが竜神であるはずがない! ただの地震だ! ただの雷だ!」
叫びながら、風輪の王が王宮から走り出てきた。
すっかり戦意を喪失した兵士たちを鼓舞し、態勢を整えようとしている。
腰を抜かして立てなくなった王子は、四人がかりで運び出された。泣きじゃくる情けない王子である。
しかし、父王のほうはひるんではいなかった。恐れを知らぬ強い眼光をあたりに振りまき、叫んでいた。
「女王を探せ! かくまう者がいたならば、その場で切り捨てよ!」
子供たちと紗羅は、這いつくばって花畑の影に身を隠した。だが、すぐに見つかってしまうだろう。
子供を巻き添えにはできない。紗羅は子供をそこに居続けるように言い含め、自分は再び這いつくばって、場所を移動した。
そして、泥に染まった姿のまま、すくっと立ち上がった。
「私は逃げない。だが、誓いも立てない。竜神は風輪の血を嫌ったのです! 去りなさい! 去って、自らの領土に災いが広がらぬよう、自らの神に祈るがよい!」
よく通る強い声。
へへへい……と頭を下げる王子とは対照的に、風輪の王は高らかに笑った。
「そのような血迷いごとを信じる風輪ではない! さあ、我がほうへと歩み寄れ! そして誓うがよい!」
その時、ガラガラと大きな音がした。
王宮の瓦が砕け落ちる音だった。重たい磁器でできた色鮮やかな瓦が割れて、まるで花びらでも散るかのように軽やかに、はらはらと舞い落ちる。
ただ、その鮮やかさに見入る者はいない。ただ、驚きをもって立ちすくむのみ。
頭上に欠片があたるに至って、王宮近くにいた兵士たちは慌てて逃げ惑う有様だった。
紗羅と風輪の王は、同時に王宮のほうを見上げていた。
そして、同時に声を上げた。
「何?」
「流緒!」
真白の竜が、王宮の屋根の上に居座っていた。
稲光が走った。
その光に青白い鱗が妖しく光輝き浮き上がる。ぐるり……と、紅玉の眼球が回った。口元からしゅるしゅると赤い舌が踊っている。
竜はゆらゆらと尾を揺らし、時々がらりと瓦を落す。激しい雨の中に打たれているはずなのに、なぜか銀白の鬣は、水に漂うように舞っていた。
なぜ、その竜が流緒であると思ったのか、紗羅にはわからない。ただ、わかるのは、流緒が竜であるということだけである。
しかし、紗羅と対峙していた俗人の王は目に映る現実を認めなかった。
「馬鹿な! そのような者がいるはずがない! 幻だ! 射よ! 射て打ち落とせ!」
さすがの風輪王も気が動転し、幻と宣言しながらも兵に命令した。
兵士たちも動揺しながら、矢を番え、バラバラと打ち出した。が、その大部分は地面に落ち、数本が竜に達したが、鱗に当たって力なく落ちた。
「射よ! 射よ! 射よ!」
「やめて!」
紗羅は走り出した。そして、兵士の前に身を投げ出した。
「竜神を射てはなりませぬ! 祟りは末代にまで及びます!」
両手を広げて、紗羅は叫んだ。
竜の何たるかを知っている紗羅は、そのすべてを忘れていた。兄を傷つけさせはしない。それ一色に頭は染まっていた。
聡明な少女には不似合いの、愚かな行為であろう。自らが矢に当たるだろうことに、考えが及ばなかった。
だが、あまりの迫力に、兵士たちの気も押されていた。末代にまで及ぶ祟りも恐ろしかった。
「何を、何をしているのだ! 逆らうものには死ぞ。射よ!」
風輪王が叫ぶ。その声は、恐怖のために甲高かった。
恐れるは竜か? それとも非道の王か?
兵士たちは震える手で矢を番え、引いた。その矢は、まさに兵士の気のごとく、ふらふらと力なく紗羅に向かった。
竜はいきなり屋根から離れると、紗羅の目の前に降りてきた。力なき矢は、竜の鱗に阻まれて地面に落ちた。
「あぁ」
紗羅の口元から小さな呻き声がもれた。いかに強固な鱗といえど、間違いなく矢は当たったのだ。突き刺さらなかったとはいえ、何かひどい傷を負ったに違いない。
しかし、竜のほうは矢に全く動じる様子はなかった。歩み寄った紗羅を絡めとるようにするりと背に乗せると、そのまま天高く上昇した。
「射よ! 打ち落とすのだ!」
風輪の王の声が轟く。
しかし、竜は真直ぐ天に向かう。
矢は垂直に近く放たれて、兵士に降り注いだ。
矢の雨、豪雨、雨、雨、雨――
降り注ぐ雨の矢。
兵士たちは、ますます士気を下げてゆく。
竜が再び地上に向かって降下し始めると、兵士たちは恐れをなして、ばらばらと王の周りから、蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。
自らの武勇でここまでのし上がった王にとって、恐怖に負けることは屈辱であった。
「愚かな!」
鱗は強いが、あの眼球を狙えばよかろう。
――あの、赤く光る邪眼を。
王が自ら弓矢を構えたときだった。
何かが起こった。
突如、時間が切り取られた。
真白な視界。空白な時間――。
何が起きたのか、誰にもわからない世界。
あまりの轟音に、これが音だと気がつくものはいなかった。
まぶしさゆえに、これが光だと気がつくものもいなかった。
ただ、何が何かわからぬがまま、突然吹き飛ばされたかのように。
激しい衝撃があたりに広がった。
逃げ惑う兵士たちも、耳を押さえ、ばたりと地面に落ちた。
――落雷。
矢を番えた王の上に、光の鉄槌が落ちたのだった。
その瞬間、風輪の王は、おそらく何が起きたのか気がつかなかっただろう――王だったものは墨になり、煙が上あがった。
呆然としたままの兵士たち。衝撃は、彼らの心身までも貫いたのだろう。言葉も主を失った悲しみも、そこには何もなかった。
それを最後に雨が上がり、あたりが少しだけ明るくなった。
地面に伏した風輪の兵士と王子の前に、竜と紗羅は舞い降りた。
竜の上に立ち上がり、紗羅は叫んだ。
「古の伝説を信じない者こそ愚かなり! 風輪の王子よ、誓え! 沙地の国から去れ! 去らぬと祟りは風輪にも及ぶ!」
まるで神が巫女に降りたような――その声は、普段の紗羅の声よりも厳しく、まるで預言のごとく聞く者に恐怖を与えた。
王子は震え上がり、泣きながらうなずくだけだった。
その様子に、紗羅は語気を弱めた。
「五の日の後、砂門の地にて話し合いの場をもうけましょう。我らは新たな同盟を結ぶのです」
紗羅の提案にも、王子はうなずくだけだった。
一人の兵が歩み出て、沙地の女王に敬意を示して言った。
「必ずや、沙地の女王様」
それを聞いて、紗羅は微笑んだ。
すると、竜は再び上昇し、紗羅を乗せたまま空の向うへと飛んでいった。
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