第8話
――私はこの場には不要なようだ。
違います。
――私はおそらく、おまえのために生まれてきたのだ。おまえを引き立てるために……。
違います。
――竜人は成長すると人ならぬ力を持つという。だから、思うのだ。おまえを守るために、その力を使うために……。
違います。
「違います! 兄様!」
思わず叫んで目を覚ます。悪夢ばかりが紗羅を襲う。
夜だけではない。昼の日差しの中でさえ、悪夢は紗羅をさいなんだ。
兄に救いを求めるなど……後から思えば、よからぬ予感がしてならない。
飛び立った翼竜の一匹が落されたのを、紗羅は悲鳴を持って送った。
紗羅が死ななかったばかりに、民を死に追いやり、珠耶を危険にさらし……そして、流緒まで巻き込もうとしている。
二年前、心を鬼にして突き放したのは何のためか?
流緒を守るためではないか?
だが、紗羅にできることは――会いたくてたまらない兄の顔を思い浮かべ、珠耶の帰りを待つことだけであった。
珠耶が去って七日が過ぎた。
かつて流緒と唇を重ねた王宮の屋上に、紗羅は一人でいた。
夕陽が砂漠を真っ赤に染めて沈んでゆく。
明日は、その砂を血が染めるだろう……と、紗羅は思った。
数日前まで王宮を囲んでいた風輪の軍はわずかとなった。なぜなら、明日、紗羅は風輪王子のものとなるからである。
今や、紗羅を王宮に幽閉するためだけの軍が、この王宮の内外に配備されていた。そして、王の居室だった部屋には、すでに風輪の王子が居座っていた。
珠耶は帰らなかった。
兄に会うことができなかったのか、それとも……。
紗羅は考えないことにした。もとより、流緒を巻き込みたくはなかったのだ。
なのになぜ、助けを求めることを承諾したのか? それは、紗羅の未練でしかない。弱さでしかないのだ。
――今一度、会いたい……というわがまま。
思えば……紗羅は、わがままであったり、弱い存在であったりしてはならなかった。生れ落ちた瞬間から、幼い頃から、王族であらねばならず、愛される存在であらねばならなかった。
まるで負の部分をすべて兄に押し付けたよう――光の中に存在しながらも、紗羅は時として泣きたかった。闇の中で泣きたかった。
流緒と一緒にいる時だけ、紗羅は小さくて弱い少女でいることができた。兄の境遇に涙しながら、その強さに惹かれていた。
張り詰めた糸は切れかけている。それを緩めたいと思えば思うほど、紗羅は流緒を欲した。
この思い出の場所から飛び降りて死のうかとも思った。それは、愛しい兄の手の内に飛び込む錯覚を、紗羅に与えてくれるだろう。
だが、紗羅は女王でもある。傀儡のままでは死ねなかった。
翌朝早く、紗羅は白い風輪風の衣装を着せられた。
沙地の国では、花嫁は金糸銀糸を編みこんだ絢爛豪華な衣装を着るものだ。白を纏って紗羅は笑った。これではまるで死装束である。
染めて戻した漆黒の髪を高く結い上げ、たくさんの飾りを着けられた。紗羅はその中にこっそりと、自前のかんざしを紛れ込ませた。
婚姻の儀へ向かうため、立ち上がる。
その瞬間、誰もが紗羅の美しさにため息を漏らす。素顔を隠す化粧の下で、紗羅は微笑んだ。
――沙地の女王にふさわしい素晴らしい儀式にしよう……と。
やがて厳かな式が始まる。
杉の天井に星・月・太陽。床に薔薇石・瑠璃石・大理石。
かつて王が座していた席に、この国の富を我が物とする憎き風輪の王がいる。そして、流緒と手を繋いで歩いた通路を、丸々と太った風輪の王子と手をとって歩いているとは。
砂漠の日中は暑い。王子の手は汗ばんでいてぬるぬるしている。一足出すごとにふうふうと声をもらす有様だ。
まるで蛙のようではないか? と、紗羅はあざ笑った。だが、風輪の者には喜びの微笑にも見えたことであろう。
そして、風輪の王のほうは……扇子を片手にゆるりと扇いでいる。しかし、その眼光は鋭いままだ。
こちらは、まるで鷹のよう。隙がない。
辺りを見回せば、苦渋の選択に堪える沙地の民、その手前に勝ち誇ったような風輪の兵士。この状況では、二人は無理である。
油断がならぬのは王のほうで、王子は愚か者とみた。紗羅は、道連れを王子と定めた。
「では、ここに永久の愛を誓え。そして口づけを交わせ」
日に焼けた顔の中、ぎらぎらと輝く茶の瞳で、風輪の王は二人に命令した。
それはまさに、風輪の王家と竜神の血の婚姻。王子が拒むはずはない。彼は暑苦しい顔を紗羅に向けた。
「我が愛を誓おう」
紗羅が、心待ちにしていた瞬間だった。
「では、死を持って誓うがいい!」
さらりと、髪から抜かれたかんざし。
その鋭さは、すでに自らの首筋で試している。王子は蛇に睨まれた蛙のごとく、動きを止めている。
――死に嫁の道連れ。
紗羅はかんざしを振り上げて、王子の眉間に突き刺そうとした。
しかし、それはならなかった。
上手から飛んできた扇子が、見事に紗羅の手に当たり、寸前のところでかんざしを落としてしまったのである。
「我が目にそなたの殺気が映らぬとでも思っていたのか? 沙地の女王よ」
王座にどしりと座ったまま、風輪の王は鋭く睨んだ。
もしも紗羅がかつてのように元気であったならば、上手くことをなしたかもしれない。
しかし、この二年という厳しい現状が紗羅の体を蝕んでいたのだ。染め粉や化粧で衰えは隠せても、体の衰えは隠せなかった。
紗羅はきりきりと悔しがりながらも、かんざしを拾い上げ、腰を抜かして倒れている王子の命をさらに狙った。
しかし、大勢のどよめきと悲鳴の中、あっけなく押し寄せてきた兵士に取り押さえられた。
こうなれば、婚姻が成立する前に舌を噛み切り死ぬだけだ。しかし、それを察した敵兵が、紗羅の口中に布を押し込もうとしている。
「我が血を風輪になど、渡すものか!」
紗羅は必死に抵抗した。かんざしの外れた髪は大いに乱れ、風輪風の飾りがバラバラと床に散った。
誓いさえ立てなければ、婚姻を認めさえしなければ……。
しかし、百戦錬磨の老獪な風輪王は、紗羅の考えそうなことのすべてを予測していた。
「見よ、女王よ。まずは愛を誓え」
紗羅が目を向けたその先に、小さな子供たちが連れてこられた。縛られ、兵士にひきずられながら、たどたどしい足取りで歩いてくる。それもそのはず、誰もがすでに無傷ではない。
紗羅は、思わず目を丸くした。
その子供たちに、紗羅の知っている顔はない。だが、沙地の国の子供である。いたいけな瞳が紗羅を射抜いていた。
「女王よ、返事の時間はたっぷりあるぞ。まずは一人目の腕を落す。次は足、そして首。それで返事が来なければ、二人目の手……、三、四、五人と揃っておる。もしも、それでまだ時間が足りぬというならば、さらに子供を探してくるが?」
残虐非道。
風輪はこのようにして、王の下、大国になった国だ。
このような王の支配に、沙地の国を置くわけにはいかない。だが、このままでは明らかに子供たちは死んでゆく。
突然、一番手前の少年が叫んだ。
「紗羅様! おいら、怖くない! そんなヤツラの言うことなんか聞くな!」
そのとたん、兵士が子供を殴った。だが、子供は唇から血を流しながらも、さらに叫び続けた。
「沙地は竜神様の国だ! こんなヤツラ、竜神様が許すはずがない! 今に祟りが来るぞ。地面が割れて、皆飲み込まれるんだ! 空が引き裂かれて、ソイツの頭に光の鉄槌が落ち……」
子供は、再び殴られて今度は倒れて気を失った。
控えていた沙地の国民から、悲鳴にもにた声が響き渡る。
時に怒り、時に悲しみ、時に憐れみが篭っていたが、誰一人何もできないのであった。女王の紗羅以外は。
風輪の王は涼しい顔で、紗羅に残酷な微笑みを向けた。
「誓え。その後、自ら命を絶って、父のあとを追ってもよし。我が息子の妃として贅沢の限りを尽くすのもよし……」
兵士に押さえつけられた紗羅の目の前に、婚姻の誓約書が運ばれてきた。
はるか遠くで……。
沙地の大地が揺れた。
地響きが鳴る。
どどど……どどど……と。
人々は不安に天を仰いだ。
暗雲がせまり、雲の奥で光が踊っていた。
山羊や羊、牛が騒ぐ。鶏がバタバタと羽ばたいた。
誰もが家から飛び出して、おろおろと空の変化を見つめ、何か悪いことが起こらねばいいが……と口々に言った。
大地を揺らすものは、砂門の地から南へと向かっていった。
そこは、沙地の国の王宮がある方向であった。
何か大災害の前触れにも似て――
そして、天空の闇は、やがて空全体を覆いつくした。
大地の揺れは、波となり、伝わり広がっていった。
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