メメント・モリ

かぷっと

本編


パラパラと傘を跳ねる雨音を聴きながら、私は石畳の小道を進む。

横には雨を滴らせた紫陽花が艶やかに花開いていた。瑠璃を思わせる深い青が、

花弁の縁にかけて紅をまとった紫に変わる。

歩調に合わせて流れていく極彩色を目で追いながら、私はあの言葉を思い出していた。


「君は、紫陽花が似合うね」


あれは、いったいどういう意味だったのだろう。


「次は紫陽花の話なんだ。苦労して書いたから、ちゃんと取りに来ておくれよ」



いつもの様に、玄関の鍵を開けて戸を開く。目に入るのも代わり映えのない土間。何週間か訪れていなかったせいで、少し埃っぽいだけだ。


「お邪魔します」


一応挨拶はしておく。

靴を揃えながら、ふとこの家にはスリッパは置いていないのかと思った。

いや、靴箱一つ置いてないのだ。スリッパなど置いてあるわけがなかった。土間には綺麗な鼻緒の下駄が一足、所在なさげに転がっているのみである。

私がいなければ、衣食住だって危うかっただろう。あの人は作家助手を、家政婦かなにかと勘違いしているところがあった気がする。

おかげで毎日通い詰めだったが、案外私はそんな毎日が嫌いではなかった。

今度、スリッパを持ってこよう。意味はないかもしれないが、気持ちの問題だ。



框を上がり、廊下に歩を進める。

両端には書庫に入りきらない本が、いつも通り高層都市を成している。表紙にはうっすらと積もった埃。そろそろ整理しなくては。

あまりに代わり映えのない光景に、本の陰からひょっこりのぞかせた顔がそこに見えるような気さえしてくる。


「やぁ。いつもこんな山奥までご苦労様。冷蔵庫にまだ冷やし飴があったから、一緒にどうだい」


今にもそんな声が聞こえてきそうだ。

子供のような人。花を愛で、本を読み、時々物を書く。その他はなにもいらなかった。

私はそんなところに驚き、呆れ、そして惹かれていた。

いけない、と私は気持ちを切り替える。

これ以上はいけない。叶わない想いだ。



長い廊下を進んでいくと、階段にたどり着く。あの人の書斎は二階だ。

廊下に比べる階段は仄暗く、急勾配なので先が見えない。

そういえば、あの人はよくこの階段をよく踏み外していた。いつもぼんやりと考え事を

しているか、よそ見をしているような人。


「いや、君が怪我してしまっては大変だからね。わざと転んだのさ」


くしゃくしゃな髪のままおどけたように笑う姿が瞼に浮かび、くすくす笑ってしまった。思わず目尻に涙が溜まる。

ぼんやりした足場を踏み外さないように、

ゆっくりと階段を上がる。



突き当たりを曲がって一番奥。窓から庭がよく見える美しい書斎だ。

襖を開けると、壁一面に広がる本の背表紙と、立派な書斎机。そこにはあの人の世界が広がっていた。

埃をかぶる古びた蓄音機。椅子にはあの人の羽織がそのままかかっている。きちんと衣装箪笥にかけるように言ったのに。

真ん中に置かれている原稿と手紙は、話のものだろう。

花瓶は空だ。それはいつも季節に彩られていた。シーツの上の真っ白な顔とは全然違った、ふわり微笑んだその面影。

ちがう。ぜんぶぜんぶ夢だ。ここにはすべて揃っているじゃないか。

優しい笑顔に縋り付くように私は机の上の原稿と手紙を手に取った。迷った末に原稿を読むことにした。五十枚程度の短いものだ。



半刻ほどで読み終わった。私は、あの人の書く話がとても好きだった。でも、今回は違う。嫌いではない。嫌いになれるはずがない。それでも、手放しでは好きになれなかった。あなたはどうして、最後まで。薄く閉じた瞼。ずっとずっと。

この渇きを癒したくて、すべて忘れたくて、手紙の封を切った。



生を想う君へ

ちゃんと来てくれたんだね。ありがとう。書き上げるのに随分と苦労したよ。なんと言っても、生まれて初めての愛の手紙だ。だけど書き方は知っていたようなんだ。おかしいね。もちろん、小説も書いたよ。愛しい君に捧げよう。

もう読んだかもしれないけれど、主人公の男は先に死んでしまった恋人を想って、紫陽花を食べてしまうんだ。

紫陽花の葉には毒があってね。食中毒程度の毒で未だ死者は出てないが、死ぬのを目的としてひたすら貪り続ければどうだろう。男の行く末は。


この手紙を読んでいるということは、私は死んでいるんだろうけど、それでよかったんだ。私は昔から体がひどく弱くてね。元々長くは生きることは出来なかっただろうし、君が先に死んでしまったりしたら、私は耐えられないだろうから。


前に私は、君に紫陽花が似合うと言ったね。君は美しいけれど冷たい。花言葉の一つなんだが、全くその通りだよ。君はそうして私を忘れていくんだ。君は話のようになることはないだろう。

でも、いいんだ。君には私の全てを捧げよう。この家も本も庭も財産も全て君のものだ。

愛してい――



そこまで読んで、堪らず手紙を床に叩きつけた。

なんて、なんて勝手な人だろう。

瞼を焼く熱い涙が、頬をこぼれていく。私が欲しいのはそんなものじゃない。

私が欲しいのは。


「紫陽花は、あなたじゃないですか」


降りしきる雨は打ち付けるものとなり、庭では嬉々と紫陽花が咲いている。

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