革命前夜

THEO(セオ)

The previous night

 

 白い部屋は簡素な棺のようで、濃密な死の臭いに満たされていた。

 男は黙って俯いていた。女を殺した。かけがえのない無垢な女を。高価なオーディオが、彼女の愛した音楽をスコールのように降らせている。立ち尽くす男の頭上に、肩に、足下に。泣かない女の代わりに、天上の歌姫と讃えられたオペラ歌手のソプラノが悲嘆の叫びをあげる。

 こうするしかなかった。女は連れて行けないと銀行屋は言った。

 置いて行きたくは無かった。女は自分がいなくても生きていけるだろう。それが、彼には耐えがたかった。自分以外の男と幸せになるくらいなら、死んでくれた方が良かったのだ。

 絹のような黒髪が冷たい大理石の床に広がって、まるで羽根のように見えた。亡骸になってまで自分から逃げ去ろうとしているように思えて、男は奇妙な怒りに駆られた。真紅のドレスを引き裂いて、蝋のように白い肌を辱めてやりたいと愚かな欲求も湧いた。その葛藤は今まで仕掛けられたどんな罠よりも刺激的で、恐ろしかった。

 結局、男は女の亡骸を椅子に座らせ、髪と口紅を整え、女が最も気に入っていた真珠の首飾りを細い頸にかけてやった。この世のものではなくなった肌に真珠の虹が彩りを添える。

「美しい……」

 夜会用に着飾った彼女は紅と黒で描かれた孔雀のように艶やかだった。黒いレースの長手袋に包まれたしなやかな指先が、椅子の肘掛に緩く絡められている様は、呼吸が止まった今でもあまりにも官能的で淫らだ。あの指が男の運命を絡め取った。

 男が頸に手をかけた時、女は黒曜石の瞳に怒りを燃え上がらせて自分を睨んだ。最期の瞬間でさえも、強気で、可愛げがなかった。

 それでも、愛していたのだ。

「出会うべきではなかった」

 乾いた声で呟いて、男は自分の服の乱れを直した。

「私とでなければ、君は自由でいられた」

 オーディオのオペラ歌手はいよいよ声を張り上げ、この世の愛の悲劇を歌う。

 スコールだ。スコール。愛憎のスコール。天上から、断罪と贖罪を綯い交ぜにした見えない血の雨が自分を打つ。見えない血が……

 男は、自分の手をじっと見つめて、それから、部屋を出て行った。




 彼は実際、抜き差しならない状態だった。自分の庭先にいつの間にか入り込んで生い茂っていた起爆性の花々が、圧倒的な質量で、今にも爆発しようとしていた。

 男は、独裁者と呼ばれていた。

 自分と同じ気分を味わっただろう人物たちを、そっと脳裏に浮かべてみる。ヒトラー。ムッソリーニ。サダム・フセイン。カダフィ。あるいは古代に滅亡した国の王達や、テュイルリー宮殿のバルコニーに立ったマリー・アントワネットもこんな気分でいたのかも知れない。それとも、自分のように感じた者は一人も存在せず、今ここに在る男は、唯一無二の個人的な苦悩に苛まれているのか。

 どうでもいい事だった。もう、どうでもいい。

 男が愛した者は、もう、誰ひとり、生きてはいない。

 それでも生きていろ、と銀行屋は言った。生きて、役に立て、と。

 男は、その国の一般大衆の稼ぎのゆうに五十年分に相当するイタリア製のアンティークソファに深く身を沈み込ませた。上質なレザーが鉛のようになった背と四肢を柔らかく包み込む。

 淡い燭台の光に照らされた調度は何もかもが美しかった。男が愛する本物の美がこの部屋には溢れている。煌めく水晶のシャンデリア、大理石の床、ベネチア製の金彩色の壁紙、ロココ様式の天井には彫刻の蔦が優雅に這い、贅沢に切り取られた窓は黄金の鳥籠のように繊細な模様を描いて夜空を縁取っていた。窓の向こうでは、暗く透き通った闇に青白い星が小さく瞬いている。

 いっそこのまま目を閉じて、永遠に微睡んでしまいたかった。

 だが、まだそれは許されない。最後のカーテンコールが彼を待っている。おぞましい民衆の歓呼が……

 ふと、背後に空気の流れを感じた。オレンジ色の炎が静かに揺れる。あの女ではない。生きた人間の気配。ある種の予感と確信が湧き上がる。慣れ親しんだ奇妙な訪問者が現れたのだ。

「お待たせしました、閣下」

 振り返って視線を向けると、硬いオーク材の扉の前に厭味なほど綺麗な青年が立っていた。長めの髪がうなじにかかり、前髪もだらしなく伸びたままにしているから、極上のアイスブルーの瞳が影になって見えにくい。何度目かに会談をもった夜に、せっかく整った容貌をしているのだから身形を整えろと命じたら、飄々と笑って、いやですね、と返した。独裁者の命令を一笑に付す、変わった青年だった。

「Pか……」

 珍しく、男は青年の名前を呼んだ。いつもは、銀行屋、と半ば蔑み、半ば親しみを込めて呼んでいたのだが。

「よほど心待ちにして頂いていたようで」

 クスッ、とPは口角を上げた。そのまま、勧められもしないのに無遠慮に男の対面のソファに腰を下ろす。望むと望まざるとに関わらず、涼やかな美貌を目の当たりにする羽目になり、男は微かに眉をひそめた。平素あれほど求めた美の慰めを受けたくなかったのだ。その資格はほんの数時間前に失われた。

「待ってなどいない」

 後ろめたさを隠して男は視線を逸らす。星のように燃える青い瞳を、今は見たくなかった。

「まったく、呼んでもいないのに、いつも嫌な時に現れる」

「そうですか? 僕としては常に最高のタイミングで顔を出しているつもりですよ」

 青年なりの冗談を、男は無視した。

「警備の兵がいたはずだが、どうやって入ってきた?」

「いつも通り正面玄関から、案内係に連れて来てもらいました」

「どういう手品を使っている?」

「僕は閣下専属の経済アナリストですから」

「ぬけぬけと、よくも言う」

 軽口で片付けはするが、この状況は未だに信じがたい。厳重な警備が為されている城塞にも似た館の最奥に、この青年はいつも、散歩の途中気紛れで立ち寄ったような風情でひょっこりと顔を出す。アポイントメントなど一度も取ったことは無い。当然、正式な手続きも経ていない。何故ここに居るのか──彼は自分の妄想の産物で、実際には影すらも存在していないのではないかと何度も疑った。

 Pは陽気で、穏やかで、その上、爽やかな機知にも富んでいた。しかもこの国の命運を救う策まで提示してきた。友と呼べる者のいない男にとって、あまりにも都合の良い像ではないか。

 妄想か。現実か。いや、現実であってくれなければ困る。

 男はここ数日で癖になった仕草をした。すなわち、透明な血に汚れた手をじっと見詰めて、溜息をついたのだ。Pはその仕草を見咎め、ピクリと片眉を上げた。

「殺したのですか?」

 単刀直入で、非難がましい口調だった。

「彼女はウィルが保護すると何度も申し上げたでしょう」

「それではダメだ。一緒に連れて行けないのなら、残しては置けない」

「なぜ?」

 言われて、男の内に、耳の裏が灼けるような苛立ちが込み上げる。

「なぜ? なぜだと? おまえは女を愛したことが無いのか?」

「あります」

 Pはあっさり首肯したが、男はそこに浅い水溜まりを見たような気がした。この青年は本当には女を愛したことが無い。なぜか確信した。

 自分とあの女との間にあったことは、他の誰にも分からない。満開の毒の花の香気を、それと知りながら胸いっぱいに吸い込む、そんな蛮勇にも似た致死性の愛。

「なら、逆に問おう。なぜ分からない? 愛した女を失うのは死ぬよりも酷い痛みだ。この痛みを、おまえは分からないと言うのか?」

 Pは不快を露わに黙り込んだ。無言で、男の愚行を咎めている。

「そうか……」

 男は嘲るように鼻で笑って、溜息と同時に肩の力を抜いた。この青年なら、あるいは理解してくれるのではないかと思っていたのに、虚ろな期待だった。最後に残った唯一の希望が、泡沫のように空しく消えたのだ。だが、持っていた重い荷物をすべて放り出したような不思議な安寧がそこにはあった。理解されることを諦めた。それで、もう、男の能動的な務めは終わったのだ。あとはただ流されればいい。

 わずかな時間、放心するように目を閉じる。

 そっと、過去を思い返した。

 あの女に初めて会ったとき、男の世界は変わった。下らない虚栄の夜会で、下らない男にエスコートされて、女は男の世界に登場した。まだ何者も男を縛り付けてはいなかった頃。謀略を用いたのはあれが初めてだった。女を手に入れる為に、男は洗練とは程遠い幼稚な企みを巡らしたのだ。それが、硝子の階段を昇り始める契機になった。

 運は男に味方した。運命の女神が取り憑いたようだった。わずか数年で、男は最高権力者の地位にまで登り詰める。

 しかし、鮮やかな夢はそこまでだった。

 国家の最高責任者の地位に就任した年──あれは四年前だ。セレモニーの一ヶ月後、信頼を寄せていたY少将が暗殺された。信じられなかった。男もまた同じ事をして権力を手に入れたというのに、自分に恨みの銃口が向けられるとは思ってもいなかったのだ。

 男は、恐怖政治からの解放者を自認していた。誰の目にもそう映ると疑っていなかった。皆に平等な知性があると信じていた。それなのに、自分の足元に大量の不発弾が埋まっていると思い知らされて、以後、自分のアクションに《殺されない方策》を組み込むようになった。

 開明路線。融和政策。対話。国交の正常化。貿易の再開。民衆の生活の向上を。沢山の理想があった。それすらも、殺されない事よりも重要ではなくなった。目を閉じて崖の縁を歩くような毎日。いつ落ちてもおかしくない。いつも、いつも、恐怖に震えていた。そんな風に、息を殺して歩く悪夢を、この世の誰が見ているというのか。

 女は、男にとって夏の光のようなものだった。暑く、眩しく、肌を焼き、生きる喜びを、命そのものを、冷たく冷えた心の奥にまで吹き込んでくれた。移り気なのは分かっていた。そんなところは権力と同じだ。始終気を張って監視し、視線を逸らさせないよう、相手の行動にデリケートな修正を加える。代わりに欲しがるものはなんでも与えた。美しく着飾った女が無邪気に微笑む一瞬だけが、男にとって生きていると実感できる数少ない機会だった。

 ただ、愚かに、愛していたのだ。

「生かしておけなかった。あれが、私以外に縋りつくなんて耐えられない」

 男は泣いてはいなかったが、泣いているように見えた。

「生きたまま自由にしてやることは出来なかったのですか?」

 言わずもがなの事をPは言った。決行してしまった者に対しては、何を言おうと、もはや無意味だ。

 Pは苦い感情と共に、殺された女の姿を脳裏に浮かべた。嫌な女だった。浅慮で、傲慢で、自分の美貌を鼻にかけて、湯水のように金を使った。贅沢をする為にこの男の側にいたような悪女の典型。大輪の薔薇のような、浮気性の毒婦。国家の最高権力者であり、女など幾らでも選び放題だったはずの男が、あんな女のどこを愛したのか理解できない。

 それでも、殺すべきではなかった、とPは考える。

 男は、そんなPの表情を眺めて、自嘲に顔を歪めた。祈るように手を組み、額を押し付ける。懺悔の声は、乾いて、懇願に揺れていた。

「あの女の件には触れないで欲しい。他の事は、おまえたちの良いようにして構わない。あの女だけは、私のものだ。誰にも、譲れない。渡したくなかったのだ……」

 燠が不意に火花を散らすように、男の呟きは暗く輝いた。

 Pは男の情念に圧倒されて息を飲んだが、数秒の逡巡の後に、女一人で済んだなら安いものだ、と内心で吐き捨てた。そうせざるを得なかった。

 男の愚かさに心底嫌気がさしてはいたが、それはこの際問題ではなかった。逼迫した時間の無さが、彼を常より非情にさせた。女を殺すような男とは共闘出来ない、などと軽薄な怒りに身をまかせて席を立てる状況ではなかった。どれほど不快で、腹に据えかねようとも、この男のわがままを飲み込み、なだめすかしてでも、明日の舞台に立たせなればならない。この男はPがシナリオを描いた一大叙事詩の主演俳優なのだ。

 ひとつ、鋭く息を吐いて、Pは手の平を上へ向けて開いた。それは降参のジェスチャーにも見える。もういい、と呆れているようにも。

「分かりました。プライベートな事には立ち入りません。彼女は病死した事にしましょう。計画が成就した後、閣下がその件で追及されることはありません。それで構いませんか?」

 男は不思議そうにPの顔を見上げた。殺害を揉み消してくれる必要など無い。叶うならば、法廷で男は裁かれたかった。ごく普通の男のように。それが叶わないことは分かっていたが、それでも、もう何もかもから降りてしまいたかった。

 男は、ただ女を愛している──いや、愛していた、と言う事を許されたかっただけだ。理解されないと諦めた後でも、習い性のように自分を語る。人間は浅はかで、虚しい。

 Pは、そんな男の煩悶になど構わずビジネスの話を始める。些末な事にこだわっていられるほど時間の猶予は無い。上滑りする講義の文言のように、淡々と声は響いた。

「閣下、では、明日の演説の内容を確認させてください」

 ここからは無粋で非情な政治屋の会話だ。一人の犠牲で万の命が救えるなら、行動を進めるのが政治屋だ。世界を動かそうというなら、そうでなければならない。

 男の失望は長々と影を伸ばしていたが、それはどうでもいいことだった。

「閲兵式には、国境警備に残した部隊を除いて、実働可能な実質的主要部隊とほとんどの高位軍関係者が参列します。閣下の近くに陣取るのは親衛隊だけではありません。新設の海兵隊が閣下をお守りします」

「リヴィングストーンの息がかかった者達か?」

「そうです。シールズ式の訓練を受けた精鋭ぞろいですよ」

「そうか」

 男はもはや興味を失ったように素っ気なく応えた。彼は自分を過小評価している。分割統制された軍を一度に招集し、更に全軍に命令できるのは、ただ彼一人だけだというのに。代役は利かない。男にしかできない仕事だ。それを「やる」と決めた一点だけでも、彼は胸を張っていいはずだった。決断したことによって、民衆は救われるのだ。少なくとも、爪に火を灯すような生活は改善されるだろう。

 Pの爪が、カツン、とセンターテーブルの無垢材を打つ。正確には、テーブルの上に置かれた書類の端を。そこには仰々しい演説の台詞が無機質に綴られていた。

「まずはこちらに書かれている通り、全軍にねぎらいの言葉をかけてください。いつも通り歓呼の叫びが上がるでしょう。それが静まった後、ゆっくり、聞き取りやすい声で、宣言してください。閣下の持つ権限の全てを、当日付で最高責任者代理に任命する暫定国連軍大佐ウイリアム・リヴィングストーンに移譲する、と」

「混乱するだろうな」

「すぐに治めてみせます。その為の配備は万全です」

 Pは自信に満ちた眩しい顔をしていた。片や、男は暗い場所へ沈んでいく。自分の全てはこの青年に奪われるのだ、というお門違いのさざ波が起こりかけた。男は自戒する。それを思ってしまったら自分は終わりだ。この国を抱いて破滅の輪舞を踊ることになる。破滅の輪舞……そんなものは、もう沢山だ。

「何年かけた?」

 男はどうでもいい質問を投げかけた。答えは無くても良かった。ただ、業の井戸に墜ちない為に別の事をしているだけだ。

「それは秘密です」

 Pには、もはや男の感情など見えていなかった。自分の喜びをただ口にする。

 鮮烈で、残酷な対比。

「どのくらいで終わる?」

「局地的な戦闘は行われるでしょうが、四十八時間以内には制圧する予定です」

「早いな。たった二日か……四代かけて築いた国家が……」

「閣下。国家の寿命はたいてい二百年と申します。統治システムの寿命はもっと短い。少しでも長生きして国民に奉仕する為には改革というターンオーバーが必要なのです」

「詭弁だな。この国は明日、死ぬ。改革から生まれるのは別の国だ」

「たとえ国名が変わっても、そこに生きている人は変わりません」

 国家の寿命は二百年、と言った口でそれと矛盾する屁理屈を吐く。Pはやはり信用のならない山師だ。情が通う、と出会ったころに抱いた希望は間違いだった。男は身じろぎもせずに黙り込んだ。その表情にはわずかな揺らぎも無い。もはや心を殺し、二度と動かないのではないかとすら思えた。

 だが、不意に男の瞳に恨みの陽炎が立ち昇った。

「リヴィングストーンは、まあ、いい。しかし国連会議に雁首そろえているクソ野郎共には腹が立つ。やつらは、私を教養の無い豚だと思っている」

 その呟きは純粋な怨嗟だった。過去に受けた数々の屈辱が鮮明に甦って、今更、グズグズに膿んだ傷から血が噴き出したのだ。

「僕は思っていません」

 聞こえているのか、いないのか。男はギラギラと光る目で闇を見据えて、暗く、深く、獣のような呼気を吐き続けた。夜が降り積もるような沈黙だった。室内は徐々に古い呪いに満たされていく。抗わなければ飲み込まれそうな気がした。

 Pは振り切る為に立ち上がって、サイドボードに置かれたウイスキーをバカラのグラスに注ぐ。黙って男に差し出した。男はグラスを受け取り、琥珀色の液体を一口飲み下してから、病人ように笑った。もう、どうしようもなく擦り減り、疲れ切っていた。

「これは、要するに、独裁者自身が仕掛けるクーデターです」

 高らかなアジテーションスペルは空虚に響く。劇的な効果を狙ったPは肩透かしを食らって少しだけ気まずそうな顔をした。こほん、とひとつ咳払いをして続ける。どうにも、今夜の独裁者閣下には手応えが無い。

「宣言と同時に、大佐以上の階級の方は拘束されます」

 これにはさすがに反応があった。

「コマンドシステムは残すと約束したはずだ」

「残しますよ。使える者と、副官以下を」

 一軍の将として染み着いたものがまだ燻っているのか、男は非難がましく眉をひそめる。Pは軽く肩を竦めた。

「無血革命は無理です。閣下には生きていて頂かねばなりませんが、粛清されるべきは粛清します。そうしなければ収まらない民衆の感情もあります。治安維持と国境警備に携わった上位責任者は、まず諦めてください」

 殺す、という意味だ。男は薄く笑った。あの女のいない今、もはや死んでもいいと思っている自分を生かし、死にたくないと思っているだろう部下達は殺す。Pは誰に対しても平等に残酷だ。男は、真っ暗な穴に小石を投げ込むような虚ろな声で言葉を紡いだ。

「嫌な奴だ」

「そうですよ。一国を変えようというのです、聖人君子ではいられません」

「その顔で言われると、妙な気がする」

「は?」

 意味を図りかねてPは素っ頓狂な声を出した。恨み言を言われるか、罵られると思ったのに、拍子抜けした。男は夢でも見るように目を細めた。

「惨い事を言うには、美し過ぎる」

 言葉はPに向けていながら、本当のところは別の誰かに向けられていた。

「私は美しいものが好きなのだ。だからあの女を愛したし、おまえのような山師の話にも乗った。おまえはもう少し、その見てくれを利用すべきだ」

 困惑して、Pは黙り込んだ。

 男は女に想いを馳せる。嫌な女だった。浅慮で、傲慢で、本当に、愚かで。口を開けば、あれが欲しい、これが欲しいと無軌道な我儘ばかりを言った。欲しがるものを与えると、その日一日だけは子供のように喜んだが、すぐに飽きてどんな高価な物も放り出してしまったし、浮気性で、自分に隠れて情事に励んでいたことも知っている。

 ただ、彼女は嘘だけはつかなかった。浮気を責めれば開き直って逆に男を責めるまでしたが、それでも、嘘はつかなかった。駆け引きなど何も無かった。躾のなっていない幼い子供のように、大嫌い、大好き、と気分のままに振る舞った。それが、男にとっては貴重な真実だったのだ。誰もが自分の顔色を窺い、家族でさえも本音では接してくれなかった。あの女だけが、男の気分を無視してのけたのだ。ただひとり、男と対等であった女。

 女は皆に嫌われていた。憎まれていた。独裁者に取り入り、富を吸い上げる悪女として。

 それでも、女は、男と二人きりの時には無邪気に笑い転げた。宝石も、ドレスも、高価なワインも、何も無くとも、女は、男が愛を囁けば笑ったのだ。

 だからこそ、男は、女を愛した。

 ふと、愚問を口にしてみたくなった。

「なぜ、私を生かす?」

「あなたの部下に行動不能に陥ってもらう為です」

 Pの答えは、いっそ清々しいまでにドライだった。

「迅速に行動されるとウィルの陣営に犠牲が出ますし、徹底抗戦を決め込まれて内乱に発展しても困る。他の誰でもない、最高権力者が命じれば、その場は嫌でも従わざるを得ないでしょう。改革後も、あなたが生きているというだけで、不満を抱く不穏分子達が反抗勢力をまとめるのに手間取るはずです」

「それだけの為に生かすのか?」

 揶揄うように男は質問を重ねた。Pは、心外だ、と顎を上げる。

「非常に大きな理由です。内戦になれば、行政機関が崩壊します。統治に必須な指揮系統の断絶は国家に三十年の混乱を招きます。それは独裁統治時代以上の悲劇にもなり得ます。そうならないよう、行政府はもちろん、軍も、なるべく無傷で譲り受けたい。少ない犠牲で改革を押し進めたいと思うのは当然の情ですし、なにより経済的です」

 痛快だ、と男は内心で喝采を送った。

 ブレない奴だ。最初から最後まで、徹頭徹尾、食えない銀行屋の顔を貫いた。

「私は、卑怯者の謗りを受けるな」

「ええ。歴史にも、そう記されるでしょう」

「P。それで、おまえは何を得る?」

 真っ直ぐに視線を合わせたPは青空のように明るく輝く笑顔を浮かべた。

 光が弾けるような一瞬だった。

「自治区を作ります」

「自治区だと?」

「はい。この国の土地を少しだけ頂いて、経済実験型特別自治区を作ります。自治区と銘打ちますが、実際は独立国です。僕は小回りの利く小さな国が欲しいんです」

「この国のままでは不足か?」

「広すぎます。僕が望むのは、せいぜい十キロ四方の平野と、隣接する少しの山地です」

「何をするつもりだ?」

「それも秘密です。ただ、閣下の国の為にもなると約束します。僕が創る国の建設事業は一時的とはいえ莫大な雇用を生みますし、その後も衛星工業地としてこの国に協力して頂きたい」

 ふふっ、と男は初めて愉快そうに笑った。

「おまえの創る国には何があるのだ?」

「世界一の富と、情報と、夢が」

「夢の国の建国か。そう巧く行くかな?」

「資本は投下されます。それも、ドミノ倒しのように」

「どんな手品を使う?」

「それも、まあ、秘密です」

 これ以上追及しても埒はあかないだろう。男は鷹揚に手を引いた。

「それで、私はいつまで生きていなければならないんだ?」

「最低十年は……」

「気が遠くなる」

「まあ、閣下、元気を出して。十年経ったら自由にして差し上げます。僕はあなたを愛してはいませんからね」

「この期に及んでも減らず口を叩くか……」

 幕を下ろす為に男は最後の一呼吸をゆっくりと吸い込み、吐き出した。

「私を誰だと思っている?」

 Pは男の意を受けて仰々しく頭を下げる。

「歴史上稀な、生きて、独裁者の座を下りる、英雄です」

 男は満足げに頷いた。

 女の遺灰を一握り──それが、独裁者と呼ばれた男が最後に望んだものだった。それ以外は何も持たずに彼は某国へ亡命し、十七年後、ディアナポリスの隆盛を特集した雑誌を手に、南国の別荘でひっそりと身罷った。死因は明らかにされていない。爪の色が変わっていたという噂もあるが、それが事実なら毒殺されたのだろう。あるいは緩慢な自殺だったのか。

 女は、男を愛していたのだろうか?

 男は、その答えを知っていたと思う。だからこそ……

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