感情

 とある男の理性に覆われた感情。

 男は女を憎みきれない感情を持っていた。

 もしも彼の精神が理性と感情で分かたれていたのなら、感情のみではきっと女を許してしまっただろう。

 そんなことは許されるべきではなかった。

 だからこそ、彼は両極端な想いを抱いたまま壊れていったのだ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 始めて彼女を見た時、美しいと思った。

 深紅の髪に宝玉のような赤い瞳、雪のように白く汚れのない肌。

 人間離れしたその美しさは、まるで天女のようだった。

 幼さを孕んだその声は耳当たりがよく、よく笑うその声を聞いていると少しだけ嬉しくなった。

 あからさまに怪しい奴ではあったが、私も案外早いうちに気を許してしまっていた。

 理由はおそらくあの人離れした美しさもあったのだろう。

 だがそれよりも、やたらと無防備で、単純で底抜けに明るい性格だった事が主な理由なのだろう。

 幼い子供にも似たその言動が妙に心配になったのだ。


 彼女は不死身だった。

 どんなに傷を負っても死ぬ事が出来ない身体だった。

 殺しても殺しても、私はあの女を殺してやる事が出来ない。

 何度手にかけても、何度この手を彼女の血で濡らしても。

 何をしても彼女の体は治ってしまった。

 手にかけるたびに何度も何度も自分の無力さを突きつけられた。

 自分はあの女を殺してやりたかった。

 彼女を楽にしてやりたかったのだ。

 もう苦しませたくない一心で、何度も何度も殺したが、結局全て無意味に終わって焦燥が募っていくだけだった。

 殺す事が出来たのなら、私は彼女を許す事ができるのだろうか?

 だが、絶対に許してしまうわけにはいかないのだ。

 たとえ誰もが許したとしても、私は彼女を許す事はできないだろう。

 死にたいというそんな願いから、世界を壊そうとした彼女を。

 ああなる前にどうして気付く事が出来なかったのかと何度後悔しただろうか。

 後悔してももう遅い、気付けなかった時点でもうあの手をつかむ機会も理由も永遠に失った。

 自分だけは気付く事ができたかもしれないのに、あの甘い声にとけきっていた自分は大事なものを見落とし続けた。

 そう、愚かな自分は彼女を信じてしまった。

 あの明るい声の裏側に、あの笑顔の裏に何があるのかも気付く事もできずに。

 あともう一歩彼女に踏み込んでいたら、気付く事ができたかもしれないのに。

 ああ、自分は愚かだった。

 彼女の虜になっていただけで、言動の一つ一つに挙動不審になって。

 あの溶けた砂糖のような声の裏に、あの笑顔の裏に何があるのかも気付けずに。

 そうして何もかもを失い、守ろうとした手を取る事もできず。

 何度思い出しても、彼女に関しては嫌な思い出ばかりだ。

 それでも。

 本当は、彼女を誰よりも守りたかった。


 今日もまた、彼女を殺せない。

 何をしても殺せない。

 焼け焦げる臭いに鼻を押さえ、肉を切る感覚と血塗れになった手に息を切らし、溶けていく音に耳を塞ぎたくなった。

 どんなに死の呪いを掛けても、殺してやる事ができなかった。

 痛みも苦しみもまるで感じていないかのように、彼女は笑っていた。

 せめて少しは苦しんでくれれば、まだ何かが変わったかもしれないのに。

 雪のように白い肌を赤く汚しても、何かが変わる事もなく。

 ただ痛みと苦痛だけが積み重なっていくだけだ。

 どうかもう死んでくれ。

 とっくに嫌気はさしていた。

 それでも自分は彼女を本当に殺すまで、やめるわけにはいかないのだ。

 何としても殺さなければならないのだ、彼女のためにも。


 彼女の首を切り取って、燃やした身体を砕いた。

 頭部を中心に再生するのであれば、頭部だけを隔離すればなんとかなるかもしれない。

 氷漬けにした時は失敗してしまった、再生は止まらなかった。

 身動きを取れなくする事だけなら簡単だった、全身を氷漬けにすれば元々非力な彼女は何もできなくなった。

 だけど、それでは意味がない。

 それに、閉じ込めるだけなら簡単だった。

 彼女は盗賊だったが、その身体は儚さを覚えるほど非力だ。

 こんなにも弱々しくて壊れやすいくせに、どうしても殺せない。

 殺しても再生してしまうのなら、再生できないようにしてしまえばいいのだろうか。

 頑丈な鉄の箱の中に彼女の首を封じ込めて、閉ざした箱を太い鎖で雁字搦めにする。

 3日間は何もせずに放置した。

 今はまだ、箱は彼女と封じ込めた時と同じ状態だった。

 ――殺す事ができたのだろうか?

 だけど、確認するためには箱を開く必要があった。

 今のままだと殺せたのか殺し損なったのか判別がつかない。

 これ以上待つのはやめておくべきだ、生きているとするならこれ以上長引かせるべきではない。

 雁字搦めの鎖を外すのに手間取っていたら気付いた。

 ――温かい。

 鎖を勢いよく引き剥がして、震える手で箱を何とか開く。

 箱いっぱいに赤黒い肉が詰まっているのを見て吐き気がした。

 再生しようとして行き場を失った肉が脈打つように蠢いている。

 頭痛と悪寒と吐き気が込み上げてきた。

 ――殺す事ができなかった、また苦しませただけだった。

 何も言えずに箱の中の彼女を灰になるまで燃やした。

 たった一粒の灰からも彼女は蘇生する。

 それと、あのように変質した状態で放置すれば苦しむだけだしどんな再生をするかわかったものじゃない。

 それに見ていたくないかった。

 自分のせいで異形の姿に変貌してしまったその姿はあまりにも悍ましく、どんな言い訳を連ねても無駄なほど酷いからだ。


 彼女の記憶を見たその時から、彼女を殺し続けた。

 だが、どうしても首を切り落とせない、腹を抉れない、その身を焼けない。

 何故か。

 もしも彼女の中に別のものがいるとするなら。

 そう思うと身が竦んで身体がまともに動かなくなった。

 いたとして、気付かずにいられればまだましだろう、だがもしもそれに気付いてしまったら。

 ……そんなもの見たらおそらく自分は正気ではいられない。

 本当はわかっている、手遅れになる前に何とかすべきだという事は。

 うまくいけば自分も彼女も知らんふりをしたまま終わる。

 それでもうまくいかなかったら?

 ……きっと、あの中にはいるのだろう、いなかったとしてもいたのだろうし、それこそ知らないうちに殺している。

 けれど、可能性はまだあった。

 だから後、少なくとも3カ月は今の状態が続いてしまうだろう。

 本当は早く殺してやりたいのだがこればかりは自分でもどうしようもない。

 いる可能性がほとんどないものをこんなに恐れているのもどうかと思うが仕方ないと諦める。

 だが、万が一という事もある、そうなればどうなるのだろうか。

 殺す事はできないだろう、そんな事は理解している。

 殺してしまった方が良いに決まっている、そうすれば少なくともそれは不幸にはならないだろう。

 生かしたところでこんな狂人の子だ、不幸になるだけだろう。

 きっと簡単な事だ、不死身でもない人間を殺すのは自分にとって容易い事だ。

 自分はあんなにも残酷に人間を殺す事ができるのだから。

 もう何もかも引き返す事ができない境地に自分は達している。

 赤子殺しの罪が増えたところで、些細な事だ。


 深紅の瞳はいつか見た極上の宝石に似た色をしている。

 赤い色はあまり好きではない、だけどほんの少し前は嫌いな色ではなかった。

 だからその色を綺麗な色だとそう思ってしまった。

 虚ろで焦点が定まっていなかったその目が自分の姿を捉えた。

 彼女は、口元を綻ばせて花が綻ぶようなその笑みを自分に向けた。

 一瞬、呼吸が停止した。

 赤色が柔らかく輝く、宝玉のようなその瞳から目を逸らせなかった。

 笑うな、と掠れた声で懇願した。

 何故笑う、何故そんなに穏やかな目で、どうしてそんな穏やかな顔をしていられるんだ。

 あれだけの仕打ちをしたというのにまだ自分を恐れてすらいないのか?

 ああ、もうどうしようもない、どうしてお前は私の事を憎まない。

 憎め、嫌え、泣け、笑うな。

 そうすれば、ほんの少しくらいは許す事ができたかもしれないのに。

 深紅の瞳を見つめていた、何よりも好きだったその色が視界の中で瞬いた。

 その色はいつまでも見ていられそうだった。

 だからこそ、その色に手を伸ばす。

 そして、潰れぬように抉りとった。

 左右どちらも順番に、痛みが長引かぬように手早く。

 彼女は呻き声一つ漏らさなかった。

 その事にさらに自分の中の澱みが濃くなっていく。

 手のひらの中には綺麗に抉れた眼球が二つ。

 そういえば昔、彼女の瞳を抉ろうとした眼球愛好の変態がいた事を思い出した。

 そんな事を思い出して、頭の芯がカッと熱くなった。

 手の中の眼球を見つめて、ただそれだけだった。

 彼女の眼球だ、どんな宝玉でも見劣りするほど、自分にとっては大切なものだった。

 この行為にはきっとなんの意味もなかった。

 ただ眼球を抉りとっただけ、ただ傷付けただけの無駄な行為だ。

 その色を手に収めてみたくなったから抉ってしまっただけ。

 ならば、せめて彼女の死に繋がるように。

 熱く煮えたぎった油を用意して、空っぽの眼窩に注ぎ込む。

 彼女が焼ける嫌な臭いが地下牢いっぱいに広がった。

 彼女は小さくあ、と呟いて、それきりピクリとも動かなくなった。

 焼けた油が早くも脳に到達してくれたらしく、これでしばらく彼女を痛めつける必要はなくなった。

 手のひらの中にある美しい瞳をもう一度だけ見つめた。

 それをぐちゃりと握り潰す、手のひらにはいつまでも嫌な感覚が残った。


 暖炉の中で燃えている鮮やかな炎を見ていた。

 その色は彼女の色に似ていた。

 傍によると暖かい、冬の寒さの中でその暖かさに随分救われてきた。

 炎は燃える、煌々と輝きながら熱を放つ。

 輝くそれを見ていたら、彼女の髪を思い出していた。

 あの時の事はきっと忘れる事はないだろう、天井から降りてきた彼女の姿を。

 人離れしたその美しさに自分は目を奪われていたのだ。

 いっそ、その美しさに恐れをなして攻撃してしまえばよかった。

 きっと殺そうとしても無意味だっただろうが、その身体の異常には気付けたはずだ。

 そうすれば何かは変わったかもしれないのに。

 ――少なくとも私にとって彼女が一番守るべき存在となる事はなかったはずだ。

 自分の体の秘密を知った人間は皆殺しにしろ、そんな言葉で彼女をを守ろうとした稀代の大泥棒がいた。

 それならきっと、敵対して相打ちしてそれで和解していたのだろうか?

 いや、こんな事を考えても意味など一つもない。

 仕方のない事を考えている間も炎はただ燃える。

 その炎を見ているうちに、何も考えられなくなっていった。

 虚ろになった意識を切り裂くように悲鳴が聞こえてきた。

 まだ幼い子供の声だった。

 聞こえてきたのは目の色だけが彼女と同じ色の自分の娘の声だった。

 何をやっていると娘に叫ばれる。

 珍しいほど取り乱しているがどうかしたのだろうか、と思ったところで気が付いた。

 右手が痛い、まるで火に焼かれているような熱を感じた。

 というか燃えていた。

 何がどうしてそうなったのか、暖炉に伸ばしすぎた手が燃えていた。

 急いで右手を引っ込めた、引っ込める直前で全身に大量の水がかけられた。

 娘が咄嗟に水の魔術を使ったらしい、右手の火は消えたがよほど慌てていたのだろう、部屋の半分が水浸しだ。

 礼くらいは言っておくべきなのではと思ったが、娘は取り乱したまま何かを叫んだと思うと部屋から出ていってしまった。

 水浸しの部屋を見て苦笑した、親らしい事など一つもしていないが心配くらいはしてもらえるらしい。

 赤く爛れた右手は酷く痛んだ。

 なんでこんな事をしてしまったのか理由はうっすら理解していた。

 意味などないのだ。

 しかし、この程度でもこんなに痛いのか。

 それなのに彼女は平然と笑うのか。


 血溜まりに手を浸すとまだ暖かかった。

 血溜まりに浮いている左手は、赤く濡れながらもまだ白い。

 それを左手で拾い上げる、ぬくもりの残るそれは柔らかく小さい。

 手首から先を引き千切ったそれを握りしめる。

 それを血溜まりの中にそっと浮かせて、次は引き裂いた腹の中に手を差し込む。

 悍ましい感触に悲鳴をあげかけた。

 まだ熱を持ちぶよぶよと柔らかいそれをぐちゃぐちゃに引き千切った。

 ぶちり、ぶちりと音を立てて肉を切る、溢れ出るものがほとんど血だけなのは救いだろう。

 彼女の中から心臓を引きずり出した、幾つかの血管が切れて彼方此方に血が飛び散った。

 血に塗れた彼女の心臓を握り潰そうとしたが、手が震えてうまく潰せなかった。

 だから、床に投げつけた。

 心臓は少しだけ形を変えたが、完全に潰す事はできなかった。

 地下牢の中を見渡すと、いつもと変わらぬ地獄のような景色しかなかった。

 今日はまず痛みが薄いように首を切り落として、ほとんど死体と化した胴体を解体した。

 そんな事をしても意味などない、頭が離れれば残りはただの肉塊だ。

 この行為に意味など一つもない、それでもまだ許すわけにはいかないからそうした。

 こうやって、ただの肉塊と化した彼女の身体を刻んで、刻んで、刻んで。

 そうすれば、この怒りも憎しみも消えた事にはならないだろうと信じて。

 血の池の中に落ちている、彼女の頭を片足で踏み付ける。

 そして強化魔法を使って踏み潰した。

 頭蓋が砕ける嫌な音とともに、卵の殻でも割るような呆気なさで彼女の頭は砕けた。

 脳漿と血が足元に飛び散った、ああ、なんて悍ましい。

 ゴキリと頭蓋が砕けた感覚に乾いた笑い声が止まらなくなった。

 自分の笑い声が何故か遠い、自分でも不快な笑い声だったがしばらく止まってくれそうにない。

 地獄の様な現実にただ、狂う事しかできなかったのは自分だった。

 この末路には後悔以外の何物もない。

 だが、もう止まる事は許されない。


 血の池には自分が切り刻み砕いた彼女が浮かんでいる。

 牢の中には悍ましい臭い以外の何も感じられなかった。

 血と彼女の肉の臭い。

 切り刻んだ後に腐食の魔術を掛けたせいで、涙が出てきそうなほど酷い臭いだった。

 それでもまだ不十分だ。

 彼女でできた池に毒を混ぜる事にした。

 人間を溶かす薬品だ、意識のある状態の時によく使っていたものの余り。

 瓶の中身をひっくり返す、半分以上残っていた中身が池に混ざる。

 変化は時間を置かずに起こった。

 すでに小さな欠片になっていた彼女はぐずぐずと溶けていく。

 元々原型をとどめていなかった彼女は呆気なく形を失った。

 肉はは既に溶けきった、骨は未だ形を残しているがじきに全て溶けてなくなってしまうだろう。

 彼女が消える、消えていく。

 一面の赤に同じ色でもこうも違うものなのかと目を覆いたくなった。

 それでも目は覆わずに自分の悪行を見つめた。

 何度彼女を殺し損なってしまっただろうか?

 数える事すらできない、覚えていられないほどだ。

 ただ、あの日から彼女を痛めつけなかった日が両手でギリギリ数えられる程度である事は覚えている。

 これだけ殺しても未だに感覚は薄れない、初めの方は衝動的に殺す事ができたが今はただ苦痛なだけの作業だ。

 何度殺しても殺せない、一度きりで終わればただそれだけで済んだはずだった。

 まるで罰を受けている様だと思う事もあった。

 大切にしようとした女を殺そうとした事に対する罰、本当は何よりも守りたかった女を殺し続けるしかない事は罰としては十分すぎるだろう。

 それでも、彼女を殺しきるその日までこの手を止める事があったのならそれは最も罪深い事になるだろう。


 華奢な銀色のナイフを胸の中心に突き刺した。

 それはいつもと変わらない意味のない作業だった。

 赤い傷口から溢れた血が白い胸元に流れていく。

 少し前までは不気味に蠢いていた体はもう動きを止めている。

 もう一本、華奢なナイフを握り突き立てようとしたところで、嫌な違和感を持った。

 どこか様子がおかしい気がする、いつも通りの事しかしていないのに何かがおかしい。

 少しの間、違和感の正体に気付かなかった。

 心臓が止まったままだった。

 それはおかしい、頭を潰したわけではないからこの程度で心臓が止まるわけがない。

 見間違えだと信じて、その白い胸元に手を置いた。

 やはり心臓は動いていない、今更のように呼吸もしていない事に気付いた。

 どう考えてもおかしい、白い首は繋がったままで傷ひとつないというのに。

 ふと嫌な予感がして、白い腕を切りつけた。

 この程度ならすぐに治るはずなのだ、ほんの一瞬で綺麗な状態に。

 傷口からゆっくりと血が溢れて、止まらない。

 傷が治らない。

 思わず名を呼んでいた、随分と久しぶりな気がした。

 彼女は何も答えてくれなかった。

 もう一度強めの口調で名を呼んだ、今度こそ聞こえるように。

 返事はない。

 体を揺さぶった、死んだふりはもう終わりにしろ、どうせ生きているんだろう?

 反応は一切帰ってこない。

 …………………………。

 …………嘘だ。

 彼女はもう、死んでいた。

 息をしていない、心臓も止まっている、傷が再生しない、身体から熱が失われていく。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 何故、死んだ?

 それを理解した直後、喉が張り裂けるような痛みを感じると同時に狂ったような笑い声が聞こえた。

 死んでいる、死んでいる、やっと殺す事ができたのに。

 ひどく混乱していた、やっと殺しきったというのに、歓喜を感じながらも別の感情で全身が押しつぶされて気が狂いそうだ。

 しばらく笑い声が聞こえていたが、固く閉じられたままの彼女の目を見ていたら聞こえなくなった。

 本当に、彼女は死んでいた。

 震える手で彼女の身体を抱き上げる、体温がない、心音もない、ああ、本当に死んでいる。

 もう死んだのか、と声をかけるが当然反応があるはずもない。

 死んでいるのだから、答えが返ってくるわけがない。

 死んでいる? 本当に?

 この程度でお前が死ぬとは考えられない。

 抱いていた身体を床に叩きつけるように投げつけた。

 そしてその骨と皮だけの白い身体を踏みにじった。

 細い身体のあちらこちらがひしゃげて折れ曲り、歪んでいた。

 本当は痛いくせに、本当は苦しいくせに、悲鳴の一つでもあげてくれれば少しは救われるだろうに。

 その名を叫びながら白い身体を踏みにじる、華奢な身体が歪んで壊れていく。

 反応はなかった、声を上げるどころかその身体は人形のように動かない。

 ……まだ、死んだふりを続ける気なのだろうか?

 その思いつきに縋るとともに感情が溢れ出す。

 感情のまま、彼女の身体に跨り白い肌に触れる。

 彼女は何よりもこの行為を恐れていた。

 だから、目を覚ますはずだった、そして泣きながらやめてくれと懇願するだろう。

 もう冷めきっている肌を乱暴に触れても、何も言わなかった。

 首を両手で締め付ける、縋るようにその名を呼んでいたが答えはない。

 最後まで犯しても、掠れた声すらあげなかった。

 それならば。

 真っ白で薄い腹を引き裂いて、その中を引っ掻き回して引き出した。

 しかし反応はない。

 ああ……どういう事だ?

 お前はこれも心の底から恐れていたのに。

 泣きもしない、喚きもしない、恐れない恐れない恐れない。

 早く。

 両手は血と内臓の赤で汚れていた、その手を握りしめて彼女の身体を殴る。

 名を叫んでも返事はなく、握りしめた拳で何度も殴っても一向に治らない。

 治れ、治れ、治れ、治れ、治れ、治れ。

 いつの間にか目の前には元の形がわからない真っ赤な肉塊が存在していた。

 ……これは、何だったっけ?

 何ってそれは、彼女に決まっている。

 治らない、当然だ、死んでいるのだから治りようがない。

 もう、戻らない。

 美しかった面影は消え失せ、赤い肉塊となった彼女を呆然と見る。

 自分がこれをやったのだ。

 ……だが、これは自分の望みだったはずだ。

 彼女を生の地獄から解放する、それだけのために長い年月を費やした。

 その末路が目の前の肉塊だ。

 全て私が願った事だった、私の願いはやっと叶った。

 そう、これでいいはずなのだ。

 私はお前を殺してやりたかったのだから。

 他の誰でもない、この私がお前望みを叶えたかった。

 願いは叶った、お前は死んだ。

 私はお前を殺してやりたかった。

 だが、いなくなってほしいわけではなかった。


 彼女は、大昔からこの家に仕える毒花の悪魔の手によって、屋敷の裏の暗く寂しい場所に埋葬された。

 埋葬された場所には石を積んだだけだった、名前は刻むわけにはいかない、だがそこに何かが埋葬されている事だけは示しておかなければならなかった。

 結局、この手の中には何も残らなかった。

 なあ、知っているか。

 誰にも気取られぬように必死に隠しているつもりだったが、私は昔、本当は何よりもお前の事を護りたいと思っていた。

 本当は。

 本当は、本当は。

 いや……やめておこう。

 結局最後まで昔言いたかった言葉を伝えられなかった、ただそれだけの事だ。

 元々、初めから伝えるべき言葉ではないと思っていたから、何も変わりはない。

 死ねて嬉しいか? 少なくとも私はお前を殺す事ができて安心した。

 私が生きているうちに、私の手で殺してやれたのだから。

 かつて護りたかった女を殺し続ける絶望は終わった。

 本当に、終わらせる事ができた。

 彼女はいなくなってしまった、私が彼女にしてやれる事は一つも残っていない。

 ――最期に何の言葉も聞けずに殺してしまった事だけは後悔している。

 せめて、一言だけでも言葉を交わしておけばよかった。

 だが、惜しんでいるのはそれだけだ。

 殺してやりたかった女は死に、私はやっと望みを叶えた。

 ――ならば、もう生きている理由はない。


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壊れた夢 朝霧 @asagiri

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