第五話 フォッグ
頭が真っ白なままその後の学校生活を過ごし、昼休みになったタイミングでスマートフォンで大に連絡をする。
「もしもし?雨城どうかした?」
「ごめん大、事務所から呼ばれたから帰るよ」
学校に来ているときは二人で昼食をとるのが習慣化しているから、予定が入ったときには連絡するのが自然なことになっている。電話口からは音にしてはとても静かで耳をすましても聞こえないくらいの吐息が伝わる。
「わかった。でも大丈夫?無理とかしてる訳じゃないんだよね」
「してないよ」
ほんとうに?という返事に静かな尋問の気配を感じる。
大は結構前からアイドルを休んだ方がいいと迫ってくるようになった、そんなに俺は疲れているように見えているのだろうか。心配してくれるのはとても嬉しい、友達が少なく、親も既にいない俺にとってそういった言いづらいことを直接言ってくれるような人はとても貴重な存在だ。彼だって嫌がらせで物を言う人ではないという事は頭ではわかっている。
それなのに、時々彼の忠告を煩わしいと感じてしまう自分がいるのもまぎれもない事実だ。
*
事務所に呼ばれるのも随分と久しぶりな気がするが、実際はそんなことはないのだろう。酷く間が空いた気がするのは体幹でそう思い込んでいるだけだ。或いは、前までの俺が事務所に入り浸っている時間が長かったせいだ。蒼空がいた時は比較的用がなくても事務所にいるなんて事もあった。自動販売機のコーナーでお茶やジュース片手に他愛もない話をつらつらととりとめもなくしたものだ。けれど、今の事務所にそんなに気軽に話が出来る人はいない。あそこは今、とても殺気立っている。誰もが心に棘を生やして、自分が少しでも傷つかないようにと過剰に防衛本能を燃やし続けている。
今学校にいるので、というといつものように迎えに来ると言っていた。蒼空がいなくなってから、まるで俺が事務所に行く途中に身を投げるとでも思っているのではないかと思ってしまう程に過度に守ろうとしてくる。校門から少し歩いた場所にあるスーパーの駐車場で待っていると、黒のワゴン車が目の前に停車する。ナンバーを確認して乗り込むとそこにはわざわざ営業部の部長が乗っていた。梨型の体型にすこし筋しげな頭頂部、いかにも中年と言った感じのこの男性を俺はあまり好きにはなれない。
池田部長と呼ばれる彼は、一応あるジャンルの仕事の獲得率においては優秀な部類ではあるらしい。けれど、俺の仕事を取ってくるようなことはほぼない。
「天城君、学校お疲れ様。楽しい?」
ミラー越しに脂ぎった額の下にある眉がへらりと緩む。目が細くなり顔に埋まってしまっている。
「ええ、なんとか」
適当に返事をする。いっそ無視をしてしまうと車から降りるときに異様に距離が近い。笑ったのかしゃっくりをしたのか区別のつかない音を発した後、赤信号で停車する。
「そういえば天城君。天城君にお仕事が入ってきてるんだよ、バラエティー番組のゲストだって」
運転席越しに体型のせいで振り返れていないけれど、顔だけはなんとか首周りの脂肪をひねって向けてくる。聞き流そうと思ったけれど、膨らんだ鼻の穴を見ている限り、ここは喜ぶべき場所らしい。本当はバラエティーは苦手だし、どうして呼ばわれたのかなんてわかりきっている。蒼空がいなくなる前だったら断っていたかもしれない。けれど現状を考えているとどうしても仕事を選んでいる余裕はない。仕事が入るだけで感謝しなくてはいけないくらい、うちの事務所は干されてしまっているのだから。
「ありがとうございます、嬉しいです」
目元を緩めて見せると、満足したのか池田部長は息をより一層荒くする。
「天城君は優しいよね、本当はバラエティーだから断るかと思ったんだけどそんなことなかったね。事務所の子も一律で仕事は減ってるから、今はもうほとんど天城君頼りだよ」
妙に分厚い唇から黄ばんだ歯がのぞくと、煙草の煙の臭いがする。この臭いも好きじゃないものだ。
優しい。
よく言われる言葉だけれど、ここ最近で俺はその言葉を言われて好感を持てたことがない。事務所は俺達アイドルを貸し出すことで、その手数料を貰っている。それが儲けだけれど、俺の事務所はその儲けすら入ってこない。俺が今現在稼ぎ頭だと言っても過言ではない。自分での評価だけれど、誰もそのことを否定はしないだろう。もし俺が仕事を選んでしまっていたらどうなるか。経営陣が一体何を始めるのかなんてわかっている。わかっているから、無心で仕事をこなしていく。この仕事は好きだから、嫌いだからなんて選り好みできるような状況ではないことは子供である俺だって理解が出来ている。
それを考えるときに時折思うのは、俺がもっと酷い性格をしていたり、自己中心的な性格だったらもっと楽だったかもしれないという可能性。我がままだったら俺はこんな状況から早く逃げだすことはできたのだろうか。きっとそれは出来ないだろう、むしろ状況は悪化していたかもしれない。
そんな事を考えていると、また頭が締め付けられるような感覚がする。
「天城君大丈夫?」
シートベルトが外れる音がして、池田部長が後部座席に身を乗り出してくる。妙に生暖かい息が前髪にかかる。こめかみを押さえて、逃げるように言う。
「池田さん、信号青になりそうですよ」
「あ、ほんとだね。天城君はいい子だなぁ」
周りがよく見えてるよ、いつでも。
そんなことを言いながらシートベルトを付け直し、信号が赤になったとたん車は発信する。
内心で胸をなでおろしながら、車のグレイの曇りガラスの窓から見える景色に視線を移す。車内の出来事なんて気に留めることもなく、人々は歩いている。
逃亡 かせい @sskasei
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