第10話 第七皇子と第四皇子と賢妃

 桂影は七王府から南にある玻璃はり温室おんしつへと馬車で向かった。

 車内で一人になって、息を吐く。

 彼女と二人でいるのは、息が詰まる。十割の理由で、己に非があると承知している桂影は、自分でも呆れるくらいに異性との付き合いに関して、才能が絶望的にないとわかった。

 相手がこちらに歩み寄ってくれるからこそ、なおさら煩悶感とか焦燥感とか自分の至らなさが目につく。

(どうすればいいんだ)

 こうした悩みを打ち明けたり、相談する相手が、桂影にはすぐには思い浮かばない。

 最も年齢が近い、異母兄にして母同士が姉妹のため従兄でもある宵徳しょうとくは、桂影と真逆の性格だ。彼は己の純潔を黄花閨女に与えるや否や、次々に小星を六王府に迎えている。

「余の趣味は非常に細分化されているのでな」とは宵徳本人の弁だ。髪だ肌だ眸だ指だ声だと、宵徳は五人いる小星について、桂影が聞いてもいないのに滔々と語る。

 おそらく、宵徳は、己の嗜好を秘匿しているのだろう、と桂影は推測する。

 また、皇子の小星が一人だけだと、その役目上、どうしても避けることのできない未来――小星が懐妊する確率が高くなる。

 古代から皇子や公子と呼ばれる貴族の青年が結婚前から関係を持つ妾妃との間に子を成していると、正妻である花嫁とその親族の反感を買った。

 だから妾妃が懐妊すれば、多くの独身の男は、妾妃を己の配下に下げ渡すことで、子の父親は自分ではないと公言していた。

 当事者同士が、忠義心や利害関係などを含めて納得していればともかく、そうはならない現実が多い。

 だから当代の皇子は、龍椅を掴むために、小星の懐妊という事態を避けるために、手立てを講じる。

 己の情欲を統制することが前提であり、小星との関係を最小限に留める。桂影はこれだ。これはこれで、皇子の身体機能に問題ありと疑われるが、桂影は忌明けという大義名分があるため、小星との接触も最小限で問題はない。

 そして宵徳のように、複数人の小星を侍らせて、特定の小星の懐妊を避ける方法だ。全員が懐妊するという危険性が孕んではいるが、小星の衣食住を含めたもろもろの費用は、すべて王府――すなわち皇子個人の財産から賄うため、小星を通して皇子の富貴を知らしめる利益の方が大きい。

(子供か……)

 純潔の女性を破体女としたことで、桂影には「男性」としての機能があると証明された。

 そして子供は、男女が愛し合って生まれる存在だ。だから桂影はいつか父親になる。

 当今とうぎんたる瑞光帝ずいこうていは年功序列ではなく、才能ある者を次代じだいきみとすると決めた。

 黄花閨女や小星を通して、皇子の女の趣味が世間につまびらかになれば、野心ある百官の中には、これと見込んだ皇子が好むような女を未来の後宮に送るような手はずを整えるかもしれない。

 黄花閨女や小星は、不老長寿に至るための皇子の相手以外に、皇子が将来娶る花嫁とその一族に対して、どのような振る舞いをするか、という喧伝材料も兼ねるのだ。

 しかし忌明けの桂影が、己を彩る宝飾の類のごとく、彼女を連れまわすわけにはいかない。そもそも彼女は、美しいけれど、宝石や花ではなく、温かな熱を持つ人である。

 そんな彼女を、薬効よりも毒の印象が強い水仙にたとえたあたり、桂影は「もう僕はなにも言わないほうがいいのでは」と思ってしまう。たとえ玉房経典にある通りに、相手と言葉で語り合い、互いの〈気〉を高め、混じらわせるとあっても、だ。

 悩みが尽きない桂影は、馬車の停止とともに一度考えを打ち切った。

 随従を兼ねる馭者が馬車を停めている間に、桂影は温室へと向かう。

 玻璃温室はその名の通り、天井から壁にいたるまで、鉄の骨組みに玻璃板を一枚ずつ溶接して作られた三層建ての植物園である。

 青空を透かした玻璃の屋根の温室に、一歩、足を踏み入れれば、冬とは思えぬほどの暖気に包まれる。地中に管を通して、東宮内の山にある温泉から熱を得ていると桂影は耳にした。

 南方を象徴するかのように大輪の赤い花が鉢植えに咲き乱れ、訪れた者を歓迎する。室内には花だけではなく、青々と茂る棕櫚の葉が街路樹さながらに植えられており、散策できるようになっていた。

 温暖な地方の植物を維持するための熱気と、花々の芳香が混ざり合い、この空間だけは、外の寒さとは無縁であるらしかった。

 異国情緒が漂うのは、あの娘がいた宜春院も同じだったけれど、あそこと比べるとここは幾分か静かだと桂影は思う。

「――王爺」

 深緑の葉の中に、鳥の形をした橙の花を見ていた桂影は、追いかけてきた馭者の遠慮がちな声に振り向いた。異国の木々の合間から、七王府の馭者と同じく暗灰色の袍を纏った者が四人ほど見えた。そして宦官に囲まれるようにして、一人の青年が立っている。

 中心にいた青年と桂影の眼があった。

「七王爺じゃないか」

「四王爺。お久しぶりです」

 桂影は異母兄の一人と三年ぶりに再会した。

 彫が深い顔に、眼鏡をかけた青年は、第四皇子――通称を四王爺、皓潔こうけつ殿下その人であった。

 桂影より六歳離れた、二十四歳になる異母兄は、離宮で日焼けした桂影と異なり、生来の地黒だとわかる肌に、鍛えられた長身を絹でできた濃紫の長袍で包んでいる。

 玻璃温室は、四王府の土地の一角に作られた。

 皓潔は六年前に帝国初となる花木かぼく図譜ずふを作成した。玻璃温室もその一環で、時季外れの花や樹木を育て、絵心ある者たちに記録させた。精緻な筆で色鮮やかに記された植物図譜を、桂影は子供のころに見せてもらった。

「お手紙ありがとうございます。玻璃温室のすばらしさを、ぜひこの眼で見たいと思い、伺いました」

「よくぞ来てくれたな。お一人か?」

「はい」

 素直に頷いた桂影だが、胸の内では、四王爺は宵徳が必要だろうかと考える。

 宵徳との関係に比べて、皓潔との関係に気安さはないが、他の異母兄と比べれば、皓潔は可もなく不可もなく、つまりは良好だ。

「ああ、いや。六王爺ではなくてな」

「はい」

「貴殿も、六王爺のように、私に小星を紹介してくれるかと思って……」

「まさか」

 苦笑を微かに浮かべる皓潔に、桂影は即答した。

 皇子の妾妃たる小星の多くは、黄花閨女を務めた者も含まれる。

 つまりは、自分好みの女性を連れ歩くことで、世間に自分の異性の趣味嗜好や相手との関係性を邪推されるには十分な理由だった。

 ゆえに、当代の皇子は、百官同様、己の妻妾となる存在は、己の宮殿の紅閨で守り慈しむ風潮がある。

 宵徳が例外なのだ。そして、彼はおそらくそういう言動を取ることに、恐れやためらいはなくて、さらにこれまた桂影一人の推測だが、父帝は、従来の慣習や思考に囚われない者に龍椅を与えるのではないかとも思う。

 若くして儚くなった長兄を除き、桂影にはすでに五人の兄がいる。

 桂影が十五歳で成人したときには、次兄とは八歳離れていた。次兄の同母兄弟にあたる五兄の母は、当代の宰相を実父に持ち、三兄は帝国軍事を担う尚武の家に生まれた女性が母親だ。四兄は眼前にいる皓潔で、建国以前から南方の地を統べる王家の末裔の血を引く母を持つ。

 そして宵徳は、異性関係さえ落ち着けば、百官が納得する血筋――国母たる皇后陛下を生母に持つ、唯一の皇子なのだ。

 龍椅を己で望み、望まれるような環境では、桂影はなかった。



 玻璃温室の持ち主である皓潔に誘われ、桂影は温室の中にある植物を次々に説明される。先を歩く二人の皇子から、二十歩ほど離れて互いの宦官たちが後に続く。

 桂影は、温室の中でひときわ、暖気を感じられる広場に案内された。

 井草で編まれた丸い座布団が載せられた、切り株でできた椅子が、円を作るように並び、さらにその外側には、桂影が一抱えできそうな鉢植えがいくつも並んでいる。

 そのうちの一つ、まっすぐに直立する若木を紹介される。

紅棉樹こうめんじゅも育てたいのだが」

「紅棉樹……とおっしゃいますと、花木図譜に載っていた?」

 切り株でできた椅子に腰を下ろした皓潔は配下に茶の用意を命じると、桂影に隣の椅子をすすめた。

「そう。春に赤い花を咲かせ、白い綿毛を纏った種子は、布団の材料だ」

 紅棉樹は、皓潔の母方祖父母が王家として治める南陽なんようの土地でよく育つ。南陽は温暖な気候で知られており、京師みやこ太清たいせいの冬と比べて温かい。

 そして紅棉樹は、太清では育ちにくいとされる樹木だ。

「紅棉樹は生長すれば、ここの天井を突き破るからな。ま、苗を貰ったものの、ここの気温でどこまで育つかは未知数だが」

 紅棉樹は、この三層建ての玻璃温室の四倍まで伸びると聞いて、桂影は目を見張った。

 そんな異母弟の様子に、皓潔は眼鏡の奥の眸を細める。

「――だから、七王爺。温泉を地下から引く以外に、熱源となるようなものはないか?」

「と、おっしゃいますと?」

 異母兄の真意がつかめずに桂影が問うと、皓潔は平素と変わらない、桂影と同じく皇子らしく己の感情を表に出さない表情で言った。

「熱量が維持できるような石や岩、土を知らないか?」

 桂影の趣味は鉱物収集だ。必然、国内外の鉱石や土壌についても詳しくなってくる。

 泥炭や木炭、石炭と答えようと、桂影が口を開きかけると、ちょうど茶が運ばれてきた。

 茶器を載せた四角い盆を抱える宦官の後から、折り畳み式の木でできた卓を運ぶ宦官が続く。

 簀子のような卓を広げると、脚が交差するように立った。

 その上に盆を置いた宦官が銀でできた茶壺を取り上げ、茶杯に注ぐ。

五花茶ごかちゃだ」

 紅茶色の水面を除く桂影に、皓潔が説明する。

「先ほどの紅棉樹に、金銀花すいかずら、菊、えんじゅ緬梔プルメリアの花弁を乾燥させて、湯を注ぐ」

「花の匂いがしますね」

「甘いから、貴殿好みだと思う」

「畏れながら、四王爺。御身の中で、私は何歳なのですか?」

 甘味は女子供が口にするもので、とっくに成人済みの男が好んでいいものではない。

 しかし、皓潔の中で、桂影は未だ甘いものを好む子供のままらしかった。

 彼の言葉通り、温かな五花茶を一口すすった桂影の舌に微かな甘みが通り抜ける。

 好みの味だ。そうした桂影の表情を見て、皓潔が蓋を開けた銀壺を差し出す。水分が抜けてぎゅっと内側に縮まったような、黒に近い焦げ茶色の豆粒が入っている。

「より甘味を求めるなら、蜜棗みつなつめもあるぞ。入れたほうが、美味しい」

「……ありがとうございます」

 銀匙が入った壺を受け取った桂影は、勧められるままに、蜜棗を一粒、茶杯に入れた。

 蜜棗は、棗の実に切り込みを入れて、たっぷりの砂糖で煮込み、天日干ししたものだ。

 食べすぎると、糖分がもたらす肥満や虫歯につながるため、一日に口にしていい蜜棗は十粒までと子供のころに言われた。

 桂影も、皓潔も、弁舌が滑らかな性格ではないため、互いに質問しては答えるという会話が続く。

宵徳以外の兄たちの中で、皓潔は一番話しやすい相手ではあるが、自然と、話題の種が尽きるし、なにより祝い事――祝い事なのだ、〈黄花の儀〉は――を済ませた桂影の最近の生活に移ってくる。

(……四王爺はどうされたんだろう?)

 喉まで出かかった言葉を、桂影は呑み込んだ。あちらから勝手に振ってくる宵徳と違って、そもそも皓潔とは尾籠な話をするような間柄ではない。

 それに、いくらなんでも異母兄の異性関係を聞くのは無礼ではないか。

 というか、腹違いとはいえ兄弟の閨事情なんて知りたくないし。

 なんというか、生理的に。

 それでも、皓潔は無表情のまま、平坦な声音でぽんと桂影の肩を叩いた。

「そりゃあしょうがないさ、七王爺。我らが生まれ育った場所は、極端すぎる」

 歴史を紐解けば、後宮には成人済みの皇子が暮らした王朝もあり、皇子が父皇帝の妃嬪と禁忌の関係を結んだとか、東宮で働く女官に手を出す皇子がいて、世継ぎとなる帝胤の乱れを産んだとかで、銀漢帝国の皇子は、女性と宦官しかいない後宮と、男性と宦官しかいない東宮で過ごす。

 いくら男女の別を教えられるとはいえ、世の男性と比べても、皇子は異性とは無縁だ。実の母親でさえ、幾人もの人間と幾つもの城門を潜らねば会えないし、市井の男のように、異性への興味を覚える年頃になったら、東宮へと移り、周りには宦官と官僚である身内の男性しかいない。

 だから先帝は幼少時から仕える宦官とわりない仲になったわけだが、正直、十五の皇子に(自分好みとはいえ)いきなり婦女子が宛がわれるのも、皇子側にとっては対応に困る者もいるのだ。

(困るのは僕だけか?)

 かと言って、六王爺こと宵徳のように、見聞を広げる名目で微行――ほいほいと市井、それも花街に出向く行為――も、褒められたことではなかった。

 そのようなことをつらつらと考えていた桂影は、皓潔の言葉で我に返った。

「牡馬たる証明を朝廷に知らしめ、かといって小星との間に御子を儲ければ、花嫁側の心証を悪くするから房事もそこそこに控えねばならなぬ。まこと我らの立場は、極端だな」

「そうですよね!」

 桂影は思わず同意を得たりと顔を輝かせる。

「まっ、あまり気にするな……と言いたかったのだがな。どうやら貴君には、別の言い方をしたほうがいいようだ」

「別の……と仰いますと?」

 皓潔はちらと桂影を一瞥した。

「その前に、七王爺。私に協力してくれ」


 *   *   *


 皇帝は朝廷において百官を従え、皇后は後宮において四妃しひ九嬪きゅうひんを従えて君臨する。

 その女性――てい賢妃けんひは、来客の報せを受けて慄いた。

 賢妃ともなれば、皇后に次ぐ四妃の一席で夫人と呼ばれる地位にある。後宮階梯かいていで言えば、朝廷における宰相も同然なのだが、彼女が恐れる相手は、瑞光帝の逆鱗に触れることでも、郷里の民による反乱でもなく、我が子そのものであった。

 女性はふくよかで肉付きが良く、男性は長身色白、優美な面立ちが「美男美女」とされる風潮の中で、二十四年前に彼女が腹を痛めて生んだ息子は、健康であるものの、美形とは程遠かった。

 背丈はあり、顔の造形も父親である皇帝曰く「親父に似ている」との発言から、帝室の血が明らかではあるものの、南方の先祖の血が色濃く出たのか肌は浅黒く、くっきりと作られた眉間のしわと眼光の鋭さも相俟って、常に他者を睨みつけているように思える。

 そんな賢妃の心情なぞ知らない二人の皇子は、彼女が客間に現れると声を揃えて抱拳した。

「賢妃殿下、御機嫌よう」

 薄絹を張った丸扇を口元に当てて、賢妃は応じた。

「ご機嫌よう。四王爺、七王爺」

 長幼の序に従い、息子から先に言葉をかけた賢妃だが、内心では、息子と肩を並べる桂影の訪問に、胃痛を覚えていた。

 賢妃閣は、皇帝より賜った、賢妃の権能が及ぶ私有地である。すなわち、ここで働く宦官や宮女の不始末は、すべて賢妃の責任となった。

 新米の宦官がうっかり厨房の小皿を割ったとか。

 老いた宮女が年齢のせいか、私物の櫛をどこかに忘れたとか。

 自由奔放を描いたような姪が、皇帝の養女になり、公主として異国に嫁ぐことになったとか。

 そういう、雑事として片づけられる問題を、後宮の人間として、調書に取り、不定期に訪れる宮正――宦官で構成された警察機構だ――に提出しなければならない。

 貞賢妃は、自分が皇后やその妹で亡き貴妃、宰相を父に持つ淑妃、軍を率いていた祖父や父と同じく自身にも剣の心得がある徳妃と異なり、自分自身が平凡だと知っている。

 だから、一国を統べる君に相応しくあれと育てられた息子や、他の皇子が、怖い。

 賢妃自身が努力して作り上げた穏やかな日々を、壊しそうだから。


 *   *   *


「玻璃温室で七王爺と出会いましてね。妃殿下に挨拶をと言うものですから」

 口を開いたのは四王爺こと皓潔だ。

 桂影は玻璃温室での彼との会話では、そんな言動も態度も微塵も彼には見せなかったが、今はただ大人しく黙っている。余所行きの、つまりは伯母である皇后の配下にあたる賢妃に向けて、第七皇子として、第四皇子の生母と相対していた。

 ――私と一緒に賢妃閣に来てくれ。なあに、貴殿は黙っていてくれるだけでいい。

 頼む、と皓潔に言われてしまえば、桂影もうなずくほかない。

 皇子とその生母である妃の場合、市井のような母子関係を築く前に、皇后陛下その人を「母」として崇めるのが先にくる。

 生母については、あくまで皇子たる己を、母である皇后の代わりに産んだ存在とみなしている。

 そしてまた異腹の兄弟の場合、自身と腹違いの兄弟の母との関係も複雑に絡んでくる。

 桂影の場合は、現存する成人済みの皇子で唯一、生母である母妃を喪っており、名実ともに、伯母である皇后を嫡母と仰ぎ、本当の母子のような関係ではあるが、裏を返せば、桂影の言動は、宵徳と同じく「皇后を母親に持つ皇子のもの」と他人には受け止められる。

 交流がある分だけ、皓潔との関係は良好だと桂影は思っている。ただ皓潔の母である貞賢妃については、息子ほどの付き合いはまったくない。

 桂影の貞賢妃に対する印象は、大人しいというか物静かというか、言葉を選ばなければ、なにを考えているのかもわからない、人となりが掴めないがゆえに対策できない、そんな女性だ。

 相手も同様の考えをこちらに向けているとは微塵も思ないまま、桂影は、四王爺とその母の会話を聞いていた。

 賢妃の故郷である南陽について。

 四王爺が所有する土地で竣工された玻璃温室と、そこで育てている植物について。

 だから桂影も、そしておそらく賢妃も、四王爺はただ日々の出来事を生母に報告しに来ただけだと思った。

「――そうそう、御母上様。私、大家より南陽王の地位を賜りました」

「はっ?」

「なんですって?」

 桂影の小さな声は、賢妃の声にかき消された。

 彼女は、自分が声を上げたことに気づくと、すぐに扇で顔を隠し、鋭い光を宿した眼差しをのぞかせた。

 桂影は一瞬だけ賢妃と眼があった。四王爺の発言について、事前に知っていたかと、窺わせる賢妃の視線に、桂影は初めて聞いたと言わんばかりの態度で無言を貫いた。

「妾は、大家にも娘子にもそんな話を聞かされておりません」

 大家が皇帝陛下を表すのならば、娘子は皇后陛下を示す。

 皓潔は泰然としたままで言った。

「私の口から直接申し上げたいと、御二方に無理をお願いしたのです」

 当代においては、朝廷と後宮を行き来する宦官はすべて皇帝陛下に忠誠を誓っている。

 もしかしたら、皓潔の上奏を、賢妃に注進した宦官もいたかもしれないが、賢妃の様子を見るに寝耳に水のようだと桂影は考える。

(四王爺はなにをお考えか……)

 皇子から王になるということは。

 皇帝陛下の後継ぎたる太子候補から外れることを意味する。

 異母兄の唐突な告白に、それも政治的発言を、桂影はどのように受け止めるか考えあぐねた。

 なにせ皇子と王では、得られる情報も、人員も、未来すらも桁違いだからだ。

 長子が皇帝となる時代は、次男以下の弟皇子たちは王となって一地方に封じられた。物理的に政敵を玉座から遠ざけ、佞臣奸臣どもの繋がりを断つだめだ。

 政治の中央に近い東宮で過ごす皇子から、馬や船で何日も移動せねばならない土地を治める王。

 皇子は最初から皇帝の子供だが、王は家臣として皇帝と皇帝の子供に仕えるのだ。

 自発的に、王に臣籍するということは、すなわち皓潔は己も己の子孫も、未来の皇帝に仕える立場だと明言したことになる。

 そしてまたこういう発言は、桂影の立場なら、事前の根回しを受けたうえで、朝廷で父帝から封爵される四王爺を見るのだが……。

 賢妃は呆れたように額を押さえた。

「なんともまあ。子供じみた真似を……」

「あちらに着きましたら、母上様のお好きな果物を贈りましょう」

「いいえ、結構よ。間に合っているわ」

「では、南の花を。東宮にも玻璃温室が竣成したのです」

「それも結構、やめて頂戴。御身がせずとも、妾は大家より賜っているのですから」 

 否定ばかりを口にする賢妃に、桂影は思わず声を上げた。

「畏れながら、賢妃殿下――」

「黙りや、七王爺。妾は、四王爺に申しているのです。母子の会話に嘴を挟むのではない」

「よいのだ、七王爺」

 皓潔に手で制される。

「一番お伝えしたかったことも、お伝えできましたし、これ以上の長居はお邪魔かと思います。七王爺、帰ろうか」

「よろしいのですか、四王爺?」

 立ち上がった皓潔に合わせ、桂影は腰を浮かせた。

 良いのだ、と唇を動かす皓潔を見て、賢妃も話は終わりとばかりに立ち上がる。

「彼の地の民に安寧を――お元気で、四王爺」


 *   *   *


 賢妃閣を丁重に追い出された桂影たちは、再び馬車に乗って玻璃温室に向かっていた。

 皓潔が言った。

「難儀なものよ。孝徳を重んじる礼教を叩きこまれたというのに、皇子であるだけで、二親と会うのも制約がかかるのだから」

 一応、桂影たちの父である瑞光帝は、成人した皇子に限って言えば、謁見は百官同様手続きを踏めば可能である。妃嬪たちとの接見は、生母のみ決められた場所で許されてはいるけれど、母親が諾としなければ、息子はそうそう会えるものでもない。

「いつもは門前払いなのだが、今日は貴君のおかげで、お会いすることができた」

 皓潔一人であれば「母親として」面談を断る賢妃だが、今回は桂影もいるため「賢妃」として面談に応じたのだと異母兄は語る。

 第七皇子たる桂影自身より、その背後にいる桂影の伯母である皇后元氏とその長男にして第六皇子、宵徳を見てのことだろうとは桂影も理解している。

「賢妃殿下は……」

「昔から、ああいうお方だったよ」

 貴殿は、と皓潔に振られ、桂影も「同じく」と肩をすくめる。

 当代の御子は、公の場では、皇后陛下その人を「お母上様」と敬い、自身の母親への呼びかけは、母に与えられた位に即したものとなる。また乳母や宦官が傅役を務めるため、市井のような母子関係にはならない。

 だから今回のような私的な謁見でしか、産みの母を母と呼べない。

 呼びたいかと問われたときに、桂影はすぐさま諾と言えないが。

「四王爺――」

 かける言葉を探す異母弟に、皓潔は唇の両端を微かに上げた。

「母上の気持ちもわからなくもないのだ、七王爺。私自身も、母上の御実家も、朝廷を牽引する力はない」

 苦笑とも諦めともつかない異母兄の微笑みに、桂影は困惑を隠せない。

 第四皇子、皓潔殿下は眼鏡を使用している。つまりは視力に問題があるとみなされており――彼の子供も同様である可能性がある。だから皓潔自身は、十代のうちから臣籍に降ることを父皇帝に表明していたという。

 息子との別離を表明することで、賢妃は外戚が皓潔を旗頭にしないようにしている。そしてそれを皓潔もわかっている。

 そして幸いにも、賢妃は、我が子に素質があろうとなかろうと、無理やり神輿に担ぎあげるような、そうした野心は一切ない人だと皓潔は口にする。

 馬車が停まった。玻璃温室に着いたのだ。

「――そう。小星との対応だったな」

 桂影は正面に座る四兄をまじまじと見つめた。

「覚えておられたのですか」

「ああ、もちろん」

 侍女と思えばいい、と皓潔は事も無げに言った。

「侍女――ですか?」

「そうだ。侍女と言えば、我らが母上様たちを慰める後宮の客人だな」

 後宮の女性は三種類に分けられる。一つは、桂影たちの母親、妃嬪だ。皇帝と契りを交わし、御子を儲ける役割を持つ。二つ目は、宮女。彼女たちは、宦官と同じく妃嬪の世話係を務める。

 三つ目は、侍女だ。彼女たちは、宮女より立場が上であり、妃嬪の血縁者が多い。

 龍床に侍ることはなく、深閨の婦人に相応しい教養を得、後宮内外を結ぶ人脈を作る。家柄によって、皇子の伴侶となる可能性もある。

「小星だとか、寵愛だとか考えるからいけない。なにせ私達にとっては初めて接する異性なのだから、諸々が困惑するのも無理はない」

「はい」

 ただ優しくするだけで「色に溺れた」と罵言を浴び、置物のように扱えば「牡馬たる資格なし」と肉体の機能と花嫁を娶る資格を疑われる。

 それが皇子だ。

「だが、あいにく私も貴君も六王爺のように器用ではないからな」

 ――異母兄の忠言を耳にして、桂影は目を瞠った。

「しかし、四王爺。玉房経典にはそのようなこと書いてありません」

「そうだったか? いかんせん、私が経典を目にしたのは九年も昔。記憶があやふやなのは致し方あるまい?」

 眼鏡をかけているおかげで、目を細めなくても良いはずなのに、桂影の言葉を聞いた皓潔の眸が細められた。

「まあ、そのように思い詰めた顔をするな。経典によれば、頭で考え過ぎると、身体の動きが悪くなるとあっただろう?」

 そうだったか、と桂影は脳裏で蓮の花の表紙を捲る。思案顔になった彼を、異母兄はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。

(……難しく考えることはないんだ)

 侍女への対応なら知っている。母や伯母の周りにいた彼女たちなら皇子として接したことがある。

 ――彼女を立派な貴婦人にし、相応しい嫁ぎ先を用意する。

 それが主人たる己の役目ではないか。

 そう思うと、なんだか気が楽になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄花の皇子と仮初の寵姫 あらま星樹 @arama_h04k1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ