第30話 最終章(3)
平日の夕方、退勤時間にはまだ早いはずだが、その居酒屋は結構混んでいた。
だが予約を入れていたため席は確保出来ている。店に入った竹山議員は店員に聞いてその場所に向かった。カーテンで仕切られた予約席は二人用で、既に一人の男が席に座っていた。竹山の友人で自称“竹山議員の非常勤秘書”の元坂太樹だった。色黒で体格の良い彼は竹山とは対照的だ。
「久しぶり、元気だったか?」
元坂が片手を上げて挨拶すると
「ああ、君は相変わらず元気だね」
と応じながら竹山は向かい側の椅子に座った。
店員がお通しを持ってくると、男はビールとメニューにあったAコースを注文した。今日は料理を食べるのが目的ではないので注文の手間を省いたのである。
ビールはすぐに運ばれてきた。互いのグラスに注ぎあうと「再会を祝して」乾杯をした。
「いろいろ大変だったな」
いっきにビールを飲み干した元坂が言うと
「まったくだ」
と竹山は答えた。そして
「俺は嘘をついてしまった。二度と見捨てることはいたしません、と言っておきながら彼女を助けることは出来なかった」
と言いながら苦痛に満ちた表情を浮かべた。
「気になさんな、政治家は二枚舌、三枚舌を使ってこそ一人前さ」
元坂はわざとおどけた口調で言った。竹山は何も言わなかった。
元坂は言葉を続けた。
「俺も外川家の家政婦が北の工作員らしいという情報は掴んだが、まさか日本人拉致被害者とは思わなかったぜ」
「誰もそんなこと思いもよらないよ」
竹山は溜息混じりに応えた。
「彼女、ええと輝田星香さんだっけ、自首したんだし、まずは保護すべきだろう。調べた結果、日本人でなくても彼女から情報を聴き出すことは出来たじゃないか」
「俺もそう思うよ。何も追い払う必要は無いだろうに」
最初の料理が運ばれてきた。チーズピザのようなものだった。
元坂が一片摘んだ。
「今回の件で思ったんだけど、政府も拉致問議連も拉致被害者を助ける気があるのか、というか彼らは拉致事件をどのように考えているのか分からなくなった」
「具体的に言うと?」
元坂が先を促す。
「最初から輝田さんは受け入れる気が無いのがありありと分かったんだ。身元確認云々は置いても、被害者救出運動に支障が出るとか、外交に於いて我が国の国益を損なうとか、よくもいろいろと理由を考えたものだよ」
ここまで言うと竹山もピザを口に入れた。
「いくら女優として良い暮らしをしていたとしても彼女が幸福だったとはいえないだろう。工作員になったのだって彼女の意思とは無関係だ。これらが運動にマイナスになると言うのなら、そうならないように努力するのが我々議員や関係者の義務ではないか!対中国、対ロシア外交が面倒になると言うのなら、それを解決するのが外務省の仕事じゃないか! どれもこれも一人の国民を犠牲にする理由にはならないだろう」
じっと耳を傾けていた元坂が口を開いた。
「君も気付いていると思うが、これらは表向きの理由さ」
「やはり金絡みか? 或いは何か弱みでも握られているのか?」
「まぁ、そんなところかも知れない。建前はともかく、皆、現状維持を願っているのさ」
元坂は呆れたというような口調で話し続ける。
「なまじ事態が改善してしまったら仕事にならない人間が結構いるからな、今の日本には」
「拉致問題を前面に出して当選した議員とか、公安関係者や北を相手に小金を稼いでいる連中とか、いわゆる市民運動家や…」
竹山が思いつくまま上げる。
「そんなのは物の数ではないよ。もっと大物がいる。北が無くなり、東アジアが安定したら兵器が売れなくなるじゃないか」
元坂がニヤリとした。そして話を続ける。
「米国の国力からすれば北朝鮮なんて簡単に潰せるさ。それをしないのは、あの国が必要だからだよ」
竹山はまた溜息をついた。
「日本国内にも韓国にももしかすると中国やロシアにも彼らと利益を共にする者がいるかも知れない」
「そうだな」
「だとしたら、日本の、いや韓国や東南アジア、その他世界中の拉致被害者やその家族話を堪らないではないか! 一介の庶民の存在なんて、やはりその程度のものなのか」
竹山は絶望的な気分になった。自分や外川サトミの力ではどうにも出来ないだろう。
「所詮、俺は何も出来ないのか」
彼は自身の無力さを実感した。脳裏には、拉致被害者や特定失踪者たちの家族の面影が次々と浮かんだ。この人々に“諦めろ”などとはとても言えない。
苦悩の表情を浮かべる竹山に元坂は静かに言った。
「目に見えないウイルスは巨象だって死に至らしめることが出来る。小が大に勝つ方法もあるんじゃないか?」
「そうだね。とにかく諦めてはいけないんだ。我々が諦めて手を引いた時、拉致被害者たちの存在が消えてしまうんだ」
「うん、まだまだ方法や手段はあるはずだ。考えよう、知恵を絞ろう」
この時、何皿目かの料理が運ばれてきた。山盛りのポテトフライだった。
「腹が減っては戦は出来ず、食べようぜ」
「そうだね。ビールも頼もう。まずは体力をつけて」
ビールがきた。それぞれのグラスに注いだ。
「拉致被害者全員奪還」
「特定失踪社全員奪還」
二人はグラスを高く上げた。
愛しき名前~ある特定失踪者少女の半生 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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