第29話 最終章(2)
「何て過酷な人生なのだろう」
日本語で書かれた供述書を読み終えた外川サトミは呟いた。
そこには、ストーカーに家族を皆殺しにされ、その心の傷が癒されかけた頃に拉致され北に連れて行かれ、挙句の果て工作員にさせられた日本人女性の半生が記されていた。
工作員にさせられた特定失踪者・輝田星香が名乗り出たという情報が入った時、拉致問題解決議員会は大騒ぎになったと竹山議員は言っていた。拉致担当大臣を解任され、ついでに国会議員も辞めてしまった彼女はその場にいることは出来なかった。そのことは今も悔まれる。
竹山議員によれば、会のメンバーは、まず輝田星香を受け入れるかどうかで揉めたそうだ。竹山が何故そのようなことを言うのか分からないと発言すると、彼女が本当に特定失踪者なのか断定できないと言うのである。これは詭弁だった。既に北で共に暮らしていた帰国者・荷田勲が認めているし、それでも不十分ならば実際に彼女に面談して確認すれば済むことである。
最も障害になったのは、工作員だった彼女が韓国や米軍基地に対する工作の他、北の友邦とされる中国やソ連に対する工作も行なっていたということだった。我が国の友邦である韓国や米国に対してなら彼女の行なったことについての謝罪や補填は何とかなるだろう。だが、友邦とは言い切れない中国、ソ連に対してはそう簡単にはいかないだろう。下手すれば日本国にマイナスになってしまう可能性すら考えられる。政府というより担当省庁は面倒なことには関わりたくなかった。そうでなくても仕事の多い彼らは議員を使ってそうしたことを持ち込まないようにしていた。
また、彼女は“不幸でない”拉致被害者だった。女優として大成功し、北でそれなりの生活をしていたと思わせる彼女に日本社会は同情するだろうか。実際、彼女は実年齢に比べ若々しく綺麗だ。北で苦労しやつれた拉致被害者をイメージしている日本人にとって彼女は気の毒には見えないだろう。このことは拉致問題解決運動にマイナスになりかねない。
その他、様々な理由を付けて輝田星香の受け入れに難色を示した。そして遂に彼女を拉致被害者と認めず、一人の工作員として公安に引き渡すことにしてしまったのだ。
竹山は外川の力を借りて自分たちだけで取り合えず、星香を保護しようと考えた。だが、巧くいかなかった。
外川は旧知の韓国国家安全院職員に連絡をし、北朝鮮工作員・金輝星が韓国入りすることを伝えた。そして、彼女を捕まえた後、彼女の供述調書をこちらにも送ってくれるよう頼んだ。その時、職員は奇妙なことを言った。「今回も我が国に押し付けるのですか?」 今度も、というのは前にも似たようなことがあったのだろうか? 拉致担当大臣である自分の知らないうちに何事かがあったのだろうか。
まもなく、韓国で“拉致された日本人”だと称した北朝鮮の女性工作員が自首をした事例があることを知った。この件は外川大臣に報告されなかった。
時々、官民を問わずこの国の人々は本当に拉致被害者が救出されることを願っているのかと疑ってしまうことがある。
輝田星香のように不幸に見えない被害者には人々はやはり同情しないのだろうか。一口に拉致被害者といっても工作員になった人、軍人になった人、党員になった人等々、一見良い生活をしているように思える人もいるかも知れない。恐らく多種多様な人生を歩んでいることだろう。“不幸でない”被害者に対し、人々はどう思うのであろうか。自分の方がもっと苦しい生活をしているのだから、こんな人々に手間と金を使うくらいならその分こっちに寄越せと言い出す人も出るだろう。今でさえ、帰国した拉致被害者に経済的な援助をすることを批判する人もいるのだから。
しかし、自分の意志とは関わり無く、いきなり見知らぬ地に連れて行かれ、日本とは全く異なった社会で生きなくてはならなくなったこと、肉親や親しい人々との繋がりを絶たれ、自分が大切にしていた全ての関わりを奪われたことは不幸でないと言えるだろうか。被害者たちがあの国で替わりにどれ程良い待遇その他を得られたとしても、これらに比べれば何の価値もないことだ。
手元にある調書を見つめながら改めて考える。これでよかったのだろうか。確かに韓国の国家安全院の監視下に置かれれば星香の身の安全は確保できる。だが、彼女は養父母の元へは帰れず、荷田先生たちは彼女に会うことすら叶わないのだ。
それでも生きていれば、これから何とか出来るのではないか、いや何とかせねばならない。それが自分のすべき事なのだから。
韓国では輝田星香の供述調書を原則50年間、たとえ大統領であろうと閲覧不可にするそうだ。政争や外交の道具にしないようにするためだ。
日本でこれを目にした者は今のところ自分以外にいない。他の人間に見せるつもりも無い。そして、韓国同様50年非公開としようと思っている。
50年後、この問題は解決されているのだろうか…。
そんな悠長なことを言っている場合ではない、被害者にもその家族にも時間はないのだ。今すぐにでも解決しなくてはならない、たとえ、どのような困難があろうとも。
ここまで考えが到った外川サトミは誓いを新たにするのだった。
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