第9話・幽霊猫と消された双子 後編



 翌朝。出勤する俺に付き合ってくれたのは竜さんだった。

 竜さんは歩きながら空を見上げた。

「あー……綺麗な青空」

 見上げる空は確かに綺麗な青空だが、既に夏や秋の色ではない。

 季節は冬に近付きつつある。

 山の方はかなり雪が降るものの、この辺りはさほど積雪は無い。過ごしやすい土地だと思う。

 俺が昔住んでいた場所はかなり山の上だったから、これぐらいの時期から大変だったものなぁ。寒くて寒くて。

 雪が降れば降ったで大変。

 特にばあちゃんと二人暮らしだった俺は、雪かきやら屋根の雪下ろしなんてのもしていたのだ。

 ……大変だった。

 それが無いだけ、こちらはかなり、マシ。

 ふと、俺は疑問符を浮かべる。

「そう言えば――昨日、警察からの電話受けたの、誰だったんですか?」

 俺の事を家族と言ってくれた人。

 竜さんは空を見上げていた視線を下げる。

 空と同じ色の瞳。竜さんの目の色は、どちらかと言えば夏の色だけど。

 それでも、空に近い、綺麗な蒼い色だ。

 その瞳が少し不思議そうに俺を見ていた。

「俺だけど」

「……最初から、最後まで?」

「……あぁ」

 竜さんは質問の意味を掴みかねてる。

 思わずにやにや笑い出した俺の顔を、睨み付ける様な視線で見ていた。

「……ンだよ? ハナを迎えに行かせたのまずかったか?」

「いいえ」

 にやにや。

 竜さんは俺の笑いの意味を尋ねなかった。

 その代わり、睨む視線を弱めて、口元、笑みを与える。

「――案外、平気そうだな」

「結構、疲れてますよ」

 でも、と、まだにやにや。「家族が頑張ってくれてるのに、俺が一人でへこんでいられないでしょう?」

 ね?

 竜さんはまだ不思議そうだが、あぁ、と短く頷いた。

 その返事がやっぱり嬉しくて。

 凄い、凄い馬鹿みたいだけど、命を狙われているのを忘れるぐらい、嬉しかったのだ。





 仕事はいつも通りに進んで、昼休み。

 携帯を取り出した俺は、見覚えの無い番号からの着信が複数回あるのに気付いた。

 携帯の番号だ。

 誰だろう?

 白桜荘の誰かかな。

 黒川さんの携帯番号は知っているものの、他の人の番号は知らない。持っているのなら聞いておこう。

 でも、今は、この番号。誰の番号だろう?

 茜さん手作りのお弁当を片手に考えた。

 休憩室。今は俺一人。

 電話掛けても大丈夫かな。

 着信履歴からその番号に掛けようとした途端、マナーモードの携帯が震えた。

 同じ番号が画面に表示されている。

 俺は慌てて電話に出た。

「もしもし?」

『もしもし』

 女の子の声だった。

 微かな笑みを含んだ、若い女の子の声。

 どきり、とした。

『もしもし、私が誰か分かりますか、基樹さん』

 笑みをたっぷり含んだその声。

 一度しか会ってない。

 それでも十分に印象深い声だった。

「……亜子さん?」

『はい』

 嬉しそうに彼女は笑った。

 俺は休憩室の窓を背に立つ。

 少しでも通話を長引かせようと思っていた。俺に出来る事なんて多くない。でももし何か情報を得られたら。それと、彼女を説得出来たら。

 無理かもしれない。

 でも、何もやらないよりは、ずっといい。

「……どうして、俺の番号を」

『昨日、荷物の中に携帯があったので勝手に番号を調べさせて頂きました』

 申し訳ありません、と、亜子さんは謝罪した。『連絡手段が欲しかったので』

「いいよ。俺も、連絡手段があると助かる」

『そう言って頂けると助かります』

「俺に、何の用? また伝言?」

『伝言ではありません。――お願いが、ありまして』

「……お願い?」

 俺は自然、身を硬くする。

 白桜荘の皆を殺すと宣言した子のお願いだ。外見が幾ら綺麗な女の子に見えても、中身はどんなものか分からない。

 どんなお願いを言ってくるものか――

『私と、デートしてくれませんか』

 ほら、とんでもないお願――

「……………」

『……………』

「……………」

『…………もし、もし? 基樹さん? 基樹さん?』

「……えーと」

 ようやく、声を絞り出す。

 ゆっくり、ゆっくり、俺は、言う。

「でーと?」

『はい』

 亜子さんの声はしっかりしたものだった。

 昨日の彼女の姿を思い出す。

 真っ直ぐに俺を見る、紅い瞳。

『デートです。私と、二人きりで会って頂けませんか』

 二人きり。

「デート以外の目的じゃないよ、ね」

 目的はデートです、と、亜子さんは返す。

『会って、お話をして下さい。――普通のデートコースってどうするのでしょうか? 映画とかお食事ですか?』

「いや、その――」

 そんなに長時間一緒に居るのはちょっと怖い。

『ならお話だけにします』

「……」

『約束しましょう。デートの際は貴方に危害を加えるような真似は決して致しません。弟も連れて行きません』

 笑う、声。『私と貴方。二人きりでお話致しましょう』

「長い時間は裂けないよ」

『では、今日、1時間だけ、仕事を早く上がって頂けませんか。基樹さんの仕事場の裏手に児童公園があるでしょう? そちらで、お会いしませんか』

 仕事場まで調べられているのか。

 ここで断っても――どういう手段を取られるか。

 今日と言うのは急だが、仕事はさほど忙しくない。

 1時間早く上がるぐらいなら大丈夫だ。

「分かった」

『嬉しい』

 亜子さんが漏らした声。

 ですます口調から外れた、呟き。

 ――それが、心からの声に聞こえて、俺は、戸惑う。

『基樹さん、お待ちしてます。何時に、なりますか?』

「5時、になると。少しずれるかもしれないけど」

『分かりました。その時間に』

 少し、沈黙。

 あの、と、亜子さんは切り出した。

『この番号、私の携帯です』

「……?」

『それだけです』

 では後ほど。

 その言葉を最後に、電話は切れた。

 俺は携帯を耳から外し、待ちうけ画面の携帯を見つめる。

 亜子さんの最後の言葉の意味を考えて――。

 迷いに迷って、俺は、亜子さんの電話番号を自分の携帯に登録した。





 5時7分。

 それが仕事場を出た時間。

 職員用入り口で一瞬、俺は足を止める。竜さんに連絡すべきかと思ったのだ。

「……」

 だが、俺はそのまま動き出す。

 児童公園まで歩いて3分も掛からない。

 この季節ともなると、5時で既に薄暗い。

 それでも亜子さんの姿はすぐに見つかった。

 ブランコに座っている。

 昨日と同じセーラー服。

 俺に気付くとぱっと笑う。立ち上がり、スカートの裾を払って直すと俺の方へと歩いてきた。

「来て下さって嬉しいです」

「こっちも話をしておきたかったから」

 手に持っていた携帯の時計を示す。「でも時間はそんなに無い」

「お迎えに来るのですね」

「知ってるんだ」

「予測は出来ていました」

 皆、貴方を護るでしょうから。

 そう言って亜子さんは微笑む。

「話、って、何?」

「デートとお伝えしました」

「そういう冗談を言い合う立場じゃ、お互い無いと思うよ」

「冗談でデートなど申しません」

 亜子さんはまだ微笑んでいるが、俺から一秒も視線を逸らさない。

 真っ直ぐ過ぎる視線。

 俺も思わず見つめ返す。

 俺の視線を受けて、亜子さんはやはり笑う。

 長い黒髪をさらりと掻き上げた。

「冗談で、姉べったりの弟を騙して振り切って、此処までやって来ません」

「……」

「私たちは双子なんです。生まれた時からずっと一緒です。あの子は私無しでは一秒も我慢出来ないほど、私にべったりなんです」

 よく似ていると思ったがやっぱり双子か。

 ……意外と双子って多いものなんだな、と俺は思う。

 双子なんて単語を聞いたからだと思う。

 頭の中が奇妙に冷めていく感覚。

 俺は亜子さんを改めて見る。

 俺の雰囲気が変わったのが分かったのだろう。

 亜子さんの口元。笑みの種類が少し、変わる。

「俺にそういう話する為に呼んだ訳じゃないでしょう?」

「はい」

 亜子さんは笑う。

 笑ったまま、言った。

「私たちと取引しませんか」

「……取引?」

「貴方は殺しません。それから、貴方の可愛い子猫も」

「……」

「ですから、私たちが白桜荘の方々に手を出すのを黙認してくれませんか」

 俺は亜子さんの顔を見る。

 笑み。

 でも、言葉は真剣だった。

「俺は人間だよ」

「えぇ」

「亜子さんたちが何かしようとして、それを止められるとは思わない」

「でしょうね」

 今は、と、続く。

 俺は疑問符。

 亜子さんは自分の目を指差した。

「少しですが、見えるんです」

「見える?」

「未来が」

 そして、私の見る未来では。

「基樹さん、貴方が私の最も恐るべき敵だと、見えているんです」

「多分、間違いだよ」

「だと良いのですが」

 亜子さんは初めて俺から視線を逸らした。

 軽く伏せたのだ。

「私の未来予知は断片的なものですが、今まで外れた事が無いのです」

「これが最初の一回かもよ」

 俺が恐るべき敵とか。

 有りえない。

 子猫の小鉄の方が、ずっと戦う能力がある。

「それに――亜子さん」

「はい」

「俺は、白桜荘の住人だ」

 いや、と短く続けて、言い直す。

「俺は、あの人たちの家族だ」

 彼らに危害を加えようとする誰かを黙認なんて、絶対に、出来ない。

 亜子さんは俺の目をじっと覗き込んでいる。

「家族と言う定義を大切にされるのはとても宜しいと思いますが」

 亜子さんは俺の僅か後ろに視線を向ける。

 ああ、やはり、今も居るのか。

「あの子は宜しいのですか」

「………」

「……申し訳ありません」

 俺はどういう顔をしていたのだろう。

 亜子さんはすぐさま謝罪を口にした。

「――残念ですが、交渉決裂、と言う事になりますね」

「うん」

「残念です」

 そう言いながら、亜子さんは俺を見上げ、一歩踏み出した。

 俺たちの距離はかなり近い。

 亜子さんの綺麗な顔が間近に在って、思わず俺は仰け反る。

 そんな俺を見て微笑み、「では」と笑う彼女。

「デートはして頂けますか?」

「…………は?」

「お笑いになるかもしれませんが、私は貴方に一目惚れしました」

「…………」

 絶句。

「冗談です」

 すぃ、と亜子さんは身を引いた。

 どっと全身から力が抜ける。

 な、なんだ、この子。

「次に会う際は敵同士ですね。残念です。本当に、残念です」

 亜子さんはもう一歩、引く。

 長い髪の毛が揺れる。

「一目惚れは冗談ですが――基樹さん、貴方は結構、私の好みです」

 きゅ、と口の両端を吊り上げる。

「苛めてみたい、タイプです」

「………そ、それは遠慮します……」

 洒落にならない。

「遠慮なさらなくとも」

「遠慮させて下さいっ!!」

「本当に残念です」

 悪戯っ子の表情で繰り返す。

 亜子さんは長い髪を揺らし、首を傾げた。

「でも――冗談でデートなんて、言いませんから、私」

「……は?」

「そんな、ふしだらな女では、ありません」

 いや、デートぐらいでふしだらとか、そんな風には思わない。

 一瞬そう言い掛けた俺は別の事に気付く。

 えーと、つまり。

 俺と、デートしたかったのは本当、って、意味で。

 それはすなわち、好意、の、表れであって――

「さようなら、基樹さん。――もし気が変わりましたら、いつでも仰って下さい」

 それだけ言って亜子さんは動き出す。

 俺の横を抜けて、公園の出口へと。

 ぽつん、と残されるのは俺。

 動けず、呆然と。

「――基樹?」

 そんな俺に投げかけられたのは、不思議そうな男性の声だった。

 慌てて振り返る俺の前に立っていたのは、驚いた表情の千葉さん。

「なんでこんな所に突っ立ってんだ?」

「あ、いえ……」

 慌てる。

 千葉さんは公園の出入り口を見た。

「さっきセーラー服の女の子とすれ違ったが――」

「いえ、まったく何も関係ない他人です!!」

「………」

 自分で答えて置いてアレかと思うけど、此処まであからさまに否定されると逆に怪しいなぁ。

 千葉さんは俺の顔を見ている。

 少し考えてから、言う。

「まぁ、相手はセーラー服って事で学生だろ。こんな薄暗い場所で二人で会うのは考え物だぞ」

「ち、違いますっ!!」

「いやいやいや。恋愛は大切だ、うん」

 千葉さんは一人で頷いている。「俺も恋を知って人生が楽しくなったからなぁ」

「…………」

 もう突っ込むのは止そう。

 手の中の携帯を見る。

 そろそろ迎えに来てくれる時間だ。

「じ、じゃあ……俺帰りますので」

「白桜荘に帰るのか?」

 千葉さんは少し言い難そうに言った。「そ、そうなら俺も一緒していいかな」

「はい」

 いつもの癖で答えてから、あ、と思う。

 ……今の状態で千葉さんを連れて行っていいのかな。

 迷う俺を呼ぶ声が聞こえた。

 公園の出入り口。

 竜さんが腰に手を当てて立っている。

「帰るぞー」

 呼びかける声に俺は慌てて声を返す。

 おお、と気さくな声を上げて、千葉さんが先に歩き出した。

「なんだ? なんでお前が此処に居るんだ?」

「五郎の迎え」

「??」

 何で迎えが必要なんだ、と言う顔をされた。

 俺は答えに迷って思わず笑う。

「なんだ、デカ、お前も来るのか?」

「おお」

 今頃気付いたのだけど、持ち上げた千葉さんの右手には袋。

 結構な大きさだ。

「ご近所から魚を貰ったんでお裾分けだ」

「……で、どうして此処に居るんですか?」

「俺の家、この公園の真裏」

 指差す先には確かに古いアパートがあった。

「通りかかったらお前の姿が見えたんで来てみた」

「――おーい、帰るぞ」

 竜さんはまだ公園の入り口から動いていない。

 千葉さんは手にビニール袋を持ったまま、俺を見ていた。

「帰らないのか?」

「は、い」

 今行きます。

 そう答えて歩き出す。

 竜さんの所に行き着く。

 にゃあと鳴き声が響いた。俺の脚に絡まる気配。小鉄も迎えに来てくれたのだ。竜さんは俺の顔を一度だけ見てくるりと背を向けた。何でこんな所に居るのか聞かれると思ったけど、何も言わずに歩き出す。

「おい、竜。なんで基樹の迎えが必要なんだ?」

「変質者が出る」

「………」

「な、何ですか、その哀れんだような『うわぁ』みたいな顔は!!」

 どうしてそういう言い表し難い表情するんですか、千葉さん!

「いや、変質者に狙われるなんて可哀相だな、と思って」

「俺だけじゃないですよ」

「どういう事だ?」

 千葉さんの表情が微妙に変わる。

 まさか、と言葉が続いた。

「桜井さんも危ないんじゃ――」

「管理人は白桜荘から出ないから平気」

「最近の変質者は家に押し入る事もあるんだぞ?! あのアパート、女子供に細っこい男しか居ないじゃないか!」

 千葉さん、慌てたように歩き出す。「一番対策になりそうな竜、お前が外に出ちゃならんだろう」

 細っこい男ってのは黒川さんだろう。

 竜さんが、「あー……」と呟く。

「クロ、俺より喧嘩強いぞ」

「あの細っこい兄ちゃんが?」

「殴り合いだったら俺は五秒で沈む」

「意外だな。何か習っているのか?」

「護身術だって言ってた」

「へぇ。合気道か何かかな。たいしたもんだ」

 千葉さんは竜さんよりも前に出ていた歩調を緩めた。

 それから俺を見る。

「基樹も少し身体を鍛えた方がいいぞ」

「肉体労働ならしてますよ」

 介護の仕事は基本、肉体労働だ。

 見た目はそんなにがっしりしてないけど、結構筋肉あるんだぞ、俺。

「あー……確かにそこそこ身体は丈夫そうだな、五郎」

「なのか?」

「足は速かった」

「へぇ、意外だ」

 そんな雑談を男三人でしながら、白桜荘の近くまで歩いてくる。小鉄はずっと俺の足元を機嫌よく歩いていた。

 周囲は既に真っ暗。

 だからこそそれに気付いた。

 白桜荘の前。電信柱の明かりに照らされた、人影。

 学生服を着た若い男の子だった。

 俺と竜さんはぴたりと足を止める。

 見覚えがあった。

 亜子さんと一緒に居た男の子だ。

 紫雲。

 そう、亜子さんは紹介していた。

 竜さんは無言で右手を動かした。

 当たり前のように持っているのは紫色の袋。中に納められているのは刀だ。袋をジーンズのポケットに押し込み、竜さんは刀を抜いた。左手で鞘を持ち、構えると言うよりもただ、立つ。

 俺はどうしていいものか迷い、一歩、下がった。

 俺たちの様子を見て千葉さんは顔を顰める。

「アイツか」

 言うなり、ずんずん歩き出した。

 紫雲君の前まで行くと「おい」と声を掛ける。

 千葉さんは大柄だ。俺と同じぐらいしか背丈が無いように見える紫雲君は、千葉さんを軽く見上げる事になる。

「お前、その格好は学生だろう。何を考えているんだ。まだ悪さをしてないのなら帰りなさい。いいか、まだ若い子が変な悪事に手を染めるんじゃない。人間、そんな事よりもすべきことは幾らだってあるだろう?」

 ……す、素で説教してる。

 紫雲君は軽く首を傾げて話を聞いていた。

 その身体が微かに動いた。

 竜さんが舌を打つと同時に走り出す。

「避けろっ!」

 叫ぶ声と殆ど変わらなかったと思う。

 いつの間に現れたのか。

 紫雲君は片手で長い棒のようなものを握り締めていた。

 長い棒――棍と呼ぶらしい――が遠慮なく、千葉さんの頭上に振り下ろされる。

 俺はその棒が千葉さんの頭にめり込むのを想像した。

 竜さんは間に合わない。

 目を閉じる事さえ出来なかった俺は、千葉さんと紫雲君の動きを、ただ、見る。

 ――ぱし、と、乾いた音。

 頭上から振り下ろされた棒を、千葉さんが右手一本で受け止める。

 ぐ、と、手が沈むのが見えた。

 かなりの力が掛かったようだが、千葉さんは耐え切った。

 掛かる力と怒りから顔を顰め、千葉さんが口を開く。

「お前、こういうものを持ち出すと洒落にならんぞ」

「……すげーな、デカいの」

 横に並んだ竜さんが呟く。

 紫雲君は後ろに飛んだ。

 竜さんと千葉さんを交互に見る。

「念の為に言っておく」

 親指で千葉さんを示しながら、竜さんが口を開いた。「これ、普通の人間」

 紫雲君は千葉さんを上から下まで一度眺めた。

 眉が僅かに寄せられた険しい顔。

「ただの人間に一撃受け止められるようじゃ――やめておけよ」

 淡々とした声。

 周囲を軽く見て、続ける。

「姉貴も居ないんだろ。殆ど人間と変わらないお前じゃ、勝てねぇよ」

 千葉さんは竜さんと紫雲君を見た。

 右手を軽く握ったり開いたりしながら俺にちらりと視線を送ってくる。

 訳が分からん、と言う表情だった。

「おい五郎」

 顎で白桜荘を示す。「デカイのも二人で入ってろ」

「竜――」

「出来たらクロを呼んできてくれ」

 黒川さん。

 その名前に紫雲君は瞳を細める。

 表情が更に険しいものとなる。

「黒川の知り合いなのか?」

 千葉さんは訳が分からない中でも情報を集めている。

 俺は前に踏み出した。千葉さんの服を掴む。

 中に――

「――そのまま、見逃して頂けませんでしょうか」

 背後からの呼びかけに、俺と千葉さんは動きを止めた。

 丁寧な口調の女の子の声。

 紫雲君の殆ど変わらない表情が、少し――ほんの少し、緩む。

 俺は背後を見る。

 小鉄が低く威嚇の唸りを出す。

 背筋を真っ直ぐ伸ばして、さっきとまったく同じ格好の亜子さんが立っていた。

 微かに俺を見て微笑む。

「……あれ」

 千葉さんが亜子さんの顔を見て、それから俺の顔を見る。

 さっきの子と同一人物だと気付いたらしい。

 訳が分からない。そういう顔をしている。

「弟が先走ってしまいました。――此処はひとつ、お返し頂けないでしょうか、竜さん」

「今ぶっ叩きに来たんじゃねぇのか?」

「雨が降っておりません」

「………」

「本来の水生様を殺すのが、私たちの目的ですから」

 殺す。

 その単語に千葉さんが動いた。

「千葉さ――」

 慌てて引き止めた俺の手を抜けて、そのまま亜子さんの前へ。

 亜子さんの身長は千葉さんと比べるとかなり小さい。

 見上げる。

「殺すとかそういう言葉は軽々しく言うもんじゃない」

「千葉さん、その子は――」

 俺は引き止める。

 多分、人間じゃない。

 多分――人なんか平気で殺せる。

 だから、危ない。

 そう思うものの、口に出せない。

 千葉さんが俺を見た。

 亜子さんが俺を見た。

 千葉さんは驚いて、亜子さんは――

 笑った。

 手を伸ばして、千葉さんのシャツの前を掴む。

「……あ?」

 不思議そうな声を上げた千葉さんの身体が軽々と持ち上げられ、背後に飛ばされた。

 柔道の投げとは違う。勢いではなく、ただ、片手で。

 子供が嫌な玩具を放り投げるように、千葉さんを片手で放り投げたのだ。

 凄い音が響く。

「千葉さんっ」

 俺は慌てて駆け寄る。亜子さんの横を抜ける。

 千葉さんは立てはしないが身体を起こした。

「痛ててて……」

「大丈夫ですか?」

「受身は取った」

 背中を自分で撫でつつ、亜子さんから視線を外さない。

「何だ、今の? 柔道か?」

 自分でも違うと分かっているのだろう。

 亜子さんを見る表情が今までと違う。

 彼女は俺たちを振り返った。

 笑う。

「どうか、そのままで居て下さい」

 私は結構人間が好きなのです。

 そう笑って彼女は前を向いた。

 亜子さんと紫雲君。

 その間に、竜さん。

「本当はこのまま引きたい所なのですが――あなた方の戦闘能力を減らしておくのも、悪くない選択肢だと思います」

「はぁ」

 竜さんは亜子さん側に向き直る。

 刀を構えたまま。

「俺を潰すって?」

「えぇ」

 笑顔。

「大戦の遺産――異形兵の生き残り。貴方程度の能力ならば、竜玉の搾りかすの私でも、十分、戦えます」

「へぇ」

 竜さんは短く呟き、右手の刀を軽く振った。

 振り――停止。

 軽く引いた右手で構え、刃に左手を添えるような姿勢。

「試すか」

「はい」

 亜子さんが嬉しそうに笑うのが気配で伝わる。

「――基樹」

 千葉さんが淡々とさえ聞こえる声で言った。

 亜子さんを、示す。

「アレは、何だ?」

「よ――よく分かりません」

 ただ、と俺の声に千葉さんが頷いた。

「人間じゃあ、無いんだな」

 俺は無言で頷いた。

 頷く俺の前で、亜子さんと、竜さん。二人が同時に動き出した。

 直線の動きで切りかかる竜さんを避けて亜子さんが横に飛ぶ。詰めた間合いのまま、連撃。だけど亜子さんには当たらない。俺から見たら当たっているとしか判断出来ない距離で、避ける。

 ――二人の動きを横目に、俺は動いた。

「おい」

 千葉さんの呼びかけに振り返り、言う。

「黒川さんを呼んできます」

 白桜荘の入り口は正面のひとつだけだから、戦う二人の横を通る事になる。

 大丈夫だろう、とは思うが。

「千葉さんは――帰った方が」

「帰れるか」

 むっとした声で言う。

 戦う竜さんと亜子さんを横目で見た。

「俺には到底手が出ないならそっちに付き合う」

 それに、と。

 千葉さんは目を細めた。

 俺の身体を乱暴に引くと自分の背後に回す。

 殆ど転ぶ勢いの俺を庇うように前に出た千葉さんは、ドスの効いた声で言った。

「背後から狙うとは何事だ!」

 紫雲君は声に驚いたように一瞬だけ棍を引きかけた。

 表情は殆ど表に出ない。

 ただ、俺たちを見る。

「こいつの相手をする羽目になりそうだしな」

 居た方がいいだろう、俺も。

 千葉さんは両手の指を組むとパキパキと音を鳴らす。

「喧嘩なんて学生時以来だなぁ」

 ……どうやらヤンチャしてたみたいですね。

 俺は迷う。

 千葉さんが顎で示した。

「呼んで来い」

「はい!」

 心は決まった。

 小鉄が鳴いた。

「おいで!」

 呼び掛けて、走り出す。

 紫雲君が動き出した。

 千葉さんに向かって――ではなく、俺?!

 守ろうと、千葉さんは動いてくれた。

 けど、その千葉さんの肩に手を付いて、紫雲君は飛び越えた。

 身軽な動きで俺の前に。

 棍が大きく横に振られる。

 殴られる。

 シャァ、と小鉄が鳴いた。

 風の音。軽く、紫雲君の頬が切れた。その顔が歪む。紅い色が散った。

 棍が動きを変えた。

 俺に向かっていた棍が。

 小鉄に。

 幽霊だ。小鉄は幽霊なんだ。

 あんな棒に殴られる訳が無い。

 だけど。

 動いた棍が小鉄のいた辺りを強く打ち付けた。

 猫の、悲鳴が聞こえた。

 咄嗟。

 俺は、紫雲君に殴りかかるではなく、小鉄の声のした辺りに手を伸ばした。棍の前に座り込んで、両手を、小鉄の気配に差し出した。

「小鉄?! 小鉄っ!!」

 姿が見えないのをこれほど悔やんだ事は無い。

 気配が分からない。

 小鉄。

 分からない。小鉄は、何処にいるんだ?

 気配を感じた。

 小鉄の気配ではなく、別のもの。

 俺は顔を上げる。

 見えたのは、紫雲君が、今にも俺に向かって棍を振り下ろそうとする風景。

 千葉さんが見えた。紫雲君に身体ごとぶつかる。棍の位置がずれた。俺の真横を叩く、棍。それでも俺は動かない。小鉄を探す。

「くそっ!」

 千葉さんが声を出した。

 もう紫雲君は千葉さんを『ただの人間』と思わない。力を出す。元々棍と素手ではリーチがある。不利なのは圧倒的に千葉さん。

 けど、俺は動けない。

 小鉄がいない。

「五郎っ!」

 竜さんの怒鳴り声。「もうちょい右だっ!」

 右?

 手を動かす。

 指先が少しだけ温かくなるような感覚。

「……小鉄?」

 みゃう、と小さな声がした。

 俺は慌てて気配を腕に抱き締める。慣れた気配が腕の中にすっぽり納まっている。俺は立ち上がる。

 白桜荘の中へ、走った。

 一歩、敷地内へ。

「――基樹さん」

 亜子さんの声が俺を呼んだ。

 優しい声だ。

 俺の脚が止まる。

 振り返った俺の目の前に、それが落ちてきた。

 長い、もの。

 それなりの太さを備えたもの。

 人間の、腕。

 俺は亜子さんを見る。

 亜子さんの前で、竜さんは刀を持った右手で左腕を押さえていた。

 いや、左腕のあった場所を強く、握り締めていた。

「お、おい、竜っ!」

 千葉さんが焦った声を上げた。

 その千葉さんの後頭部に、紫雲君の棍が叩き込まれる。

「ぐっ!」

 悲鳴。千葉さんは竜さんに駆け寄ろうとした姿勢のまま崩れ落ちた。

 俺は、地面に転がる腕――竜さんの左腕を見る。肘の少し上ぐらいで、無理やり千切られたみたいな切断面を晒している、腕。

 そうだ、亜子さんは武器を持ってない。

 腕力で、引き千切った?

 俺は亜子さんを見る。腕の中の気配をぎゅっと抱いて。

 竜さんは膝を付いていた。凄い勢いで血が出ている。こういう時はぼたぼた血が流れるのかと思ったら、何だか漫画みたいにびゅーびゅーと血が迸っていた。動脈が、切れたんだ。太い、血管。

 小鉄は腕の中で震えている。

 竜さんは腕を押さえたまま立ち上がれない。

 千葉さんは、地面で呻いたまま。

 俺だけが立っている。

 俺は、小鉄の気配を抱いたまま、動けなかった。

 その俺に、亜子さんが笑い掛けた。

「では、帰らせて頂きます。――紫雲」

 紫雲君はおとなしく従った。すっと棍を引いて、頭を抱えて唸る千葉さんの横をひょいと抜け、亜子さんの横へ。

 影みたいにその横に従って、俺を見ようともせずに亜子さんを見ていた。

「お邪魔致しました」

 にこり。

 亜子さんの笑顔は、場違いなほど綺麗だった。

 二人はくるりと身を翻す。

 長い髪がさあっと揺れて――すぐ、闇に溶けた。

 俺は二人の姿が消えると同時にその場に腰を落とした。

 力が抜けた。

 でも――まだ、でも。

 俺は小鉄を片手で抱いて、白桜荘の方へと這うように歩き出した。竜さんが視界の端で崩れたのが見える。

 片手で地面を引っかくように、進む。

 白桜荘の玄関が開いた。茜さんが駆け出してくるのが見えた。

 たすけて。

 俺は確かにそう言ったつもりなのだけど――ちゃんと言葉になっていただろうか。

 駆け寄ってくる茜さんの姿を見て、俺は、もう、本気で座り込んでしまった。





 俺たちは白桜荘の食堂に集まっていた。

 怖くて自室で一人になれなかった、と言うのもある。

 雨音が響いている。

 少しずつ強くなる水音。

 この音に、俺は何だか安心する。

 俺の膝の上で小鉄は丸くなって寝ている。見えないけど、まゆちゃんがそう教えてくれた。小鉄はどうやら尻尾を打たれたらしい。驚いて動けなくなっていただけのようだ。怪我は無い、と、教えてもらった。

 俺はずっと小鉄の気配を撫でていた。

 千葉さんは氷を挟んだタオルでずっと首筋を冷やしている。むっとした顔で壁を睨み付けていた。後頭部を強打されていたみたいだし、病院へとは言ったのだけど、「いや」と言ったきりこんな感じ。どうやら敵に隙を見せた自分が許せないらしい。「すまん」と言う言葉と、その事を、謝罪された。

 そして、竜さん。

「――竜さん」

「ん?」

「片腕ぶらぶらさせながらアニメ見るのよして下さい」

「自分の腕よりアニメの続きが大切」

「腕の方を大切にして下さいって!!」

「腕ならくっつく。アニメは一度見逃したら次は無い」

「あんたの基準は変だよっ!!」

 えー、こんな風に、俺たちの中で一番元気です。

 左腕は、亜子さんに力任せに引き千切られたらしいけど、本人はその腕をガムテープでぐるぐると固定してくっつけてテレビの前に陣取っている。

 左腕はぶらぶら中。色的にも凄い問題がありそうな感じになってるんですが、「二日でくっつく」と本人談。

「――ごめんなさい」

 謝ったのは茜さんだ。「……白桜荘の前であった事なのに、何も気付けなかった」

「紫雲は元々戦闘よりも防御よりの子だからね……結界の張り方ぐらい覚えたのかもしれない」

 黒川さんの言葉に茜さんは俯く。

 不安の色。

「……もしかしたら、私の護りの力を、崩せるのかもしれない」

「…………」

 沈黙。

 まゆちゃんが俺の横に座っている。小さな身体を寄せていた。こんな小さな子が不安そうな顔をしているのに、俺は慰める言葉を持たない。

 小夜さんはそんな俺をじっと見てる。優しい瞳が、哀れむように俺を見ていた。

「真之介」

「うん?」

「亜子の強さは?」

「前より強くなってる。俺一人じゃあ無理だな」

「僕とどっちが上かな?」

「……雨が降ってるならクロ。 けど、向こうはまだ本気じゃねぇから――今のクロなら、半々か」

 今のクロ?

 竜さんはテレビを見たまま口を開く。

「流石の俺も首を切られたら死ぬかもしれねぇぞ」

 試した事無いけど、と続いた。

 ――おい、と、千葉さんが低い声を出した。

「あいつらは何だ? 何が目的なんだ?」

「僕の古い知り合いで――此処のアパートの住人の命を狙っている」

「……俺に出来る事はあるか」

「千葉さんにも此処に引っ越して貰った方が良いかもしれない。暫くの間。――もう、此処に関わっていると判断されただろうし、万が一」

「人質にでもなったら大変だ、と言う事だな。分かった」

 千葉さんは茜さんに頭を下げた。「と言う事で、すいません、桜井さん、暫くお世話になります」

「はい」

 茜さんも返すように頭を下げた。

 千葉さんは大きく息を吐く。

「しかし――こっちの居場所が分かっている以上、いつ攻められるか分からないとなれば、持久戦だな」

「それは大丈夫だと思う」

 黒川さんが言う。「これだけ動いたんだ。すぐに、殺しに来るよ」

 雨が降っている。

 窓を見て、黒川さんは言った。

「来週には、全てが片がつくと思う」

 普段と何も変わらない口調。

 だからこそ真実味を帯びたその言葉に、ぞっとした。

 黒川さんが窓から視線を外し、こちらを見た。

「少し、電話をしてくる」

 部屋を見回しながらの発言。

 ちょっと珍しい発言だった。

「手助けしてくれそうな人を呼ぶよ」

「……誰ですか?」

 問う。

 うん、とひとつ頷いて。

「古い知り合い。――あやかし退治を得意とする知り合いだよ」





 俺は部屋に戻った。

 小鉄はふみゃふみゃ鳴いている。いつも通りの様子。

 いや、どうやら俺の事を心配しているらしく、いつもより俺にべったりだ。

 ベッドの端に腰掛けた俺にもすりすりと寄ってくる。

「……有り難う」

 つい、と気配のあたりを突く。

 答えはごろごろ鳴らされた喉。

 俺は、大きく息を吐いた。

 電子音が聞こえた。

 俺の携帯の着信音。

「――……」

 恐る恐る、荷物の中から携帯を引っ張り出す。

 画面に出ていた名前は――亜子さんだった。

 息を吐いて、覚悟を決めて。

「……もしもし」

 俺は携帯に出た。

 あぁ、と、安堵の声がした。

『もしもし、亜子です。電話、出て頂けて嬉しいです』

「…………」

『確認、させて頂きたいのです』

「……何?」

『先ほどの……人間の男性は、ご無事ですか?』

 千葉さんの事だろうか。

 亜子さんは俺の沈黙を嫌うかのように話し続ける。

『紫雲が殴ってしまった方です。あの子の腕力なら生きていらっしゃると思いますが……ご無事ですか?』

「死んではないよ」

『なら、良かった』

「竜さんの事は心配しないんだ」

『腕一本程度なら、今頃元気にテレビを観ていらっしゃるのでは?』

 正解。

 俺の沈黙を正解と受け止め、亜子さんが電話の向こうで笑った。

 笑いを含んだ声のまま、彼女は続ける。

『お約束します』

「……?」

『私は――いえ、私たちは今後、あなたにも、あの人間にも手を出しません。いいえ、その他人間にも手を出しません』

「……俺は、白桜荘の味方をするよ。もしも亜子さんが此処の人たちを殺しに来るなら、その、何も出来ないと思うけど、戦うよ」

『えぇ、分かっています。でもあなたや、あの人間を無力化するのは簡単そうなので。死なない程度に痛めつけるのは許して下さいね? ――でも、それが限度です。人質にとったりは絶対にしませんから。お約束します』

「どうして」

 俺は問い掛ける。

「どうして、そんな約束を?」

『私たちは人間すべてが憎い訳ではありません。いいえ、むしろ、人間への憎悪はありません。復讐は既に終わっています』

 基樹さん、と、俺を呼ぶ。

 少しだけ弱さを含んだような声が言う。

『私たちの話を、聞きましたか?』

「お父さんの件?」

『えぇ。――父を殺した奴らは、私と弟で処分しました。もうそれで充分。それ以上の復讐を人にする理由はありません』

 本当なのだろうか。

 俺は沈黙。

 亜子さんは笑う。

『基樹さんは誰かが憎いからと言って、その人に関わる誰かを全部憎めますか?』

「…………」

『それほどまで心を持つ生き物の憎悪は広くも強くもありません』

 それに――。

『私たちの憎悪は、今、水生様に向いています』

 黒川さん。

 静かな声が俺を呼ぶ。

 亜子さんの声はゆっくりとしていた。

『父が殺された際、水生様が私たちに復讐を禁じた事をご存知ですか?』

「うん」

『では、その前に、私たちを消そうとした事はご存知ですか?』

「け、す……?」

 はい、と亜子さんが言う。

 頷く亜子さんの顔を、俺は何故か想像する。

 紅い瞳を真っ直ぐに俺に向けている、彼女を。

『私と紫雲は、竜玉の力を受け継いだものと人の間に生まれました。水生様への服従も絶対ではない。そして、その力も、僅かでも水生様に向けて振るえる』

 それを恐れたのでしょう。

『父の復讐を遂げる為に私たちは白桜荘を出ました。それと同時に、このまま水生様の傍にいたら、私たちは消されていたでしょう。茜さんの力もあれば、当時の私たちは白桜荘の中ならば無力化出来ましたでしょうし』

 亜子さんの声には何の感情もこもっていない。

 俺はただ、耳を澄ます。

 小鉄が小さく鳴いた。

『基樹さん。――私は……私たちは、消えたくなかった』

 微かに、声が崩れる。

 濡れた、音。

『父は殺されました。人間に。力を振るうなと言う水生様の命令に従い、嬲り殺しです。死体を見た紫雲は絶叫しました。あれから、あの子は言葉を失いました。二度と、話せなくなったのです。私は、父と弟の仇を取りたかった。水生様の許可を頂き、復讐を行うつもりでいました。――でも、水生様はそんな私を戒めました。ならない、と』

 亜子さん、と俺は呼ぶ。

 電話の向こうで彼女の声は震えていた。

 泣いている。

『父は竜玉を与えられる前に死んでいた。死者が死んだからと言って嘆く必要は無い、とそう仰られました。そうして私たちを見たのです。死者が残した子供たちを。君たちも消えるべきかな、と、簡単に仰られました』

 消えたくなかった。

『私たちの存在を否定されました。消す、と。殺すとも仰られなかった。私たちの命などその程度の価値なのです。水生様にとって』

 父は――

『水生様を護っていたのですよ? 水生様の力が弱りつつあるのは誰もが知っていました。人間の狩人たちも狙っています。父は水生様の護りを行うために、幾つもの結界の術をこの街に張っていました。その作業中に殺されたのです』

 亜子さんは言葉を止めた。

 嗚咽。

「亜子さん……」

『……申し訳ありません、基樹さん』

 亜子さんは笑った。

 泣いている声で笑った。

『ねぇ、基樹さん。いまだ、私と紫雲は水生様の呪縛に囚われているのです。直接、水生様に力を振るう事は殆ど出来ません。水生様が過去に作った己への戒め――例えば『人を傷付けない』――を破らない限り、私たちはこの呪縛に縛られ続けます。いまだに私は……水生様を呼び捨てにさえ出来ないのですよ?』

 俺は息を吸う。

 必死に、心を落ち着けた。

 そうじゃないと――この子に同情してしまいそうだったから。

「俺にそれを話して、どうするの?」

『何も』

 亜子さんはちゃんと分かっていた。『ただの愚痴です』

「俺がそういう話を聞いて、そっちに協力するのかと思った?」

『いいえ。基樹さんはそういう点は譲らない方だと思っていますし』

「じゃあ、どうして?」

『好きな人には隠し事しない主義なのです』

「……冗談を」

『えぇ、冗談です』

 こ、この子は……。

 俺はがくりと携帯を落としそうになった。

 ――ノックの音。

「基樹君?」

「く、黒川さんっ?!」

『……水生様?』

 俺は慌てて電話を切ろうとした。

『待って下さい』

 亜子さんの声と、開いたドアに、俺は動きを止めた。

 黒川さんは俺を――いや、俺の手の中の携帯を見た。

 そして、手を差し出す。

 俺は困っていた。

『基樹さん』

 大丈夫、と言うように、亜子さんが俺を呼んだ。

 俺は電話を見て、それから黒川さんを見上げ、電話を渡した。

「――亜子?」

 黒川さんは何も確認せずにそう呼び掛けた。

 口元に少しだけ笑みが浮かんでいる。

 瞳の色は深くて……俺には黒川さんの口元の感情しか分からなかった。

「あぁ――久しぶりだね。元気そうだ。紫雲も? うん、分かってる。僕にそういう心配をする資格は無い。――殺す? 僕を?」

 笑う。

「君たちが白桜荘の誰かを傷付けるのなら、僕も遠慮はしないよ。竜玉は全部揃った。君たち双子の存在を、根っこから消してあげよう」

 双子、と。

 よく似た二人を思い出す。

 人と変わらぬ姿の二人を、俺は、思い出していた。

 黒川さんをぼんやり見上げる俺の前で会話は進む。

「誰も君たちを覚えていないようにするよ。それぐらいで、丁度良い。――うん、頑張るのは良いけれど、無駄だよ。あぁ、うん、分かった。それじゃあ、ね」

 黒川さんは俺に携帯を差し出した。

 困ったような、笑み。

「どうやって通話終了するのかな?」

「は、はい」

 俺は通話終了のボタンを押す。

 黒川さんは小さな声で有り難うと言った。

「黒川さん――」

「亜子から色々と聞いた?」

「はい」

 俺は、尋ねる。

 少しだけ、迷いながら。

「本当ですか?」

「どの話かな?」

「亜子さんたちを消そうとした事」

「本当だよ。今もそう思っている」

「どうして?」

「あの子たちは自由過ぎる。紫雲はともかく、亜子はちょっと力が強い。人の血が、良い具合に混じったんだろうね」

「それだけで?」

「すべての元である僕の支配化に置けない力は危険だ。人間との共存バランスを崩す可能性もある。僕は、人と約束をした。この地を危険に晒さない、と。それには僕の力を分割し、弱らせるのが一番だった」

 竜玉。

 黒川さんは俺の呟きに頷く。

「でもその竜玉は大きな混乱を引き起こした。流のような、そして安王市のような事件を。――もう、終わらせるべきだと思う。竜玉は僕が全部管理する。そして竜玉によって生み出されたものも、存在はすべて消し去る」

 消えたくない。

 そう言う亜子さんの声が、浮かんだ。

 生まれた以上は消えたくないと望む。

 それは、必然。

 それに――

「すべての元……って、親みたいなものですよね?」

「……? あぁ、そうだね。親よりも、もっと深いものかもしれない」

「それに、要らないって、消してもいいって言われるの……とても、辛い事ですよ?」

「…………」

 黒川さんは俺の目をじっと見ていた。

 やがて、笑う。

「基樹君は優しいな」

 けど。「その優しさは、今は要らないな」

 黒川さんから視線を逸らす。

 俯いた。

 小鉄が鳴いた。俺はその気配を抱き締める。

「お邪魔したね。――おやすみ」

「……おやすみなさい」

 そう言うのが精一杯だった。

 俺は、小鉄を抱き締めたまま、ずっと、そうしていた。






 それから三日間。白桜荘には何事も無かった。

 今日は俺は仕事を休み、竜さんと二人、晴れた空の下歩いていた。

 目的地は駅。

 黒川さんが呼んだ『あやかし退治が得意な助っ人』がやってくるらしい。

「――どういう人なんでしょう?」

「……人かぁ?」

「……ですね」

 多分、人間じゃない人が来るんだろうなぁ。

 もう何でもいい。怖い事は無い。

 ……うん?

「竜さん、相手の顔は?」

「知らね」

「知らないって」

「名前と外見特徴は聞いてきた。それに――」

 竜さんは自分のシャツを引っ張った。「目印を向こうに伝えてる」

 白地に血痕のような模様が赤で飛び散ったシャツ。その上にある文字は墨字の『神風』。

 …………。

「ええと、そういう悪趣味極まりないシャツって何処で売ってるんですか? すんごい不謹慎ですけど」

「外人受けはするぞ」

「……」

 だからと言ってそんなシャツは絶対に着ない。

 俺は竜さんから視線を逸らし、歩く。

「――竜さん、亜子さんと紫雲君の事、知ってます?」

「あぁ」

「黒川さん、二人を消すって言ってるんです」

「今も消された状態だからな、あの双子」

「……そうなんですか?」

「人外の……あやかし同士のネットワークってのがあるんだが、それから除外されてる。それがないとあやかしが人間のフリして生きる補助を殆ど受けられねぇから、マジ辛い」

「どうやって、生きてるんでしょうか」

「裏の仕事を請けるしかねぇな」

 竜さんは少しだけ固い声で言った。「……辛いだろうけどよ」

 竜さんを見る。

 蒼い瞳を少しだけ細めている。

 その、瞳の色。

 俺は、今更ながら気付く。

 竜さんは、あの双子に対してさほど敵対意識を持ってない。

「竜さん……」

「辛いだろうし、哀れだけど――悪ィが俺はあいつらを倒す」

「…………」

 はい、と、俺は頷いた。

 駅まで来ていた。

 俺たちは駅の建物前できょろきょろする。

 何処だろうか?

 駅前には訳の分からない丸と三角を組み合わせたような彫像が立っていた。こういうのが芸術らしいが本当に訳が分からない。

 その台座がちょっとしたスペースがあって、人が腰掛けられるようになっている。

 そこに座る男と、目が合った。

 ド派手なグリーンのパーカーに、漫画の登場人物かと思うような大きなヘッドフォン装着。年齢は俺と同じかちょっと下ってぐらいだろうけど、大きな目をした子供っぽい顔の美形だ。ちょっとしたモデルとかそういう感じの。

 黒髪を短く刈っている。頭の上だけがちょっと立っていた。

 その男は足を軽くぶらつかせながら、俺を見る。

 そして、足元の荷物を持つとこっちに近寄ってきた。

「あれ、竜さん――」

 もしかして。

 しかし、男は俺と竜さんの横を擦り抜けて歩いて行った。

 違うみたいだ。

 一応、振り返る。

 男は、駅から出てきた別の男の人と合流した。

 こちらは三十代半ばぐらいの品の良さそうなスーツを着た男性。大学教授とかやっていそうな雰囲気の、優しげな人だ。

 その教授っぽい人が俺たちを見た。

 笑う。

 笑い、片手を上げた。

「やぁ」

 低い聞き取りやすい声。「お迎え有り難う」

 彼らは俺たちの前に来る。

 教授っぽい人が、笑った。

「初めまして。神代 健一郎と申します」

 そう言ってから、その人は背後の男を示した。

 目を細めて、胸元から取り出した音楽機器を弄っている、男を。

「こちらが息子のフツです。――フツ、ご挨拶を」

「はぁい、センセ」

 答える声は思ったより子供っぽかった。

 笑う。

 俺を見て、目を細める。

 ぞわり、と。

 俺は酷く寒気を感じた。

「初めましてー、神代 フツです」

 俺の寒気を知ったように、神代フツは、にぃ、と笑った。



                      終

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幽霊猫 やんばるくいな日向 @yanba

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