郵便ポストスクランブル
深田くれと
最終話
陽樹はうんざりした気持ちで目の前にそびえたつ坂を見上げた。傾斜はもちろん、長さが尋常ではない。
時折吹き下ろしてくる強い木枯らしが、コートから露出した首筋を撫でていく。
「マフラー忘れたの痛かったな」
感覚が薄れた唇に水っぽいものを感じて慌てて袖で拭いた。
目の前で真っ白な吐息が虚空に消えていく。真冬でもこれだけジョギングをこなせば息があがるものだ。
朝からこんな心臓破りの坂を走るはめになったのは自分が寝坊したせいだった。
「ようやくか」
言い聞かせるようにつぶやいた。
頂上に色あせた赤茶色が見えてきた。身長より少し小さいそれは何て事のない郵便ポストだ。
ただ、よく見るものとは形が違う。
円筒を縦に長くして、丸い帽子でもかぶったような形状のそれは郵便差出箱1号と呼ぶそうだ。終戦後から生き残っている珍しいポスト。
あれが見えたからにはあと少しだ。百メートルくらいだろうか。学校のグラウンドなら半周分。
「考えるんじゃなかった」
声に疲れが滲んだ。
三年間、学校生活を共にした鞄も背負っているのだ。受験勉強用の問題集を持ってきたのも裏目に出た。
一瞬、次のバスでいいかと思ったが、道路事情によっては始業時間に間に合わないこともある。
安全を取るならこのペースを保つしかなかった。
「おーい! 陽樹、早く早く。もうバス来るよ!」
郵便ポストの真横でこちらに手を振る少女がいた。凛だ。
鼻を少し赤らめた凛が急げ急げとその場で跳んでアピールしている。濃い赤色のマフラーの端が踊っていた。
人の気も知らないで。
自分と家が真逆の彼女は、この坂道の苦労を分かっていない。
内心で毒づきながら、へたり込みそうになる膝を叱咤した。
残り何十メートルだろうか。バスのクラクションの音が耳に届いた。これは間に合わないな、と足を止めた。
もう次にしよう。今さら皆勤賞も無いだろう。
そう思ってため息をついた。だが、すぐに思い直す。
凛がバスの運転手に何度も頭を下げているのが見えたからだ。瞬く間に気持ちは上向いた。
「あそこに来てるんで少し待ってください」そう頼んでいるのだろう。
せつなげに悲鳴をあげる両足に、凛のためにもう少しがんばれとエールを送った。
ようやくたどり着いた。
膝がこれ以上ないほどに笑っている。運動不足の陽樹には重労働すぎる朝となった。
「お待たせしました。ほらっ、陽樹早く」
「ちょ、ちょっと待って」
凛が伸ばした手を取りかけ、気恥ずかしさから寸前でかわす。
代わりに、荒い息を吐きつつ、コートのポケットに手をいれた。
「これを忘れてた」
一枚の葉書をポストに放り込む。念のため、差し出し口に腕を入れて回収袋に落ちたことを確認した。
今日もよろしくな。
心中でポストに声をかけ、バスの運転席に向き直った。微笑まし気な視線が陽樹と凛に交互に向けられた。
「ほんとすみません」
気恥ずかしさと共に、頭を下げてバスに乗り込み、待たせてしまった乗客にも軽く謝罪をしていく。
席は、幸い一番奥から一つ前の二人がけが空いていた。陽樹が窓際に、凛が通路側に腰かけた。
「今日は遅かったね。体調悪いの?」
心配そうにのぞき込んでくる凜に陽樹は顔の前で手を振った。「ちょっと寝坊したんだ」息切れを抑えようと一度深呼吸を挟んだ。
「陽樹が寝坊って珍しい。遅くまで起きてたの?」
「まあ、そんなところ」
「ふーん……私にメッセージ返したあとも起きてたの?」
「手紙を書いててさ」ぶっきらぼうに答えた。「そう」とつぶやいた凛は目を逸らし、何かを考えこむ。
陽樹は「待ってくれてありがとな」と横顔に向けて口だけ動かし、徐々に動き出す景色へと視線を移した。
「陽樹ってほんとあのポスト好きだよね」
陽樹の視線を追って、凛がのぞき込むように体を乗り出してつぶやいた。
栗色の髪から漂ってきた石鹸の香りに、陽樹は体を硬直させた。
「確かに私たちには思い出深いもんね」
「そうだな。お前と俺と高志のな」
「高志が引っ越したのっていつだっけ?」凜が人差し指を頬に当てていった。
「中学入ってすぐだっただろ」
「もう六年も経つんだ」
小学校の頃からなにかと息の合った陽樹達は、バス停のそばの公園でよく遊んでいた。それこそ朝から晩までの日も珍しくなかった。
ポストは公園の真裏にあり「ポストで集合な」という一言に全員が頷くという定番の場所だった。
陽樹はその場所が好きで、いつも一番最初に到着しては、遅れ気味の凛と高志を待つ間、小石で傷をつけて字を描いたりもしていた。
今では嫌いな坂も、当時は冒険気分で楽しんでいたのだ。
「早いなあ」陽樹が懐かしむように目を細めた。
色褪せたポストは今日も変わらずバス停の利用者を見送っている。
行ってきます。
心の中で告げて、学校に向かった。
*
朝ランニングの日を境に、陽樹は時間を早めて家を出るようになった。
凜に一本前のバスに乗ることも提案してみたものの「用意があるから無理」と一蹴され、それならば、と十五分前倒しで行動を始めたのだ。
雨がしとしと降る中、かなり早めに到着した陽樹は「余裕だな」といい、スマホの時計を確認した。
バスの利用客も、いつもならあと十分程は現れることはない。
のんびりとポケットに手を入れ、恒例の葉書を取り出し、ポストに投函する。
投函し始めてもう数年になるが、差し出し口から中に落ちる音はいつも『コトン』だ。
郵便物が無い。つまり利用者がほとんどいないのかもしれない。
ふと心配になったとき、ポストの頭――帽子のような部分に目がいった
何かがべっとりと付着していて、雨で端が溶け出している。色あせた赤茶色とは別の白と黒のコントラストの物体。見るからに鳥のフンがへばりついていた。
陽樹の脳裏にまざまざと記憶が蘇った。
それは父親の車のボンネットにフンが落ちていた時のことだ。
目も覚めるような赤いスポーツカーに鳥のフンが付いているのを見て「赤とか青はフンを落とされやすいんだ。すぐ流さないとボンネットも変色するし、とにかく最悪なんだ」と父親はぶつぶつ愚痴を漏らした。そして無理に拭き取ろうとせず、早々に洗車場に出掛けていったのだ。
フンの被害は相当に大きいのだろう。
陽樹はそっと唇を噛んだ。
放っておいたらこの郵便ポストも変な色に変わるのだろうか。
それは何となく嫌だ。
この綺麗に色あせた赤茶色が好きなのだ。凛や高志、他の友人たちと集合場所に使っていた丸いポスト。もしフンが染みになって、近付いたときに一部ががっかりするような色に変色してしまうのはどうだろうか。
陽樹はこのポストに愛着に近いものを感じている。思い出の中にある風景の一つなのだ。
だからこそ、それを汚されることに強く嫌悪感を感じた。
「よし」
陽樹は雨の中、ハンカチを取り出した。何の変哲もない四角く折りたたまれた紺の布だ。
「雨で落ちるかもしれないのに」
独り言をいいつつ失笑した。
フンの固くも柔らかくもない感触に眉をしかめつつ、取り除き始める。
冷え切ったポストと冷たい雨に触れる指先が急激に体温を失っていくのを感じた。
付着してから時間が経っていたのか、一度拭いただけでは跡が残った。すぐにハンカチを折り返し拭いた。だが落ち切らない。
片手ではだめだと、傘を地面に置きかけ、
「はい。濡れちゃうよ」
凛がピンク色の傘を持って背後に立っていた。
「……ありがとう」
凛は何も聞かなかった。陽樹も気恥ずかしくなって、無言でポストに向き直る。
両手が使えるようになり、力を込めて拭いた。
手こずっていたのが嘘のように汚れた部分が綺麗になった。あせた赤茶色がどことなく輝いているように見えた。
「終わった? バス来たよ」
「うん」
言葉少なにバスに乗り込む。
「はい。これ使って」
バスが動き出したあとも無言だった凛が、唐突に陽樹の目の前にコンビニ袋とハンカチを取り出した。
「なにこれ」陽樹は目を丸くする。
「ハンカチ、鞄に直接入れたでしょ? それ余ったやつだから使って。それと制服の袖びしょびしょ」
「サンキュ。でも袖は大丈夫。すぐ乾くって」
「いいから使って」
花柄がプリントされたレースのハンカチを無理矢理押し付けられた。
「でも凜がハンカチ無くなるだろ」
「私はフェイスタオルもあるから大丈夫。陽樹だって受験前なんだから。風邪引かないようにして」凜の視線が斜めに落ちた。
「お、おう」
湿度のこもるバス内に微妙な空気が流れた。
*
センター試験を終えた。
学校には嫌な緊張感がずっと漂っている。わいわい騒ぐ時間中も、誰かはペンを走らせている。
誰だって志望大学に合格したいのだ。誰かが遊んでいる間に一歩前に出たい。
陽樹もそんな一人だった。
自己採点の結果はあまり良くなかった。国立はほぼ絶望的な状況だ。
何とか私立の志望大学に望みを託さなければならない。
気分が落ち込んでいた陽樹は、バス内で凛に声をかけられた。虚ろな瞳を凜に向けた。
「やっぱセンター落とすときついね」凜が悩まし気にため息をついた。
陽樹は苦笑いする。
「国立どころか私立もやばいぞ。凛はセンターは予定通りだっけ」
「そうだけど、どうなるかわかんない。数学は悪かったし。それに……」
「ん?」
「ううん。赤問が難しすぎて自信が無くって」
「それでも俺よりはいいだろ。俺なんてさっき合格率は15%って言われたんだ。ひどい担任だろ?」
「かもね」
陽樹はおどけたが、凜の横顔はますます曇った。
「あの国立行きたいって言ってたもんな。うらやましいなあ」
訝し気に思いつつエールを送ったが、凜の言葉は返ってこなかった。
気まずい沈黙の中、ようやく運転手の案内が聞こえた。ほどなくしてバスが停留所に到着する。
「凛、もう着いたぞ」
陽樹は助かったとばかりに腰を上げた。
「あっ」
「大丈夫か? 体調悪いのか?」
「ううん。そうじゃないんだけど」
運転手がこちらを訝しげに見ていた。陽樹はせかすように凛の鞄を引っ張り上げる。
「行くぞ。降りないと」
陽樹は何度か背後を確認しながら、先行してステップを降りた。
「気を付けて帰れよ」
「うん」
まるでうわの空だ。陽樹は首を傾げつつも、例のポストに向き直り、ポケット内の葉書を取り出し投函する。
今朝は単語帳に目を通していて出し忘れていた。
そして――
踵を返そうとして、郵便ポストに貼られた白い紙に気付いた。
「なんだ」
小さな文字で書かれた横書きの文書。てっきり郵便物の回収時間の変更か何かだろうと思っていたそれは――
『ポスト撤去のお知らせ』
突然の衝撃に脳内が激しく揺さぶられた。
続いて目に入ってきた内容が頭の中をから滑りしていった。
「どうしたの?」
異変を感じたのか、凛が近づいてきた。
「なにこれ。ポスト撤去のお知らせ? 無くなるの?」
陽樹は言葉を失い呆然と立ち尽くした。
「道路交通法違反にあたり撤去。撤去日は二月十五日。もう一か月もない」
凛の声がじわじわと頭に染みこんできた。
「嘘だろ」
ポストが撤去されるのか。よりにもよってこのポストが。
やるせない気持ちが怒涛の勢いで押し寄せ、胸が締め付けられた。
「陽樹……」
凛が沈痛な表情を向ける。陽樹がはっと我に返った。
「凛、気使わせてごめんな。俺、もう帰るわ」
陽樹は乾いた笑いを浮かべて、背を向けた。郵便ポストの頭を意味も無くパシッと軽く叩くと空っぽのポストは虚しく振動音を返した。
そして、長い長い坂を下り始める。軽かった体は鉛を巻きつけたように重い。
郵便ポスト撤去の知らせは衝撃だった。
思い出の形が跡形も無くなる。大事なアルバムを丸ごと紛失したかのようだった。
ふらふらと家に着いた陽樹は、それでも撤去が決まった原因を調べた。
喚き散らすほどの子供ではなかったが、せめて無くなる原因くらいは知っておきたかったのだ。
光量を落とした室内に、ぼんやりとスマホの画面が浮かびあがる。
小一時間は調べただろうか。
陽樹は、スマホをベッドに乱暴に放り投げた。
道路交通法第七十七条(道路の使用の許可)の規定によれば、第二号の許可を警察署長に取らないといけないらしい。
「まじかよ」
陽樹は調べた内容を反芻しつつ、ため息をついた。申請をしていなかった為の違反らしい。
ポストが道路に近く、通行人の邪魔になるからなのか。それとも車が接触する危険性があるからなのか。陽樹には詳細は分からない。
ともすれば、仕事を減らしたい郵便局のせいなのでは、と逆恨みしそうだった。
「なんだよ、それ」
やるせない思いが口をつく。
知らない方が良かった。もやもやした思いが一層大きくなった。
だが、撤去されることは事実だ。
「無くなるのか」
心の整理がつけられそうになかった。何もやる気がでなかった。
その晩、夜更けにスマホが鳴った。
凜からメッセージが送られてきた。
『起きてる?』
『起きてるよー』
無理してスタンプも送った。
『もしかしてポストのこと考えてた?』
陽樹は苦笑いした。凛に隠し事はできそうにない
『あたり。なんかいらいらしてた』
『思い出のポストだもんね』
『けっこうきいた』
既読表示はついた。だがこの一言で間が空いた。
数分待った。
『なくなる前に写真とりにいかない?』
写真? あのポストの?
思ってもみなかった提案に、重い体を起こしてベッドの上で座り直した。
思い出を形に、か。
陽樹は何度も一人でうなずいた。
良い案だ。身近すぎて考えたことがなかった。確かに無くなる寂しさを埋めつつ、一つの区切りにもなりそうだった。
『どう?』
一分も経たないうちにメッセージが入った。
『行く』
『OK。また日は連絡するね』
万歳スタンプが跳ねていた。
「デジカメどこにあったかな?」
陽樹はクローゼットの中の段ボールをかたっぱしから開け始めた。
撮るからには綺麗に残したい。スマホのカメラでは満足できそうになかった。
*
長い私立の受験期間が一週間前に終わった。志望校に加え第二、第三、滑り止めの連続に体の至る所が重かった。
「はあ、やばい」
陽樹は大きくため息をついた。申込だけで十万単位でお金が無くなるのだ。
通らなかった時に親に何を言われるかがとても恐ろしかった。
だが、と立ち上がる。
今日は例の日だ。
湧き上がる高揚感を胸に、陽樹は防寒着に袖を通して親に声をかけて家を出た。
日時は凛が決めた。
「しかし、夜とはなあ」
風は強くない。体感温度は悪くないが、それでも寒く鼻をすすった。
予定ではポスト前に二十時半集合だ。
昼間は公園の利用者が多すぎて、落ち着いて写真撮影が出来ないからだそうだ。
「夜は撮影できないだろ」という問題は近くの公園のLED灯が解決した。わずかだがバス停の明かりもある。
こういうときこそ夜景モードかな。そう考えているうちに凛を見つけた。
赤いマフラーに茶色のダッフルコート。レギンスに短めの黒いスカートだ。
見えづらいがチークをしている。
「お待たせ」十分前だった。
「いつから来てたんだ?」
「ほんの少し前」
鼻の頭がずいぶん赤くなっていた。真冬にスカートは寒いだろう。
凜が視線をさっと逸らし、ポストに向き直る。
「さ、始めちゃお。私、ポストの撮り方研究してきたんだ。後ろレンガ壁だからそれを入れてアップで撮るとおしゃれだって」
弾んだ声でデジカメを向けた。
「実は俺も。ってか見たサイト一緒だろ?」凜の隣に並ぶ。
「そうなの?考えること一緒だね」
陽樹はデジカメをポケットから取り出した。意外と明るい中、郵便ポストにシャッターを切った。
アップで一枚。全体が写るように一枚。背後に回って一枚。そんなに枚数は必要なかった。気持ちの問題だ。
「後ろも撮るの?」凜が首を傾げた。
「昔、凛と高志を待っているときに石で書いたものがあってさ」
「えー知らなかった。どんな絵?」
「絵じゃないって」
凛がポストの背後に回り、陽樹が指さす場所に目を向けた。
「これ、三人の名前」
「暇だったから来るたびに何日もがりがり削ってたんだ。まあ器物損壊かもしれないから内緒な」
陽樹は人差し指を唇に当てて微笑んだ。凜も釣られて微笑む。
「陽樹」
「ん?」
いつもと違う凛の固い声色に、陽樹はポストから視線を外した。
気づけば、一筋の決意を感じさせる黒い瞳が陽樹に向けられていた。
しばらくの沈黙を挟み、凜が上目づかいでいった。
「陽樹とポストの写真撮りたいんだけど……いい?」
「もちろん。並べばいいか?」
「うん」
ポストの横にゆっくりと並んでポーズをとった。
昔は精一杯見上げていたものを、今は見下ろしている。
陽樹は感慨深げに目を細めた。
「じゃあいくよ、陽樹、笑って笑ってジャンプ!」
凛が満面の笑みを輝かせてスマホを構える。
「ジャンプって無茶言うなよ」
一段と冷え込み始めた気温の中、二人は童心に帰った。
撮影に時間はかからなかった。
しんみりとした口調で凜がいった。
「明日無くなるんだね」
「そうだな。次にバスに乗るときはもう無いんだろな」
「陽樹……陽樹って今日何日か知ってる?」
「……十四日だろ」陽樹が静かに息を呑んだ。
「今日ね。バレンタインデーなんだ」
知ってるに決まってるだろ。二月十四日の二十時半。思い出のポスト集合。
陽樹は身を固くする。
「私ね、言おうと思ってたことがあるの」
凛が肘にかけていたポーチから、ラッピングがされた小箱を取り出した。おずおずと両手で大事そうに包み、陽樹の正面に立つ。
「なんとなくだけど、私の気持ち気付いてるよね?」
凜の口が引き結ばれ、瞳が大きく揺れていた。
陽樹の視線が斜め下に落ちる。
「今年もどうしようかずっと迷ってて。ポストのきっかけが無かったら、たぶんいつもみたいに『義理だから』って言ってたと思う」
凜が重たい息を吐いた。
「だって怖くて。気持ち知られるのも怖いけど、友達でもいられなくなるのはもっと怖い。でも、もうダメだった」
熱く潤んだ瞳が決意とともに陽樹に向いた。
「陽樹が好き。誰よりも。私と、付き合ってください」
凛が頭を下げて小箱を差し出した。手はずっと震えていた。
こんな状況を何度想像しただろう。
陽樹が凛を気にしはじめたのは高志がいなくなってからだ。高志が抜けたことでできた心の穴を凛が埋めてくれたときに、大切さを思い知った。
いつも気にかけてくれた凛。
高校に入って同じクラスになった時は飛び上がりそうだった。だが気付かれるのが怖くて、「縁があるなあ」と口にするのが精いっぱいだった。
高校二年で別のクラスになった時にはやり場のない思いに翻弄されて、そっけない態度をとったこともある。そんな陽樹に、凛は変わらず接してくれたのだ。
そして、高校三年で幸運にも再び同じクラスになった。
陽樹は限界だった。
これが一緒にいられる最後の一年だ。そう思うほどに心は散り散りになった。怖かった。
けれど、凛の志望大学が自分と同じだと知って、ずるずると結論を先延ばしにしてきた。あわよくば大学も一緒になれると、甘えたのだ。
しかし、その目論見はセンター試験で粉々に砕けた。そううまくはいかなかった。
これで振り出しに戻ったと落ち込むことになったが、逆に決心はついた。どこかで告白しようと。
凛の提案が舞い込んできたのがちょうどその時だ。
陽樹は凛の震える手を下から両手ですくい上げた。
手の震えが収まり、凛がばっと顔を上げる。
痛々しいほどに青ざめ、唇はかさかさに乾いていた。
「俺も……凛が好きだ。ずっと好きだった」
揺れる瞳にはっきりと告げた。
凜は一瞬で涙をあふれさせ、顔をくしゃくしゃにする。
その場で崩れ落ちようとしたのを慌てて抱きしめる。髪から良い香りがした。
腕にさらに力を込めると、凛も陽樹の背中に両手を回した。
「ありがと」
絞り出すような嗚咽と共に、ラッピングされた小箱が地面を転がった。だが、どちらも拾うことはない。
一番大事なものは胸の中だ。
凜の嗚咽が大きくなり、陽樹はゆっくりと目を閉じた。
*
二人はバス停のベンチで並んで話をした。
凛はまるで鬱憤を晴らすかのように積極的に陽樹に身を寄せる。「寒いから」という理由に陽樹は何も言わなかった。
「私ずっと聞きたかったんだけど」
「なに?」
ようやく落ち着いたころ、凜は不安そうに問いかけた。
指がポーチの革ひもをくるくる巻いている。
「陽樹の文通相手って女の人?」
唐突に振られた言葉に身構えていた陽樹は吹きだした。
「なっ、笑わなくてもいいでしょ!? だ、だって女の人だったら心配だもん」
陽樹は耳まで真っ赤にした凛の肩に手を回し、ポケットに入れていた葉書を差し出した。凜の瞳がおずおずと見つめる。
「葉書? 差出人……って高志!?」
「俺の文通相手は凛も良く知ってる高志だ」
「うそ!? なんで? 全然教えてくれなかったじゃん」
「そう言われても聞かれなかったしなあ」
「高志だったら最初から教えてくれても良かったでしょ! 私がどれだけやきもきしてたと思ってるの!? なんでアプリとかじゃないの」
「高志が引っ越した時ってまだスマホ持ってなくてさ。最初手紙でやり取りしてたんだ。そしたらいつのまにかお互い続けちゃって、今もこんな感じ」
「前に聞いた時『文通相手に送ってるだけ』って言ってた。高志なんて一言も言ってなかった」
体ごとのしかかるような勢いで顔を寄せ、詰め寄ってくる凛から陽樹は慌てて目を逸らした。
「あっ、ごめん」
凛が自分の行動を省みて真っ赤になる。「でも」と非難する声が尻すぼみに聞こえた。
陽樹は少しだけいじわるく言う。
「凛だってもっと早く言ってくれれば良かったんだ。全部俺と同じ大学志望なんておかしいだろ。ばればれ」
「――っ!? それ今言うの!?」
「否定しないんだ?」
「うーーーーーーーっ! いじわるっいじわるっ! 陽樹のそういうとこは嫌い!」
ばたばたと足をばたつかせる凛。
「陽樹だって私がバレンタインデーに決めた理由くらい分かったでしょ? なんで先に切り出してくれないわけ!? こっちは最初からめっちゃどきどきしてたのに」
「それは……」陽樹の言葉が詰まった。ジト目の凜が「それは?」と詰め寄る。
「……気付かなかった」
「はーい、ぜったい嘘。ほんとは?」
陽樹はばつの悪さに目をそらした。言えるわけがないのだ。
凛が言ってくれるならそれに乗っかろうと思った、などと。
「もうそれはいいだろ。大事なのはこれからだ」
「逃げたー逃げたー。ほんとひどい、か、彼氏なんだから」
「なんだって?」
「だから、そういうところは嫌いって言ってるでしょ」
真っ赤になる凛と二人して大笑いする。
数年来で実った関係はきっとうまくいく。
郵便ポストが最後に作ってくれたきっかけはきっと思い出以上の未来を与えてくれるだろう。
陽樹は透き通った夜空に思いをはせた。
「ところで陽樹。その手紙って高志が送ってきたんだよね?」
「ん? そうだけど」
「じゃあなんでそれを今日持ち歩いてるの?」
「――っ」
「なんでそんな、やばいみたいな顔になるの? ねえなんで?」
陽樹は慌てて葉書をポケットにしった。勢いあまってくしゃくしゃだ。
「ちょ、ちょっとなんで隠すの? 裏側見せてよ。高志の手紙なんでしょ? やましいことは書いてないよね」
「……やっぱりプライベートは大事にしないとな」陽樹は明後日の方向を見つめてうそぶく。
「付き合うことになったんだから隠し事は無しにしよ。だから見せて」
にっこりと笑う凜が奪い取ろうと体を寄せた。
陽樹は必死で抵抗する。これはダメなのだ。
いずれ告白するときのお守り代わりに持っていたとは言えない。
後半ならむしろ見せてもいいかも。
心のどこかにいる悪魔の囁きを、陽樹は全力で蹴り飛ばした。
*
拝啓 陽樹様
実は俺に最近彼女ができました。
告白したのは俺の方です。周囲には釣り合わないから無理だ無理だと言われていたので今は優越感でいっぱいです。
陽樹もいい加減に凛に告白してはどうでしょうか。
というか最近の手紙が全部凛の話なのはどういうことでしょうか。さすがの俺もちょっと引いています。告白は怖いですが、うまくいけばこれ以上の喜びはありません。
相手の目を見つめて男らしく伝えればきっと成功する……はず。(だめだったらごめん!)
うまくいけばその場でAは間違いないです。
次の報告を楽しみにお待ちしております。
敬具
高志より
郵便ポストスクランブル 深田くれと @fukadaKU
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