水月鏡花に触れられない

 彼女の詩は、私にはよく解らない。


 一昨日まで満開だった桜は、既に散り始めている。


 私と彼女の家の間には大きな公園が在って、私たちは、そこの桜の樹の下でよく待ち合わせた。2人でよく風に吹かれた大樹の下。


 喧騒が聞こえる。酔客が騒いでいるのだろう。



 私が桜の下に来たのは、彼女の詩の解釈をしてみようと思ったからだ。




華は桜とは言ったもので

全国の誰もが口を揃えて

「桜が咲いた!」と叫ぶ

そんな季節は騒がしくて


花散らしの雨が降った後

水溜まりに映った一輪の

桜は街で唯一生きていた

無惨な花弁を地に残して


花は水の上で揺れている

彼女は深夜に手鏡を持ち

月を映しながら髪を梳く

水花鏡月に触れられない


華やかな姿で振り返った

彼女はちょっと苦笑する

「それ間違ってるよ?」

水月鏡花はまだ艶やかだ




 確かに、私は月を鏡に映しながら髪を梳く。

 なんとなくそれが良い気がしているだけで、特に意味はないのだけれど。


 彼女が水溜まりの上の花を見て、「水花鏡月は触れられない」と呟いたのも覚えている。私は「それ、間違ってるよ。水月鏡花だもの」と訂正したのだ。


 でも、それだけでは解釈はできない。


 彼女が、ただ情景を写し取っただけとは思えないから。



 それなら、一体――――。





 私は、キーワードを調べてみた。

 気が乗るかな、と此処で辞書を開くことにしてみたけれど、持ってくるには重すぎた。肩を回しつつ、トートバッグから国語辞典を取り出す。




 ――水月鏡花。


 鏡花水月と同義の言葉。

 儚い幻――目には見えても、手に取ることのできないものの例え。詩歌や小説の奥ゆかしさが云々。



 ニュアンスは知っていたけれど、こんな風に書かれているのか。私は改めて勉強になった、と解説をもう一周読んだ。

 そりゃ、触れられないわ。




 気がつけば、陽が横から頬を照らし出すほどの時間が経っていた。


 曰く、桜や月は、しばしば狂気の象徴として描かれること。どうして狂気を描こうとしているのかは、解らない。




 ――ところで、この情景は“水花鏡月”と言いたいがための想像だったのだろうか。

 それにしては“無惨な花弁”が生々しくて、どうも引っ掛かった。




 明日の天気予報は雨だった。

 花散らしの雨。明後日には、彼女が描いた光景を見ることができるのかもしれないな、と空を仰ぐ。散った花弁と、水面に映る樹に残った一輪の花。その対比。


 彼女は、確かに桜を好んでいる。満開の季節も、葉桜の季節も、よく樹を見上げている。


 だから、美しい桜を強調したかったのだろう。



 日が暮れそうだった。

 喧騒は、一層波のように蠢いている。夜桜と酔客。夜桜を眺めるのも良かったけれど、独りで喧騒に身を投じるのは御免だったから、荷物を纏めて帰ることにした。


 陽光の残滓に、花弁がホログラムのように煌めいていた。



 近くのベンチに座った人が、ビールのプルトップを開ける音がした。遊具で遊ぶ子供に、もう帰るよ、と呼び掛ける母親の声。太い歓声やら甲高い歓声やらを上げる花見客。


 風は心地よいを通り越し、既に冷たいの域だ。



 無粋だけれど、直接彼女に解釈を訊いてみようか、とも思えてくる。


 直感に身を任せ、私は、自宅とは反対の方角へ歩き始めた。彼女の家の方角だ。


 雨のように、淡紅の礫が私を追ってくる。道端には、土に変じつつある花弁が無惨な姿を晒していた。


 そして私は、数分で彼女の家に着いてしまった。


 インターホンを鳴らし、少し居心地悪い時間をやり過ごす。彼女が扉を開けたとき、私は道中で見つけた桜餅を手渡した。


「おぉ、ありがとう! ――って、いきなりどうしたの?」


 流石、彼女は切り出すのが早い。


「無粋だとは思うけれど、教えてくれない?」


 彼女は首を傾げた。心底、言っている意味が解らない、と言いたげだった。

 少し恥ずかしくて要点を態とぼかしたのだ。だから、察してくれなかったことに勝手に気まずさを感じてしまう。


「――詩の解釈」

「ああ!」


 表情が光った。手を打ちそうな気さえした。


 私は、今までに掴んだ断片的情報を伝えた。彼女は、その全てに頷く。


「よく調べたねえ」


 彼女は感嘆の息を吐いた。ぱたぱたと家の中へ駆け戻り、チョコレートを取ってきた。彼女なりの労いらしい。

 あまり見ない、桜味のチョコレート。曰く、彼女のお気に入りで、毎年買っているとか。ホワイトチョコレートの中に、ほんのり春の味がした。


「――美味しい」

「でしょ? ホワイトデーによく使うんだよね。――――で、本題といきますか!」


 忘れかけていた。

 私は、彼女の詩の解釈を聞くために、ここに来たのに。


 彼女の詩は、何処までが言葉遊びで、何処からが描きたかったことなのか、私には解らない。けれど惹かれてしまうのは、一体何故なのだろう。


 彼女は、一緒に取ってきた原稿用紙を眺めつつ、微笑した。


「そういえば、こんなのも書いたっけね……。で、どの詩のことだっけ?」


 私は、「水月鏡花」の詩を示す。


「あー……。えっとね、これは……」


 そこで彼女は吹き出した。


「大丈夫?」

「あはは、うん、こ、これ、は」


 息を整えつつ、彼女は私を見る。


「君のこと」


 それは、なんとなく解っていた。


「と」


 私が聞きたかったのは、この先だ。


「――君が、“狂気”って言ったのは、正しいよ。美しくて、触れられない狂気。……でもね」


 彼女は私に意味在りげな視線を送る。

 これは、案外無意味な詩なのかもしれない、とそのとき気がついた。


、って意味」


 彼女は、もう一度吹き出した。

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水月鏡花 月緒 桜樹 @Luna-cauda-0318

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