肉が机を擦(す)る音で。

木元宗

 


 このご時世に、スマホも携帯も無ければ、パソコンすら無い状態で、一ヵ月と一週間少々を過ごした日本人が、何人いるだろうか。


 そんなめでたくもない貴重な体験をしている私は夕食後、渋々ノートと筆記具を広げ、机の前に掛けている。机の両脇には本が数冊積まれていて、いつもの事だが雑然としていた。


 左手から行こうか。今野こんのびんの『人狼じんろう』、恩田おんだりくの、『雪月花黙示録せつげつかもくしろく』。誉田哲也ほんだてつやの、『ソウルケイジ』。右手には、広辞苑第三版と、山田やまだ悠介ゆうすけの、『特別法第001条DUSTダスト』、そして奈須なすきのこの、『からの境界(中)』が積まれている。


 どれも殆ど読めていない。いや、中巻まで来れている、『空の境界』は例外か。私が西尾にしお維新いしんを勧めてから、ずっと追いかけていた長編ライトノベルが全く読めなくなったと、不満と、新たな出会いへの喜びが入り混じった、結局はお礼に見える皮肉を零すようになった、弟に勧められた。まあそれはいいとして。


 つい数年前まで手で書いていたと言うのに、この名状しがたい煩わしさは何だろう。


 依然ノートは、真っ白同然なページを晒し、その上を消しゴムのかすが、何かの幼虫のようにまばらに這い回っている。ネット小説という趣味を見つけたのはいいのだが、こうも思うように作業が捗らないのは初めてだ。眠くなってきてしまう。


 平成生まれを疑われる程年寄り臭く、高校二年生の秋まで携帯電話など持った事も無かった私は、パソコンなんてものを個人用に持つのは、大学四年の夏だった。無くとも生きていける。そう機械ものにすぐ頼るから年寄り共に、「最近の若い者は」と使い古された文句を言われるのだと、気付けば自分も老いたような意識が根付いてしまっていて、あれだけ嫌っていた筈なのに。


 携帯で小説を書くのは些か不便だし、趣味にぐらい少しは金を出してもいいではないかと、何でもすぐに本当に必要なものなのか、無くともよいものではないかと否定しがちな意識を変えようと、久々に趣味に投じてみれば、この有り様。あっという間にパソコンで書く事に慣れてしまって、突然の故障から修理が終えるまでのこの間を、どうか有意義に使いたいと鉛筆を握ってはいるのだが。いかんせんこれが、どうにも面倒臭く感じて進まない。欠伸あくびまで出て来てしまって、目をこする。


 こんなに面倒だっただろうか。手書きとは。ならば、全てを手書きでこなしていた、義務教育期間や高校時代の私とは、もしや凄まじい事を成し遂げていたのではないだろうか。授業と小説とは違うものであると言われればそうだがいや、慣れというものは恐ろしい。


 もう一時間以上書いては消しを繰り返している割には、というか、手で書く速度と、パソコンで書く速度がそもそも全く違うという事に目が行ってしまって、乱雑な字になろうとも速さを意識して書いてみるものの、矢張り気分が乗ってくれない。


 怠惰な神経である。パソコンを持っていなかった頃の自分に見つかれば、情け無い事を言う前に書けと私を叱るだろう。今でもそうだが特に、高校時代の私とは、それは禁欲的で、妥協を許さない思いが強かった。書きたくても、内容を支える資料の大凡おおよそを、Googleドライブにしまい込んでしまっている為、ネットに接続出来ないと、確認が困難なものがあるという事実も分かっており、十代の私も、そこまで厳しい視線を向けては来ないが。


 図書館で代わりになりそうな本を探して借りる、とも考えたが……。いや、期待しない方がいいだろう。眩暈がする程の貧相な蔵書量だ。一般の書籍ならまだしも、学術書関連は本当に期待しない方がいい。医療も生物学も、民俗学も美術書関連もざっと見たが、今考えている話のネタには、なりそうなものは無かった。既に自分で買い揃えているものの方が役に立つ。田舎町とは、こういう時に悲しいな。県下最大だったか、関西一の蔵書量を誇るらしい、あの大学の図書館が懐かしかった。


 びくっと、左の腿の表面が、虫が這ったように疼く。


 椅子を後ろに引いて、服の上から見てみた。


 分かってはいたが、虫などいない。この年も明けてまだ二ヵ月と言う時分に、彼らが顔を出す事などまあ無いだろう。


 冷えて血行が悪くなっていたり、疲れが溜まっているとよくなるものだ。肉と皮膚の間のすれすれで、腿の内部を虫が這っているような気味の悪さが、一瞬走る。


「…………」


 少し長く座り過ぎたか。時計を見ると、そろそろ座り続けて、二時間が来ようとしている。一度立って屈伸くっしんでもするか、コーヒーでも淹れて一息つくか……。いや、無理に書くものでも無いし、今日はもう寝ようか。根を詰め過ぎるのも悪い癖である。自覚出来ている内に、さっさと寝よう。


 そう机の上を片付けようと、筆記具をしまおうとした時である。ふと、机の左手に積んでいた本の下敷きになっていた、メモ用紙の束が目に付いた。普段の生活の中で思い付いた、小説のネタを取り敢えず書いておく為に使っているもので、兎に角色々なものについて書き殴られている。そう言えば最近、そのメモの整理をしていなかったなと、何となく手を伸ばし、本の下から引っ張り出してみた。


 終末世界を舞台にした話のネタに、狂犬病を使うから調べろという走り書きの下に、ギャングが使うらしい銃の名称が、無造作な文字で続く。よく混ざってくる、アルファベットを書くのが煩わしそうだ。「腐生・奇花」という、読み方は分からないが、実在するらしい生物についても調べたいらしい。


 ……アレクサンドライト? という鉱物らしきもの。石鉄隕石セイムチャン・パラサイトという石について。狼と烏の共同生活。脳のクオリア。243(243?)。人工子宮。蘇生医療。移植医療の歴史について。「ししった報い」。ビールが注がれたグラスをコマにチェスをし、コマを取るとそのグラスのビールを飲めるという、グラスチェスについて知りたいなどと、知識欲の塊のような文字が、無秩序に並んでいた。自分の頭の中をそのまま文字にしたようで、一人苦笑してしまう。


 流石に自分が関心があるものを書き殴られている所為か、つい文字を目で追ってしまって、寝ようという意識を、遠ざけてしまった。


 ――重い頭痛がして、瞼が上がる。


 ……ほーら言わんこっちゃない。寝てしまっていたではないか。うつぶせ寝は本当に危ないから、床でもいいからちゃんと仰向けになって寝ろと、どこかで聞いたばかりなのに。


 広げたままのノートに伏していた、怠い身体を持ち上げる。下に垂れてしまった髪が鬱陶しい。顔にかかった髪をどけながら、机の奥の右手に置かれた、電波時計を見た。日付が回って、午前一時。


 ……何を、していたのだったか。


 すっかり重くなった頭で、ぼうっと電波時計を見る。


 ……妙だな。寝起きはいいのだが。疲れていようと不機嫌になったり、ぶすっとする事は余り無く、すっと起きて活動出来る方である。修学旅行や部活の合宿では、いつも一番に起きて、ギリギリまで寝たがる同級生を叩き起こしていた。合宿……? ああ、そうだ。毎年夏休みにある、夏合宿。一学期の成績が芳しくないと、参加出来ない。私は少なくとも座学で困った事は無いが、うちのバンドは勉強が苦手な奴ばかりだから。さっさと授業用のノートとはいつも別に作っている、テスト対策用のノートを作って、授業用のノートは貸してやらないとならない。……あいつらここの所、当たり前のように頼ってくるが、そろそろ一喝入れた方がいいだろうか。私が教えないと阿鼻叫喚のくせに。


 物理だ。物理やらないと。


 消しゴムのかすは一つも落ちていない、真っ白なページが広がるノートに、目を落とす。


 耳鳴りがしていた。小さな音で。気の所為ではと思う程、それは微かだが、確かに鳴っていると確信出来る高音で。


 今は六月の末の筈なのに、足元で唸る電気ストーブが、おかしかった。


 おかしいとどこかで強く思っているのに、大して気にしていない自分も、おかしかった。寒くはないけれど、暑くもないし、まあいいかと。


 上下長袖のスエットを、袖も捲らず、パーカーまで羽織って着ているくせに。


 ノートの左手には、出した覚えは無いが懐かしい、物理の教科書だけがあった。

 その広げられた教科書に目を向けたまま、筆箱と、そこから出されたままじっとしている鉛筆を、拾い上げようとノートの右手に手を伸ばす。


 ぎゅい。

 

「……『力学的エネルギーが保存されない場合』? あ? 保存されるんじゃなかったのかよ」


 覚えた端から適当な事言いやがって。


 いきなりイラっとして、さっさと内容を纏めようと、教科書を読み進めながら、鉛筆を取ろうとする。


 ぎゅっ、ぎゅい。


「保存力のみが働く場合は保存されて、非保存力も働く場合は保存されない……? 保存力ってのは確か、重力、弾性力と……。静電気で、それ以外の何かも働く時は駄目ってか。摩擦とか、人力とか――って、んだよ」


 何でいつまでも取れないんだ。


 暗記も兼ねて読み上げていた教科書から、漸く目を離すと右手を見た。


 胸が痛くなる。何かの比喩じゃなくて、本当に。


 一瞬頭の中が真っ白になって、無呼吸になった。


 背中の表面が急激に冷たくなったと思うと、何も感じなくなる。


 それを見た瞬間に。


 何とも不格好と言うか、醜い肉の塊のようなものが、右手首の先に生えていた。

 いや、手なのである。手首の先に手が生えているという何とも当たり前な光景なのだが、その当たり前を成すものが、ことごとく欠けていた。


 指が無い。親指を残し、てのひらだけになっている。何とも奇妙な有り様だった。まるで親指だけが異質な存在として、掌から突き出すように伸びているようにも見える。


 残り四本の指があった付け根は、巾着の口のようにぎゅっと一点に肉と皮が寄っていて、絞られたような形を成し、血の一滴も零していなかった。痛みは無い。


 あのぎゅいぎゅいと鳴っていた、机の表面をるような音は、この有り様の所為だったらしい。無い指で必死に鉛筆を取ろうと、それは無様に何度でも、四本指があった肉の先で、机をっていたのだ。


 目に入った瞬間こそぎょっとしたが、ぼうっとそれを眺めていた。


 動じていないのではなく、頭が真っ白になっていただけだった。


 動かしてみる。五本指だった頃の体で。親指は動いた。ひょこひょこと関節を曲げ伸ばしして、お辞儀をしているように見える。ただ、残り四本の指があった付け根辺りの肉は、見えない指でも生えていると言いたげに、掌の上部の肉を盛り上げては引き延ばしと、芋虫の蠕動ぜんどう運動のような動きを掌に科して、必死に親指に付いて行こうと、みっともないと言うか哀れと言うか、滑稽にも見える、悪夢ような動きを繰り返した。


 そのグロテスクに目が覚めて、すうっと意識が戻ってくる。


 何だこれは。どうなっている。何故急に指が消えたのだ。机の辺りを見渡しても、一本の指も落ちていない。なら何で親指だけ。


 ぐるぐると混乱に飲まれそうになりながら、必死にこの有り様を理解しようと考え始め、そうだ左手、左手はどうだろうかと、今まで意識すら投げていなかった左手を、頭をぐるんと向けて見る。


 左腕は机について、教科書を睨むように、前のめりに傾く身体を支えていた。軽く曲げた手首の先は、床を向いていてよく見えない。またあの胸の痛みと、背中の無と、無呼吸を味わう。十年は老けたような思いになった。恐る恐る身体を持ち上げると、腕の先を見る。ああ。跡形も無く、親指を残して消えていた。


 怪我をした瞬間とは案外、痛みを感じない事がある。脳が何やら分泌しているのだろうか、危機感も麻痺していて、ぼんやりとしてしまう経験があった。頭を三針縫う怪我をした時も、余り痛くはなくて、後からじわじわとやってくる強い痛みに、漸くただ事ではないと気付き、病院に駆け込んだ事がある。不思議な事に、縫われた時の方が痛かった。


 多分今は、その時と同じなのだろう。また真っ白にされてしまった私は、騒ぐ事もせず、顔の前に両の掌を掲げて、変わり果ててしまったその姿を、ぼんやりと眺めていた。左右の親指をひょこひょこと動かし、ある体で残り八本も動かそうとすれば、うねうねと掌の上端の肉が蠢く。


 なーんの感情も、湧かなくなっていた。


 二、三回ぼんやりそれを繰り返していると、今度は八本の透明な指が、動かしていないのに勝手に動くようになって、うねうねとしつこく肉を波打ってみせると、目の前が無になる。



 次にはっとしたのは、組んだ足の上にメモ用紙が乗る、猫背になった自分の視界だった。


 俯き続けていたようで、首が痛い。呻きかけたがすぐに冴えた頭は、メモを掴みっ放しだった両手を掲げた。


 ……どちらも五本指。きちんといつも通りの位置に、いつも通りの形で生えている。力もしっかり入っているし、安定してメモ用紙を掴めていた。


 どういう事だ? まだ微かに眠気を引きる頭は、首を傾げる。


 指が無くなるという夢を見ていた? いや……然し。寝てしまっていたではないか。さっき。だから目が覚めて、勉強をしようと……。ああいや、違うのか。眠ってしまっていて、目が覚めたという夢の中で、指が無くなるという悪夢を見ていたのだ。起きた気になっていただけで、そこが夢の始まりだったのである。そして今、本当に目が覚めて、よく分からない気分になっているのだ。


 ……現実だろうか? ここは。


 少し不安になって、左の腿をつねってみた。


 痛い。この馬鹿。寝起きだから加減を間違えたと言うにもいたぎる。然し何と気味の悪い夢か……。忌々しい。さっさと風呂に入って、寝よう。


 支度を始めながら、いや然しと、もう一人の自分が、不安そうに思案していた。


 夢なら痛みを感じないらしいじゃないか。だから今私は、自分の意識がどちらのあるのかを確かめようと、腿を抓ったのだろう? ならあの痛みは、どう説明すればいいのか。


 芯から怯えた時に感じた、あの胸の痛み。あれはどちらも心臓で、時たま現実で感じる痛みと、瓜二つだった。息が止まり、ひゅっと喉が鳴る音も、背中が冷たくなって感覚がなくなるあの感じも。そもそも夢が始まったばかりなのに、寝起きで重くなってしまったと思っていた、頭の痛みも。


 確かに高校生の気分になっていたのは夢だからだが、でもあれらの痛み達は、現実で感じるものと、同じだっただろう? どうしてありもしないものに私の身体は、まるで現実で起きている事のように、反応したのか。


「…………」


 何の変哲も無い、ここにある筈の部屋を出る。


 机の奥の右手に置かれた電波時計は、午前二時四十三分を指していた。



 ――以上、半分偽物で半分本物の、そんな妙な夢を見た、私の話です。


 意地の悪い脳味噌と暮らしているようで、よく見るんですよね。こういう、本物みたいな夢。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

肉が机を擦(す)る音で。 木元宗 @go-rudennbatto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ