愚者の帰路

鹽夜亮

愚者の帰路

 彼は、大学へと通うために、電車に頼らざるを得なかった。彼の周囲では、人々が一心にスマートフォンに熱中していた。どこを見ても様々な姿形をした指だけが、各々の画面の上で蠢いていた。きっとそれは蛆虫が死体の上で蠢くのと似ているだろう、と彼は想像した。彼は、得体の知れぬ無気味さを感じ、出来るだけ遠くへ視線を動かした。しかし、そこにも、ただ同じ光景が広がっているだけだった。

 目の前に座っている中年の男性が、かすかに舌打ちをした。彼の左隣にいる、数名の男子高校生たちが、けたけたと大げさに笑い声をあげていた。二両目へと続く扉の近くで、露出の多い女が横の男に撓垂れ掛かって、甘い声を出していた。彼の右隣に立っている女性は、電車の揺れで彼の肩が自分の肩と触れると、虫を払うような素振りを見せて彼から数センチ離れたように見えた。目の前の荷物を置くための棚には、学生のものらしい泥で薄汚れたスポーツバックが、ひしゃげたまま不安定に置かれていた。足下には、車内の光に誘われて飛び込んだのであろう小さな蛾が、片羽を誰かに踏みつぶされてもがき苦しんでいた。無様で痛々しく思った。彼はそれを原型も残らないように、一息に踏みつぶした。それは、憎悪というよりも優しさであると言えないこともなかった。

 彼は、このどれもが悪夢に思えて仕方がなかった。胡蝶の夢という言葉を脳裏で繰り返し、死の衝動に耐えなければならないほどだった。彼の舌は、彼自身の歯に傷つけられ、濃厚な鉄の風味と生命の香りを口腔に蔓延させていた。彼はその鉄の味に、小学生だったころ、酷く舌を噛んだある日のことを思い返した。鮮烈な血の味とともに、口内で咀嚼されるゴムのような豚肉の食感が。焦燥にかられて階段の大鏡の前へ走り、そこで見た赤い肉の裂けた、ざらっとした舌のその断面が。断片的に蘇る記憶が、鮮烈に彼の脳裏で火花のように咲き、そして一瞬の後に失せた。

 彼は、つとめて人間を見ないように視線を動かしながら、車窓の外へと目を向けた。赤黒い夕暮れに照らされて、稲穂が揺らめいていた。夕日は血のように見えた。彼はその血のような夕日から、女性というものを連想した。惨たらしい、下劣な連想だった。嘔吐感は一刻の猶予も与えず、彼の口内を酸味で満たした。彼には、今の自分たちが、絞首台へと連行される哀れな罪人たちのようにしか思えなかった。

 彼は、彼自身がこの罪人たちの中で、最も早く処刑されることだけを希望としていることを、意識しないわけにもいかなかった。

 やがて車窓からは、稲穂が消えた。代わりに、黒煙を吐き出す工場の煙突、幾何学的な精巧さで無機質に並んでいる車の群れ、油の染みがついた灰色のコンクリート、薄暗い空を裁断する弛んだ電線、その上でこちらをじっと見下ろしている鴉、そしてそれを虚ろな目で眺めている彼自身、それらがぼんやりと映った。

 電車は間もなく、彼の目的地へと到着するようだった。彼は、無機質な車掌のアナウンスを、白昼夢に溺れるようにしながら、ぼんやりと聴いていた。

 アナウンスが終わると、間もなく電車は彼の目的地へと騒々しく滑り込んだ。Openと記された青色のボタンを押すと、腹の膨れた醜い中年がタバコの煙を吐き出すような音を出しながら、幾分か滑稽に、扉が開いた。彼は、何かに急かされるようにプラットホームへと逃げ出した。もちろん、その間も、平常な風を装うことだけは忘れなかった。この事に、彼は彼自身で嘲笑を禁じ得なかった。それは、現代に生きる術の一つとして、彼が馬鹿げた嘘で己を取り繕うことを覚えたという、一種の証明に他ならなかった。

 ほんの一瞬立ち止まった彼の横を、学生やサラリーマンが数人通り抜けた。騒々しさに支配されていた車内とは対照的に、誰も口を開く者は居なかった。それはどこか、美しくも思えた。畢竟、彼にとって美しいものというものは、微かにかびの香りのする、倉の中に眠った味噌のようなものに他ならなかった。それ故に、彼の美学は、彼自身の現代人としての生存を邪魔することを、一切憚らなかった。

 美と醜の対立公式は、常に彼にとっては絶対の公式だった。彼は、それに無条件の服従を決め込んでいた。善悪を好悪が凌駕することを示した、歯車に苛まれて死んだある男と同じように…。…もちろん、彼はその男のように頭の良いわけでも、鋭敏に過ぎる神経をもっているわけでもないことを自認していた。それは、世間が口癖のように繰り返す学歴という概念の中にも、明らかだった。また、時折彼に、様々な他が要求する、実用的な能力の中にも明らかだった。

 彼は、彼の能力が不十分であることを憎んだ。とりわけ、その神経が彼の思うよりも鈍いことを憎んだ。感情が鈍いことを憎んだ。感受性が未熟であることを憎んだ。自身の脳が、彼の軽蔑する他者より劣ることを憎んだ。自己と他者の全対象への彼の心の奥底に沈殿したこういった憎悪は、しばしば彼自身を葛藤の渦の中に、引きずり込んだ。

 彼は彼の理想よりも遥かに、あまりにも世俗的であった。彼は世俗に必要なあらゆる常識という因襲を、時代という流行を、実利という科学を知っていた。のみならず、それの重要性さえ認識していた。さらには、それの範疇に幸いながらも自分がしがみついていることに、安堵を覚えていた。その安堵は、縊死の最中にある人間が、まだかろうじて息ができるという刹那の生理的欲望の充足に対して感じるであろう安堵と同類のものだった。

 しかし彼は、同時に全てを軽蔑することを、どうしてもやめることができなかった。たしかに、それは全てのものに向けてであった。彼にとって全ては軽蔑の対象であった。畢竟、彼は彼自身を、最も軽蔑していた。彼のこういった驕慢は、たしかにその醜さに相応の苦痛を彼に与えていた。彼は自らがあるべき形を想像する度に…また、理想としての自らがあるべき形を想像する度に、自らの驕慢が招いた死の病に、少しずつ蝕まれていった。

 彼は金を憎んだ。この世の何よりも、金を憎んだ。同様に、資本主義さえも彼は軽蔑した。だが、この軽蔑については…彼の無知、阿呆、怯懦、怠惰、驕慢が産んだ斜視によるものと言えないこともなかった。金に対するのは憎悪であるのみならず、多大な軽蔑をも含まれていた。世俗の全てを憎み、軽蔑することの根幹に、金への憎悪と軽蔑が、木の根のように這い回っていた。彼はこのために、容易に働くことを容認できなかった。時間と自我とを引き換えに金銭を得ることは、彼には醜いものにしか思われなかった。であるから、彼は世間の、働くことへの賛美を散々に軽蔑した。冷笑さえした。彼自身が学生のころに直面した就職活動という売春は、その意味では滑稽な喜劇に違いなかった。

 だが、この金への軽蔑は……ただ彼の意気地のなさと社会的病弱と、卑屈と怠惰が変形して表れたものだったとも、彼は心のどこかで気づいていた。無論、彼はそんな自分を、何よりも軽蔑した。

 左肩を微妙に下げた中年のサラリーマンの後に続き、彼も歩き出した。田舎の駅のプラットホームは短く、味気なく終わった。線路を渡り、無人の駅舎を出ると、彼は彼の自動車を目指した。その鍵を開けた時、彼は日常という一日の終わりを感じ、自身の肉体と精神が弛緩することを感じた。

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愚者の帰路 鹽夜亮 @yuu1201

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