その日

神山はる

その日

 その日、私が彼を見舞ったのは、実に偶然とは程遠い事情の下に在りました。というのも、その数日後には私はこの国を発たなければならなかったからでした。彼は昔から相も変わらず人をたぶらかして面白がるような生意気なやつですので、およそ病人とは思えないのですが、それでもやはり彼は痩せ細り、余命ももう幾日もないのです。私がこの国を発ったなら、もう二度と現の世で会えることはあるまいと、彼も私もとうに承知していました。

 私が帽子を脱いで、彼の書斎に入っていくと、彼は臥せていた床から体を起して、随分と早かったじゃないかと云いました。

「来るなら早い方がよかろうと思ったのだ。他の客と重なるのも悪かろう」

「今日はお前の他に客の予定はないよ。第一、見舞いならもう十分だ。こちらから断ってやろうかと思うほどだ」

「来てもらえるだけ有難いとは思わないのか」

「思わないね」

 あんまり彼がすぐに云うものだから、私は思わず笑ってしまいました。彼はそういうやつなのです。

 私は見舞いの為に持ってきてやった幾冊かの本を彼に手渡しました。彼の好きな沙翁の本を一冊と、詩集、それから発刊されたばかりの本を幾つか。彼はお前にしては気がきくじゃないかと笑いました。特に沙翁の本は、見舞いに来た私を放って今にも読み出しそうだったので、私はもっと暇なときに読むといいと云って本を取り上げました。

 彼は私を一通りつまらんやつだと責めてから、気を取り直したのか、何時出かけるのかと聞きました。

「今週の末には発つつもりだが」

「何だ、もうすぐじゃないか。お前は手紙にもしかしたら行くことになりそうだとしか書かないから、てっきり渋っているのかと思ったが」

「仕方あるまい。これも仕事だ、もう決まってしまったから断られても困ると先方が言うのだ。こちらが何を云っても聞く耳を持たん」

「いいじゃないか、独逸だろう。面白そうじゃないか」

 俺も外国に行ってみたい、と彼は随分と嬉しそうでした。行くのは彼ではなく私なのに、実に可笑しな話です。これは彼に云うと怒られることですが、彼は少しばかり外国かぶれなのです。彼の書斎に並んでいる本も、沙翁やら、ランボオやら外国のものばかりで、おかげで彼は英語も仏語も独語も読み書きができるのでした。

 正直に告白すると、私なんかよりも彼が独逸へ行ったほうが社会によっぽど有益なことと思います。実際、彼が病に侵されてさえなかったならば、私は先方に彼を推薦していたことでしょう。同じ大学に通っていたころから、彼は私よりもずっと優秀でした。

「今日はよく晴れているか」

「ああ」

 彼が障子の向こうを見透かすようにして聞くので、私はそう返事をしました。

 彼は元来部屋に籠るよりも外へ出て体を動かしたい性分でしたから、もしかしたら何か思うところがあったのかもしれません。私に障子を開けてくれと頼むので、私は寒いのが体に障りやしないかと尋ねました。もちろん、彼がそんなことを気にするようなやつではないとは分かっていました。けれども、聞いたのです。それは或いは私のエゴイズム的な一面であったかもしれません。普段どおりを装う中に、少しばかり最後の対面を意識して友人としての気遣いを忍ばせていたような気がしてならないのです。私はそういう自分を心底情けないと思い、今では憎みさえするのですが、そのときにはまだそのことには気づきませんでした。

 彼は案の定そんなことは関係ないと云いました。私は云われた通りに障子を開けました。縁側の先には彼の小さな庭があり、細い梅の木が一本、頼りなげに立っているのでした。

「おぉ、随分と梅の蕾が膨らんだ」

 そうして、彼はまた嬉しそうにしました。

「何度見てもひ弱な木だ。きちんと育てているのか」

「阿呆。木なんぞ勝手に育つものだ。わざわざ手を加えるやつがあるか。それに、あの梅は俺に似て芯が強いのだ」

「確かに似てはいるがな。ひょろっとしたところが」

 私が茶々を入れると、彼は思いついたように膝を打ちました。

「なるほど、それはいい。今度名乗るときには梅の字を使おう……そうだな、庭梅とかいてテイバイと読ませるのはどうだ」

 彼は雑誌の記事を書く仕事をしていました。書くのはもっぱら文芸欄で、彼は度々筆名を変えては面白がっていたのです。

「悪趣味だな」

「ふん、お前なんぞに俺の趣味が分かるものか。どうもお前の頭は鉄鉱かなにかで出来ているようだ。ちっとも粋とか風流とかいうものに通じん」

 と彼はまた私を堅物扱いします。確かに私は彼の夢中になる文学とやらにはとんと疎くはありますが。

「ほれ、今度新しくできた『アカツキ』という雑誌があるだろう。次の号に原稿を書くことになってるんだ。出来たらお前にも送ってやろう」

「それなら住む場所を教えねばならんな。しばし待て」

 私は鞄から手帳を取り出して、独逸での新居の住所を書き込むと、びりりと破いて彼に渡しました。

「あいかわらず癖字だなあ、お前は」

「嫌なら返せ。お前の原稿なぞいらん」

 揚げ足を取るように彼が云うものだから、私はむっとして紙を取り返そうとすると、彼は私の手をひょいとかわして紙をさっさと懐に仕舞い込みました。

「ふふん、さんざ送りつけてお前の独逸生活を邪魔してくれるさ」

「勝手にしろ」

 私は憮然として、帰る、と腰を上げました。彼は、おう帰れ帰れ、とひらひらと手を振りました。

 開いた障子に後ろ手をかけながら、私は小さく後ろを振り向きました。彼はもう私の持ってきた本に興味を移したようでした。

「ではな、清隆」

 数ある彼の名の中から、ひとつ本当の名を呼ぶと

「ああ、またな」

 と彼はまるで明日会うかのような返事をしました。



 独逸に手紙が送られてきたのは、日本でいう初夏の頃でした。

『徒然一句 第二回


 私ニハ一人、友人ガ居ル。ソレガマタ堅物デアル。女子ヨリモ酒ヨリモ仕事ヲ好ミ、文學ナドト云フ風流トハ無縁デアル。ソンナ男デアルカラ、会ツテモ喧嘩バカリニナル。ソンナ事ヲシテ居タラ、コイツハ異国ヘ行ツテシマツタ。マトモニ名前モ呼バズジマイデアツタ。友ト云フ者ハ不思議ナモノデ、居ル間ハナクトモ何トカナル気ガシテクルガ、居ラヌトナルト急ニ思ヒ出サルルノデアル。ト云フワケデ、モウ此処ニハ居ラヌ堅物ニ句ヲ詠ム。


 君去りて梅の花弁の泣きにけり


三浦庭梅』

 彼が死んだのは、手紙の届いた四日後でした。

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その日 神山はる @tayuta_hr

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