昨日の私は彼氏を信じた。

正直、電話をかける時の私の右手は震えていたと思う。私と彼はもう長い付き合いになるけれども、こんな事は1度も無かったからだ。私は油断していた。勘違いしていた。彼の全てを理解出来ていると思い込んでいた。


でも、それは違ったのだ。私が埋めなければならない彼の暗い闇は、まだ残っていた。私にとって一番の誤算は、彼のその優し過ぎる性格だったのだと思う。


私にとっての彼は、私のような薄汚れた女でも受け入れてくれるただ一人の男だった。でも彼にとっての私はどうだったのだろうか。


私の親切は、嫌がられていた?

私の恋心は、伝わらなかった?

私の信頼は、裏切られていた?


不安で不安で仕方がなかった。所詮人間は、人間の心の全てを見通すことは出来ない。他人の全てを理解することは出来ない。それはどうしようもなく掴めない理想であって、私がどれだけ彼のことを想ったとしても、彼の心が見えるようになる筈がない。


不安だった。


でも私は、どうしようもなく彼のことを信じたくて。こんな指に少しの傷がついただけで壊れる関係じゃないことを証明したくて。


彼もまた、私のことを想っていると断言したかったから。


だから私は、これまで積み重ねてきた平穏な日々を、私も、彼も、きっも裏切れやしない事を根拠にして。


昨日の私は、彼を信じた。


私の決心を形にするために、私は彼の残した「別れよう」と端的に綴られたメモを眺めながら、スマホに表示された彼の電話番号を押した。


発信しますか?


……はい。



~・~・~・~



プルルルルル


プルルルルル


プルルルルル


プルルルルル


プルルルルル


ガチャ


「……はい」

「……カナタ?」

「……そうだよ」


彼の声が耳に震える。久しぶりに聞けた彼の声に、何も考えること無く反射的に話し出す。


「えっと、カナタったら急にこの前帰っちゃったけど……その、私、謝りたくて」


なんて下手な謝り方だ。言ってから気付く。自分がこの話題を真っ先に持ってくるのは愚策に過ぎる。もっと柔らかい話題から入るべきだった。


思った通り、電話口の向こうから不機嫌そうな返答が返ってくる。


「謝りたい?何を?どう謝りたいんだ?お前は別に悪くないし、悪いのは僕だしさ。お前が謝る必要なんてねーよ」


めんどくさい人だ。

ここで殆どの人がそう考えるであろう思考回路を、彼は持っている。彼が私の家を出ていった理由は大体の予想こそついていたけれど、これでハッキリした。


つまり彼は、自分が嫌で嫌で堪らなくなっているのだ。

キッカケは多分、私が指を切ってしまった時だろう……些細な事だ。私にとっては。


私は出来るだけ彼の気持ちに近づくべく、探りをどんどん入れていく。


「……私ね、楽しかったの。カナタといる時間が、とっても楽しかったの。私だって自慢じゃないし嫌味でもないけど、色んな男性ひとを見てきた。無関係だったり、親密だったり、中には付き合った人も居たけど……。でも、私が一番安心できた男性ひとは、カナタだった」


「…………」


「だからね、カナタ。私は知りたいのよ。急に出ていっちゃったカナタの気持ちが知りたいの。私はカナタの隣にいる存在でありたいから。私だけが安心するのは嫌だから。カナタにとって安心出来る私でいたいから」


「…………」


私は息を整えた。探りを入れるとはいえ、それは単に心持ちだけの問題であって、感情はそうじゃない。探りを入れるという目的そのままに喋るのは警戒心を抱かせてしまうし、何より彼に嫌われる私になりたくなかった。だから本心をそのまま、正直に喋ったのだ。


……彼の為なんて言っておきながら、本当は自分の為じゃないか。


自己嫌悪が胸からせり上がるのを堪えて、私はカナタの返事を待った。


彼の息遣いがスピーカー越しに聞こえてくる。静かに、静かに。それはカナタが何かを深く考えている証左であり、そしてカナタが真剣に答えを探してくれている証明でもあった。


ややあって、彼が話し出す。


「僕は……カオリとの日々が幸せだったんだ」


一言告げ、息を継ぎ、また一言告げる。


「だからね、僕はカオリを刺した自分が、誰よりも許せないんだ」


ああ、やっぱりそうなんだね。気にしなくていいのに。


そう言い出したくなって、でも口を噤む。彼がまだ話し足りない様子で再び息を継いでいたからだ。


「僕はカオリとの平凡で、幸せで、綺麗な日常が好きだったんだ。僕は自分の人生の中で嫌な思いばかりしてきた。何度も他人を裏切り、傷つけ、罪を何度も犯した。だから平和な日常が僕にとっての幸福だったんだ」


「…そうなの」


彼に犯罪歴はないし、彼の評判は普通よりもいい方だ。つまり彼が言うところの『罪』は社会的なものじゃない。彼が彼自身に課している罪だ。


過度の自己嫌悪。それはきっと私と彼が惹かれ合う要因の一つだろう。


「……私はね、こんな傷一つでカナタと作った日々が壊れるなんて思ってないよ」


脆い貝殻を、浅瀬からそっとすくい上げるように。

彼の心を、私は静かにすくい上げる。


「カナタは理想主義なんだよ」


「……理想主義…」


「そう、理想主義。私はカナタが過去にどんな事をしたのか知らない。ひょっとしたらそれは他人に明かせないような、暗いものなのかもしれない。でもカナタが自分の人生に誇りを持っていない事は分かるの。だからね、カナタ。私はカナタの過去を気にしたりなんてしない」


彼の存在そのものをそっと包み込むようにして話していく。真夏の夜、不意に頬を撫でていく透明色の涼しい微風そよかぜのように。


「カナタ、私はカナタがどんなに自分を嫌っていたとしても、私はカナタを支えているわ。カナタが何かを見失った時、私がカナタの手を握ってあげる。だからカナタ、私にカナタの隣にいさせて」


なんて綺麗な台詞回しだろう。着飾った自分自身の言葉に、胸が切り刻まれそうだ。例え中身が本心だとしても、相手の心を掴むために演技するのは酷く嫌な気分にさせる。私はそんな自分を見たくないと思っている。今でも、そうだ。


だから、彼の次の言葉に胸を更にズタズタにされた。


「……無理、してるだろ。カオリ」


その言葉は、私が本心で演じている事を確信していた。

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何時かの自分は誰かを〇した。 鷹宮 センジ @Three_thousand_world

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