何時かの自分は誰かを〇した。
鷹宮 センジ
一昨日の僕は彼女を刺した。
洗剤、洗剤が足りない。
僕はどうしても落ちない汚れに焦りを覚えていた。普段の僕なら特別綺麗好きという訳でもないから、きっとカレーのシミくらいなら手洗いせずに洗濯機へ放り込んで、洗い終わっても汚れが付いていたら「仕方が無い」と諦めていた事だろう。勿論、今洗っている服が特別な物という事でもない。大雑把な僕でもワイシャツに中々取れない汚れを付けたりしない。それくらいの注意力はある。多分。
だから、僕は自分に対して言い訳するわけにもいかない状況に立たされている訳だ。水で洗っても落ちない。サイトに載っている方法でも落ちない。この汚れが、怖い。
彼女の血が付いたポロシャツが、怖い。
~・~・~・~
一昨日、僕は彼女の家にお邪魔していた。互いに大学生だから多少は自由に時間を扱えるとはいえ、その限られた時間は殆ど全て、資格取得の為の勉強や生活費を支えるためのアルバイトに費やされる。
よって僕と彼女は春休みに入る前から取り決めをしていた――つまり、互いにスケジュールを照らし合わせて、空いている時間帯は出来るだけ2人で居る。そういう取り決めだ。
2人でイチャイチャするという、非リアの連中が聞いたらそれこそ刺殺しに来るような案件だ。とは言え未成年には聞かせられないような事をするつもりは毛頭ない。あくまでも1人では足りない温もりを埋め合うような、そんな目的だった。
僕と彼女が通う大学生の春休みというのは、高校のそれに比べるとかなり長い。つまりはそれだけの長い時間、普通に1人だけで過ごすのは勿体無いというだけの事だ。中には実家に帰ったり友達連中と旅行に行く奴も居るが、やはり彼女が居る僕みたいな奴は、こうして春休みを過ごすことだろう。
閑話休題。
ともかく僕と彼女は、いわば半同棲のような状態で春休みを満喫していた。近場に出かけたり、互いの用事で家を空けたりすることもあったけど基本的に家に居た。初めの3日間は観たい映画をレンタルショップで借りまくって、ポップコーン片手にプチ映画館を開催した。次の2日間は近所の観光施設を巡り、その次の3日間は家を掃除したり部屋の模様替えを試みたりもした――2人ともパズル系の作業が苦手だから、途中で断念して元に戻したけど。
そして、件の事件が一昨日にあたる。僕と彼女はその日、料理を練習する事に決めていた。仮にこのまま仮同居を続けるとすれば、バイトの時間が関係して一方だけが家に居る状況が多くなる。という事は、家にいる間に料理を準備して相手を迎えるのが最高だろうという考えだ。
「カナタも私も、料理はそれ程上手じゃないからね。今日から暫くは料理の練習しようよ」
「分かった」
僕が出来る料理は、いかにも男の一人暮らし専用という感じの大味な一皿で出来るようなものだった。そして彼女の料理は見た目だけ綺麗で味は微妙といった風だった。
僕と彼女は、早速キッチンに立って料理の練習を始めた。スマホで料理の動画を見て、2人で料理をどう進めるか話し合った。包丁の握り方、具材の切り方、調味料を入れるタイミング。それらを細かく見ていった。
「つまり、カレー粉はこのタイミングで入れるのがベストな訳でありますよカナタ博士」
「ほほう、要するに料理を台無しにしたい訳ですなカオリ助手」
「これは失礼しましたカナタ博士!」
馬鹿みたいな会話だけど、こういう意味の無い会話こそ暖かい事を、僕も彼女も知っていた。何気ない幸せは何気ない日常のどこかに埋もれていて、それを分かち合える誰かが居るからこそ、掘り起こして大事にしていくことが出来る。こっちは僕の自論だけど、証明はそれまでの彼女と過ごした日々がしてくれていた。
これから起きる事件が、その反証となったけれども。
僕と彼女は特別なピラフを作ることに決めていた。カレー風味ではあるけれど、何処か懐かしい味で。一見して難しそうな料理だけれども、実は初心者にも優しくて作りやすい。そんなピラフだ。
さしあたり僕と彼女は、まず食材を切るところから始めていた。初っ端から生のタマネギにカレー粉をまぶしても意味は無い。切り刻んで、混ぜ合わせて、相応しいタイミングで入れないと後々の味に影響してくるのだ。
「タマネギって本当に泣いちゃうよね……目が痛い」
「分かる。実家にいた頃は必ず水泳用のゴーグル付けてた」
「いいなー、僕も持ってくればよかったよ」
「インドア派の君がゴーグルなんて持ってるの?」
クスクスと笑う彼女の姿が、鮮烈に瞳の奥から脳裏へと転写されていく。彼女と自分だけの世界が、今、ここにある。その感覚が一気に押し寄せてきた。この一瞬、僕は状況に対して酔っていたと言えるかも知れない。その感覚は初めてビールを一本だけ飲んだ後の高揚に似ていた。
そして、酔った人というのは時に致命的なミスを犯す。
「あっ」
そう呟いたのは僕か、彼女か、或いは両方か。若しくは空耳の類だったかも知れない。僕と彼女の2人で握っていた包丁の切っ先が、彼女の人差し指を、ほんの一部、裂いていた。
少し考えれば分かるだろうけど、この時の彼女は包丁の持ち方を間違えていた。彼女もその時気が緩んでいて、たまたまいつもの危ない持ち方にしていたのだろう。しかし、その包丁を握る彼女の手を、上から包んで押したのは紛れもなく僕だ。僕以外の誰でもなく、ただ僕だけだった。
紅い血が、刻みかけのタマネギにポツポツと染みていく。静かに、一滴ずつ、傷口から朱色の珠が生まれていく。一体どれくらいの時間が経ったのか分からないけど、先に動いたのは彼女だった。
「あ、指切っちゃったね」
彼女は僕の右手を自分の右手から退けると、蛇口から水を出して傷口をサッと洗った。それから台所の隅に置いてあった救急箱から絆創膏を取り出し、紙を剥がしてシワのないように綺麗に左手を使って巻いた。そしてその間、僕は何もせずに彼女の行動を見つめていた。
この時の僕は、ただ突っ立って何もしなかった。僕のせいで傷つけてしまったのに、彼女の手助けを何もしなかった。絆創膏を取り出すくらいなら、それを巻いてあげるくらいなら、僕にだって出来たはずなのに。
僕の様子に気づいた彼女は、「どうしたの?」と問いかけてきた。その問いかけには、暗に僕が何も手伝わない事を彼女が知っている事実が込められていた。
「何でもないよ」
僕は笑う。嘘をついて面の皮を貼り付けて笑う。彼女を心配させない為に笑う。心の傷を隠して、自分に対して失望したであろう彼女を騙して笑う。それは同時に自分に対する蔑みの嗤いでもあって、要するに僕はこの瞬間、彼女に対して後悔していた。
何でもない風を装って、料理を2人で完成させて、美味しそうに食べさせあって、仲良く肩を並べて食器を片付け、そして2人で眠りに付いた。
まだ2人して同じ部屋で寝る勇気のない僕らは、別々の部屋で寝る。僕は彼女のいないゲストルームで、1人天井を見上げ考え込んでいた。僕は罪を犯した。重大な罪だ。彼女を僕は包丁で刺してしまった。軽傷とはいえ、彼女は僕に対してかなり失望しているだろう。表情には出なかった。身振り素振りにも現れなかった。でも彼女はきっと僕を憐れに思っているだろう。
ふと、自分の着ているポロシャツの袖口を見る。そこには何かがシミになっていた。暗い部屋で電気をつけて見ると、そこには深紅の乾いた血が染み付いていた。
「そっか……」
そうか、そうだよな。結局の所、どれだけ考えた所で彼女を刺したのは自分だという事実に変わりは無いものな。
僕はこの時、彼女と別れることを決意した。
~・~・~・~
「……………………………落ちない」
彼女に置き手紙を残し、荷物を纏めて自宅に帰った次の日はシャツを洗っていた。彼女を傷つけた証拠の1つを洗い落とす事にまた大きな罪悪感があったけど、それでも落とさないことには気が休まらなかった。一方的に別れを押し付け、家に逃げ帰った自分はさぞかし滑稽で醜いだろう。これ以上自分が醜くなってしまう前に、全てを忘れ去りたかった。
……自分は最低だ。他人から見れば彼女を包丁で傷付けておいて、それでいて彼女を助けることもなく、勝手に別れる事にして言葉を交わすことも無く去っていった。これ程までに悪辣な彼氏も珍しい。
しかし、僕と彼女の間には「平穏な日々の中に幸せがある」という共通認識があった。つまりそれは、平和な日常を崩してしまう人間が幸せを求める資格はない。という事でもある。僕が彼女を刺したのは事故にも似た偶然だった。しかし、彼女を刺したのは僕に他ならず彼女の日常を崩したのもまた僕に他ならない。一緒に幸せを求めていく上で、相手の幸せを不幸に塗り替える相手なんて相応しくない。全く相応しくない。
僕の理想である彼女との生活は、こんな調子では将来的に維持出来ず崩壊するだろう。それが堪らなく悔しくて、認めたくなくて、受け入れられずに逃げ出してしまった。
~・~・~・~
僕は血のついたポロシャツを取り敢えず干していた。このまま諦めて捨てるか、それとも置いておくのか。悩みながらリビングのテーブルにつきミカンの皮を剥いでいた。当然の事ながら、自分以外の誰かは何処にも見当たらない。掃除機をかける音も、玄関を開ける気配も、少し拙い料理の匂いも、何も無い。
寂しい。
剥き終わったミカンのひと房を口に含んだ所で、突然壁際で充電していたケータイが震え始めた。
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