桜花に座す

今年も、春がやってきた。

山を、里を彩る薄紅色は忘れ得ぬ秋を喚び起こす。


* * * * *


鳴於おお鳴於おお、くえびこ様ヤ、御痛おいたワシヤ」


視界の其処にだけぽっかりといびつな穴が空いたような黒く大きいそれは、その中心にいる車椅子の少年を包むように巨躯きょくを曲げている。

強い風の音のような、うなるような異形の声は確かに憐憫れんびんを帯びていた。


「怖がらなくても大丈夫だよ、実君」


黒いそれに埋もれるようにしながら、車椅子の少年、早乙女さおとめみのるはいつものように笑った。


* * * * *


早乙女さおとめみのるは、ただ生まれつき足が不自由なだけの、それ以外は至って普通な線の細い少年だった。

否、訂正しよう。

彼は、生まれつき足が不自由な事とその聡明さをのぞけば、つまりは足以外の肉体的には線が細いだけの、至って普通の少年だった。

彼に言わせれば、普通なら運動についやす時間を読書についやしただけの結果だと言うが、小学校の四年生にして大人の読むような本を読み漁るなど、今にして思えば聡明以外の何者でもなかった。

そんなみのると字こそ違えど、読みは同じ名前を持った、ただただ普通の少年だった田ノ中たのなかみのるは、よく比較されては、「みのる君を見習いなさい」と口々に言われていた。

だからこそ、みのるみのるに対して嫉妬というには余りに幼くつたない攻撃的な感情を抱いていたし、それがより一層小言に拍車をかけるなぞとは露も思わず、その感情に則して行動していた。

その行動の一環として、車椅子のみのるを山に放置したのは、事の起きる一週間前の事だった。

山に放置といっても、小学生のみのるが車椅子を山中に置き去りにできるほどの体力があるわけもなく、まだふもとと言える場所の雑木林の中に少し入った辺りに放置したのである。勿論、みのるしばらく謹慎を言い渡される程に酷く怒られたが、その程度で済んだのは、誰あろうみのるの嘆願によるものだった。

そうして、その謹慎が明けたその日、みのるみのるの元にやって来て、「山へ連れて行ってくれ」と、目を輝かせ、有無を言わさぬ気迫を持って言ったのだった。


* * * * *


そうしてみのるを連れてやって来た、件の雑木林で、その黒い何かは突然に現れた。

木漏こもの光を吸収し、反射する事はない、黒いそれは、宇宙の遥かにあるというブラックホールのようにも思えた。

しかし、それよりも何よりも、みのるの中に生まれたのは途轍とてつもない恐怖だった。

その恐怖の理由は、当時はまったくといって解らなかった。かく、怖いとしか思わなかったのだ。

今ならば解る。

それは存在を根本から否定された恐怖だ。

あの黒い何かが現れた瞬間、あの場はみのるの存在を拒む場になったのだ。

よりていに言うならば、あの何かが現れた瞬間、此処にいてはいけないと、此処に自分はあるはずがないのだと、そう本能が告げたのだ。

身体は正直に、その脅威から逃れようと動いたが、恐怖はそれをわらうようにみのるの足の力を奪っていき、尻餅しりもちをつかせた。腰が抜けたのである。

そうして、必死に逃げようとするみのるに、みのるは笑いながら、黒いそれに埋もれるようにしながら、


「怖がらなくても大丈夫だよ、みのる君」


と、言い放ったのだ。

その笑顔には一切のくもりもなく、至極当たり前の笑顔だった。

そのみのるを見ていると、みのるがされるがままにしている黒いそれに、細くて白い、三日月のような裂け目が、一つ出来た。かと思うと、その裂け目はあっという間にアーモンド型に開いた。

その黒い中に現れた白い空間は、ぬらりと光を反射しながら、ぐるりとその中央に真っ黒な丸を出現させた。

見ている、と。目だ、と。

そう、実は感じた。

虹彩の存在しない、かすかな光沢のある深さなどはかり得ない程に深いその闇から、確かに視線を感じたのだ。

だから、視線を感じたから、それはきっと目なのだと、そう思ったのだ。

そして、その視線は実体があるかの如く、蝶の標本に刺さったピンのように、みのるをそこに縫い止めた。


「くえびこ様ヨ、あれハ喰ロウテ良イノカヤ」

「それは駄目」


何故、みのるは平然と、この黒い何かとしゃべっているのだろう。


「ダガ、あれガくえびこ様ヲ泣カセタノダロ?」

「この間はそうだったけど、彼のお蔭で僕は君達に会えたのだし、今日だって彼に連れて来てもらったんだから」


黒い目がみのるから外れ、きゅっとみのるに向く。

しかし、みのるとは違い、みのるはその視線を受けても、少しも怯えた様子はなかった。


「だから、彼は帰してあげないと」


その言い方は、如何いかに当時は成績がよくないみのるであっても、引っ掛かるものがあった。


「お、おい、みのる、ちょっと待てよ。お前は、帰ら、ない、つもり、かよ……」


最初こそ、怯えながらも、みのるの口からはそれなりの勢いで声が出た。

が、あの黒い何かの目が、ぎゅるりと此方を向くと、胸が締め上げられるような苦しさに、ようやく後半をしぼり出した。

あの目はいやだ。

がんがんと早鐘はやがねを打つ鼓動が頭に響く。冷や汗が止まらない。力が抜けて立てない。


みのる君」


みのるに声をかけられて、実は恐怖のふちから引き戻される。みのるは、少し困ったような顔をしていた。


みのる君は、迷子になってもう帰れないかもって思ってたところに迎えが来たら、喜んでついてくよね」


急なみのるの話の内容に、一瞬納得しかかった脳が急ブレーキを踏む。

だって、それは、おかしいじゃないか。


「何、言ってんだよ……」


みのるは、この得体の知れない、恐怖しか生まない、みのるの名すら呼ばない化け物が迎えだと言うのか。


「何って、簡単な話だよ」


みのるの調子は変わらない。常と違いがあるならば、ほんの少しだけ興奮している程度だ。


「僕は、いるべき場所を間違えた」


みのるの脳内は一度、水を打ったように静まり返ったが、みのるの言葉を理解した途端、再びの混乱に襲われた。


「いるべき場所って」

「別に足がこうだから、じゃないよ。昔から違和感があったんだ。きっと、今この場でみのる君が抱えてる違和感と同じ種類の違和感」


みのるは車椅子の上から真っ直ぐにみのるを見つめ、かすかに微笑ほほえみながら滔々とうとうと語る。


「疎外感と言い換えられるような、此処にいるべきではない、此の場は自分の根本を否定している、やんわりとけれど確かに拒絶されている、世界と自分が噛み合わない感覚。我思う故に我在りに従うなら、存在がないわけじゃない。存在はあるのに、世界が受け入れようとしていない。拒む世界に無理矢理に割り込んだからこその、どうやっても噛み合いそうにない、そんな感覚」


それは、みのるが理解しようとしなかろうと関係ないと言わんばかりの、みのるの持つ聡明という名の特異性でがれた言葉。


「わ、わけわかんねえよ!」


みのるには、その言葉の半分も理解できなかった。唯一理解したのは、今自分がさいなまれているこの強烈な不安と恐怖を伴う感覚が、常にみのるを悩ませていたという事だけだった。


「いつかわかるよ」


腰を抜かしたまま叫んだ実に、車椅子上の幼い賢者は静かに笑いながら答える。


「かけ違えたボタンに気付いて、それを正す機会もあって、正さない道理はない。この間、君が此処に連れてきてくれたからこそ、だ」


隣の黒いそれを見上げて、みのるはその黒い何かに手を伸ばす。ブラックホールのような黒いそれの表面は、意外にも犬や猫の毛皮と同じように、ふかりと柔らかく稔の手を受け止めた。


「この季節に、みのる君に連れてきてもらって、この子と遭って、この子がクエビコと呼び掛けてくれて、僕は初めて僕の本質がわかった」


何処にいるべきかわかった、とみのるは黒いそれをふかふかと撫でる。その手つきは、犬猫を撫でる時と何ら変わりはない。


「この役に立たない足も、この親にすら気味悪がられる知識も、全て本質によるものだってわかった。同時に、その世界は僕を拒まなかった。ただ、向こうに行ける前に皆が僕を見つけたから、僕は戻るしかなかった」


それからみのるは視線を実に向けた。

今思えば、その視線は既に変質していて、黒い何かのそれのような研がれた鋭さはなけれど、みのるをそこに縫い付けた。


「大人は厄介やっかいなんだ。もう組み込まれてしまった彼らは、大体が此処を此処として見てくれない。だから、まだ組み込まれる前の、君に助けてもらわなきゃいけなかった」


ありがとう、と先程からずっと変わらない、貼り付いたようなのに何故か自然な笑みをたたえてみのるは感謝を告げてくる。

みのるに理解できたのは、みのるが目の前から全く別のところへ消えようとしているという事。その理由が、此処にいるべきではないからという事。


「ま、待てよ、お前、おばさんとか、どうすんだよ」


だが、みのるには、みのるを置き去りにして怒られた事は記憶に新しい。


「……大丈夫、みのる君が心配する必要はないから。まだ僕は組み込まれる前だし、大丈夫」


ああ、でも、とみのるは小さく首を傾げ、何か考えるように眼を細める。


「……うん、そうか、どうにかならない、かな?」


みのるが呟いた次の瞬間、今まで大人しくしていた黒い何かの表面に、びっしりと無数の白い三日月が現れ、そしてすでに開いていたその一つと同じようにアーモンド型に開き、一斉にぐるりと底無しの黒い視線が、みのるに注がれた。


「っ……!」


一つだけでも強い恐怖を生んだその視線。それが、これ程の束にもなれば、恐怖などという言葉すら生温い。

束となった視線は悲鳴すら出ない程に実の胸と喉を締め上げ、不躾ぶしつけに皮膚の下に潜り込み、神経をちくちくとかき混ぜる。

一つだけであれば、身をその場に縫い付けるだけだった視線は、束になった今、確かな痛覚への刺激を伴い、実を苛む。鳥肌も、にじしたたる汗も、留まるところを知らない。頭が割れるほどの痛みと、内臓ごとえぐり出されるような吐き気も加わり、気が狂いそうな気さえした。


「これハ此ノまま、捨テ置イテモ良カロ、くえびこ様ヤ」


そう言うと、無数の眼は一斉に黒く閉ざされ、みのるからそれに由来する感覚が全て去る。


「これハくえびこ様ヲ、幾度いくどリズニ泣カセテル小物ジャナイカ」


黒い何かの言葉を聞いたみのるは、仕方がないと言うように溜め息をついた。


「僕は、今回の事で全部流したかったのだけど……まあ、でも、些細ささいと言えば些細ささいかな。それでいいよね?」


みのるに同意を求められた黒い何かは、何も口にしなかったが、そのまとった空気で肯定をかもし出していた。


「ごめんね、みのる君」


みのるが謝罪を口にする。その表情は困ったような微笑である。

だが、実はそう告げた声に何の感情も見出だせなかった。

みのるの声が無機質な声という訳ではなく、その音を正しく拾う事は出来るが、その音声と化した言葉の表面以外を探る事ができなかったのだ。

それこそ、ボタンをかけ違えたように、わずかながら確かに噛み合わない。

徐々じょじょに、けれど確実に、この短時間で、みのるは異質に侵蝕されている。

否、違う。あの黒い何かが現れてから、全てが、世界が変質したのだ。

みのるは存在の拒絶を感じ、一方でみのるはそれに適応するかのように変質している。そして、変質する前の世界で、みのるが存在の拒絶を感じていたとするならば。

当時、この場で異質であったのはみのる自身だと、今思い起こせばこそ論理的に筋道を立てて理解できる。

しかし、当時のみのるはそれを全て、直感的に一瞬で理解した。

理解してしまった。


「僕はあまり残したくはないんだけど、今までの罰だと思って欲しいかな」


理解した途端、目の前の、自分と同じ年しか生きていないはずの少年が、つい先日まで嫉妬と呼ぶには幼すぎる衝動の矛先ほこさきにしていたはずの、弱者とあなどっていたはずの少年が、異質に見えた。

それが、仮初めに人間の皮を被っただけの、人間とは異なるものだと、人間の枠に収まらないものだと、その思考や感情さえも根本的に人間とは異質な存在だと、認識してしまった。

視界が大きく揺れる。くらくらと眩暈めまいを感じる。にじみ続ける冷や汗が玉となり、しずくとなって背中を駆け下りる。

はあ、はあと繰り返される自身の浅い呼吸音が、嫌に耳につく。

張り詰めた感情に支配された身体は強張こわばり、言うことをきかない。

口許くちもとに人間の笑みを張り付けたまま、人間の笑みの形に細く弧を描いていたみのるの目が開いた。

かすかに赤いひびの走った白磁に浮かぶ漆黒の円が、みのるを見つめた。


* * * * *

そこから先を、みのるはよく覚えていない。

その次の記憶は、三日後に目を覚まして一番に眼に入った、病院の真っ白な天井だった。

みのるは、例の雑木林の入り口付近に倒れているところを発見されたそうだ。

見つけたのは実よりも幼い、小学二年生の集団で、彼らが言うには、遊んでいるところに唐突に現れたたぬきになんとはなしについていったら、みのるが倒れていたらしい。

すぐに病院に運ばれ、直後に異変はなかったものの、その夜から目が覚めるまで、みのるは原因不明の高熱にうなされていたそうだ。

全てが終わってからの記憶しかないみのるにとって、それらは伝聞でしかないし、大して重要とも思えなかった。

起きてすぐにわかったのは、早乙女さおとめみのるという存在がなかったことにされていた事だった。

目を覚ましたみのるは、真っ先にみのるがどうなったかを問うた。しかし、大人達は何を言っているのかと笑った後、それでも自分達に問いを投げかける実に、困惑の表情を見せた。

そして、皆一様に、本当に何を言っているの、と逆にみのるを問いただした。

その様子を見て、すぐにみのるみのるの事を口に出さない方が良い、ということを察した。

実際、みのるの事を問いただした翌日に、実は精密検査を受けさせられた。しかし、異常は一切見つからず、みのるはすぐに退院した。

そして、現実を見た。

学校にみのるの席はなくなり、誰一人としてみのるについて触れず、連絡網からも早乙女家さおとめけの電話番号は消えていた。

神隠しという言葉など生温なまぬるい、存在の消去だった。

現実世界は、みのるが拒絶されていると感じていた通りに、みのるという存在の痕跡を、一切残らず拒絶し、消し去っていた。

変化は、それだけに留まらなかった。

ただ一人、みのるの事を認識した人間となったみのるは、その後、あのみのるの語った言葉の内容が気になり、それを調べるために、本を読み、思索にふけるようになった。

両親は、そんないきなりの息子の変化に戸惑いを隠せなかったらしい。

あちらこちらの心療内科、精神科、神経科と順当に連れてかれたが、その内に判明したのは、医学上特に異常はない、という事だけだった。

かつてはみのる君を見習いなさいと口を酸っぱくしていた母親がそんなものだから、実からしてみれば、それはだいぶ滑稽にも見えた。

五年生に級が上がると、母親はとうとう寺社仏閣、霊能力者の類にまで手を広げた。

みのるとしても、より正解に近いのは病院よりも此方だと思った。が、大体はみのるを見るなり、必要ないの一点張りで、まともなおはらいのたぐいみのるは受けなかった。逆に実におはらいの必要があると言ったところは、途端に巨額のおはらい料やおはらいグッズなど、如何いかにもな似非えせの香りをかもし出した。

流石さすがに、そのたぐいは母親も躊躇ちゅうちょしたし、みのるも母親を止めるのに尽力した。

そういったおはら行脚あんぎゃは、母親が親友から紹介されたという信頼できる霊能力者に、おはらいの必要はないとさとされた事でようやく終わった。

いわく、みのるには神の印がついており、下手におはらいしようものなら、その神から敵と認識されうるため、真っ当な霊能力者であればおはらいはしないし、性格が変わったのはその神からの影響が原因だろうが、悪神でもないから大事にはならないため、おはらいの必要はない。

その霊能力者は、それまで会った本物とおぼしき霊能力者と同様に、どこにでもいそうという言葉の合う女子大生だったが、しっかりと説明をしてくれた事、何もしていないからと謝礼の辞退をした事が好印象で、母親の中では信用するに足りたらしい。

それ以降、みのるは母親に連れ回される休日から解放されたので、彼女には感謝しかない。

一点、気になるところがあるとすれば、彼女の言った〈神〉についてである。

しかし、それもみのるの言葉を反芻はんすうしながら、いろいろと調べていく内にその答えとおぼしきものに行き当たった。

あの黒い何かがみのるを呼ぶ時につかっていた〈クエビコ〉という呼称。

おそらく、それは古事記に登場する久延毘古くえびこを指している。

事は大国主命おおくにぬしのみこと須佐之男命すさのおのみことの娘、須勢理毘売すせりびめを根の国から連れ帰った後の事。

大国主命おおくにぬしのみことの前に、の羽で作られた服をまとった小さな神が現れた。

大国主命おおくにぬしのみことは様々なものを呼び、この小さな神を知らないかと問うた。すると、多爾具久たにぐくが、久延毘古くえびこならば知っているだろうと答えた。

大国主命おおくにぬしのみこと久延毘古くえびこの許に行って、この小さな神を知っているかと問うと、久延毘古くえびこは、この小さな神は神産霊神かみむすひのかみの子の少名毘古那すくなびこなであると答えた。

この久延毘古くえびこの名は崩彦くえびこに通じ、そほど、またはそほづ、即ち案山子かかしの事である。彼は不具ふぐの身であり、自由に動けはしないが、天下のことごとくを知るものである。

みのるは、足も知識も自身の本質に由来するものだったと言っていた。

つまり、みのるは本質的に久延毘古くえびこであり、そうであるが故に、不自由な足を持ちながら、天下にあまねくある知識を持つものだったからだろう。

また、案山子かかしは田を鳥獣から守ると同時に、毎年春に山からやってくる田の神の依代よりしろであるとも言う。

ならば、久延毘古くえびこもまた神であり、それにあたいする本質を持つみのるもまた神であると考えられる。

だからきっと、みのるについている神の印とは、みのるがつけたものなのだろう。

その結論が出ても、みのるは調べないではいられず、そういった民俗学周りの知識をどんどんとたくわえていった。


例えば、日本では元来、死した者は山へ行き、それ以前に死んだ者達と共に、子孫を見守る祖霊が信仰対象だったのではないかとか。

例えば、山は死者の世界であるとか。

例えば、田の神は毎年春に、異界である山から人界である里に下りてきて、秋には山に帰るとか。

例えば、何かしらの不具ふぐを抱えた者は、神に通ずるとされたとか。


そうして数多の知識に触れる内に、みのるはある事に気付いた。

かつてのあの記憶で、最後に自分を支配した感情は、そうした知識の中に現れる超自然への感情と同じだった。

恐れではなく、おそれだった。

未知への恐怖ではなく、人間の認識する自然を超越した存在に対しての畏怖だった。

みのるの本質が久延毘古くえびこであるとすれば、神におそれを抱くのは当然であり、同時にあの時のみのるの異質さとは、神性とも言い換えられるものだったと言えよう。

そこまで調べてなお、みのるは調べずにはいられなかった。

正確には、知識を得られずにはいられなかった。

その渇望とも言える知識欲をおさえるすべみのるは知らなかったし、そしておそらくはこれこそがみのるの言っていた罰なのかもしれないと、そう思って受け入れた。

そうして大学に入る頃になれば、あの日までのみのるのやんちゃで活発な性質など、影も形も残っておらず、本が恋人と揶揄やゆされる程に、在りし日のみのるに近い気質となっていた。

そして、如何にその知識が褒められようとも、水をいくら吸っても乾いたままの不毛の地のように、知識への渇望は尽きる事がなかった。


そうしている内に、みのるは一つの知識を得た。

窓の外の銀杏いちょうの葉が黄色く色づきだした頃だ。

それは、一部の民俗学的見地から、サクラの源義は神霊的なものを指す〈サ〉に、座席を意味する〈クラ〉であるとする説。

この〈サ〉は皐月さつきの〈サ〉、早苗さなえの〈サ〉も同じと言われ、特に田の神を指すとも言う。

つまり、サクラとは「田の神の座席」たる花、という説だ。

その文章を読んだ瞬間、耳元で「またね」と、あの日以来聞いていなかった、今や自分の記憶にしかない幼い少年の声がした気がした。

く程の実りへの感謝と歓喜に満ちる秋は、山からやって来た田の神が山へと帰る季節。

そのタイミングで、そう聞こえたという事は、毎年春から秋にかけて、みのるかたわらにはみのるがいるのではないかと、そう確信したのだ。


* * * * *

 

そうして、までの実りの秋が終わり、ふるい立てた活力で冬を過ぎ、新たなる年を迎え、再び花芽はなめ葉芽はめが張る春が巡る。

そして厚手のコートが不要になり、山を、町を薄紅が彩り出すと、みのるはかつての秋を思い出し、そして、山から下りて来たみのもたらす田の神の存在を確かに感じるのだ。

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たんぺん 板久咲絢芽 @itksk_ayame

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