桜花に座す
今年も、春がやってきた。
山を、里を彩る薄紅色は忘れ得ぬ秋を喚び起こす。
* * * * *
「
視界の其処にだけぽっかりと
強い風の音のような、
「怖がらなくても大丈夫だよ、実君」
黒いそれに埋もれるようにしながら、車椅子の少年、
* * * * *
否、訂正しよう。
彼は、生まれつき足が不自由な事とその聡明さを
彼に言わせれば、普通なら運動に
そんな
だからこそ、
その行動の一環として、車椅子の
山に放置といっても、小学生の
そうして、その謹慎が明けたその日、
* * * * *
そうして
しかし、それよりも何よりも、
その恐怖の理由は、当時はまったくといって解らなかった。
今ならば解る。
それは存在を根本から否定された恐怖だ。
あの黒い何かが現れた瞬間、あの場は
より
身体は正直に、その脅威から逃れようと動いたが、恐怖はそれを
そうして、必死に逃げようとする
「怖がらなくても大丈夫だよ、
と、言い放ったのだ。
その笑顔には一切の
その
その黒い中に現れた白い空間は、ぬらりと光を反射しながら、ぐるりとその中央に真っ黒な丸を出現させた。
見ている、と。目だ、と。
そう、実は感じた。
虹彩の存在しない、
だから、視線を感じたから、それはきっと目なのだと、そう思ったのだ。
そして、その視線は実体があるかの如く、蝶の標本に刺さったピンのように、
「くえびこ様ヨ、あれハ喰ロウテ良イノカヤ」
「それは駄目」
何故、
「ダガ、あれガくえびこ様ヲ泣カセタノダロ?」
「この間はそうだったけど、彼のお蔭で僕は君達に会えたのだし、今日だって彼に連れて来てもらったんだから」
黒い目が
しかし、
「だから、彼は帰してあげないと」
その言い方は、
彼は。
「お、おい、
最初こそ、怯えながらも、
が、あの黒い何かの目が、ぎゅるりと此方を向くと、胸が締め上げられるような苦しさに、
あの目は
がんがんと
「
「
急な
だって、それは、おかしいじゃないか。
「何、言ってんだよ……」
「何って、簡単な話だよ」
「僕は、いるべき場所を間違えた」
「いるべき場所って」
「別に足がこうだから、じゃないよ。昔から違和感があったんだ。きっと、今この場で
「疎外感と言い換えられるような、此処にいるべきではない、此の場は自分の根本を否定している、やんわりとけれど確かに拒絶されている、世界と自分が噛み合わない感覚。我思う故に我在りに従うなら、存在がないわけじゃない。存在はあるのに、世界が受け入れようとしていない。拒む世界に無理矢理に割り込んだからこその、どうやっても噛み合いそうにない、そんな感覚」
それは、
「わ、わけわかんねえよ!」
「いつかわかるよ」
腰を抜かしたまま叫んだ実に、車椅子上の幼い賢者は静かに笑いながら答える。
「かけ違えたボタンに気付いて、それを正す機会もあって、正さない道理はない。この間、君が此処に連れてきてくれたからこそ、だ」
隣の黒いそれを見上げて、
「この季節に、
何処にいるべきかわかった、と
「この役に立たない足も、この親にすら気味悪がられる知識も、全て本質によるものだってわかった。同時に、その世界は僕を拒まなかった。ただ、向こうに行ける前に皆が僕を見つけたから、僕は戻るしかなかった」
それから
今思えば、その視線は既に変質していて、黒い何かのそれのような研がれた鋭さはなけれど、
「大人は
ありがとう、と先程からずっと変わらない、貼り付いたようなのに何故か自然な笑みを
「ま、待てよ、お前、おばさんとか、どうすんだよ」
だが、
「……大丈夫、
ああ、でも、と
「……うん、そうか、どうにかならない、かな?」
「っ……!」
一つだけでも強い恐怖を生んだその視線。それが、これ程の束にもなれば、恐怖などという言葉すら生温い。
束となった視線は悲鳴すら出ない程に実の胸と喉を締め上げ、
一つだけであれば、身をその場に縫い付けるだけだった視線は、束になった今、確かな痛覚への刺激を伴い、実を苛む。鳥肌も、
「これハ此ノ
そう言うと、無数の眼は一斉に黒く閉ざされ、
「これハくえびこ様ヲ、
黒い何かの言葉を聞いた
「僕は、今回の事で全部流したかったのだけど……まあ、でも、
「ごめんね、
だが、実はそう告げた声に何の感情も見出だせなかった。
それこそ、ボタンをかけ違えたように、
否、違う。あの黒い何かが現れてから、全てが、世界が変質したのだ。
当時、この場で異質であったのは
しかし、当時の
理解してしまった。
「僕はあまり残したくはないんだけど、今までの罰だと思って欲しいかな」
理解した途端、目の前の、自分と同じ年しか生きていないはずの少年が、つい先日まで嫉妬と呼ぶには幼すぎる衝動の
それが、仮初めに人間の皮を被っただけの、人間とは異なるものだと、人間の枠に収まらないものだと、その思考や感情さえも根本的に人間とは異質な存在だと、認識してしまった。
視界が大きく揺れる。くらくらと
はあ、はあと繰り返される自身の浅い呼吸音が、嫌に耳につく。
張り詰めた感情に支配された身体は
* * * * *
そこから先を、
その次の記憶は、三日後に目を覚まして一番に眼に入った、病院の真っ白な天井だった。
見つけたのは実よりも幼い、小学二年生の集団で、彼らが言うには、遊んでいるところに唐突に現れた
すぐに病院に運ばれ、直後に異変はなかったものの、その夜から目が覚めるまで、
全てが終わってからの記憶しかない
起きてすぐにわかったのは、
目を覚ました
そして、皆一様に、本当に何を言っているの、と逆に
その様子を見て、すぐに
実際、
そして、現実を見た。
学校に
神隠しという言葉など
現実世界は、
変化は、それだけに留まらなかった。
両親は、そんないきなりの息子の変化に戸惑いを隠せなかったらしい。
あちらこちらの心療内科、精神科、神経科と順当に連れてかれたが、その内に判明したのは、医学上特に異常はない、という事だけだった。
五年生に級が上がると、母親はとうとう寺社仏閣、霊能力者の類にまで手を広げた。
そういったお
その霊能力者は、それまで会った本物とおぼしき霊能力者と同様に、どこにでもいそうという言葉の合う女子大生だったが、しっかりと説明をしてくれた事、何もしていないからと謝礼の辞退をした事が好印象で、母親の中では信用するに足りたらしい。
それ以降、
一点、気になるところがあるとすれば、彼女の言った〈神〉についてである。
しかし、それも
あの黒い何かが
おそらく、それは古事記に登場する
事は
この
つまり、
また、
ならば、
だからきっと、
その結論が出ても、
例えば、日本では元来、死した者は山へ行き、それ以前に死んだ者達と共に、子孫を見守る祖霊が信仰対象だったのではないかとか。
例えば、山は死者の世界であるとか。
例えば、田の神は毎年春に、異界である山から人界である里に下りてきて、秋には山に帰るとか。
例えば、何かしらの
そうして数多の知識に触れる内に、
かつてのあの記憶で、最後に自分を支配した感情は、そうした知識の中に現れる超自然への感情と同じだった。
恐れではなく、
未知への恐怖ではなく、人間の認識する自然を超越した存在に対しての畏怖だった。
そこまで調べてなお、
正確には、知識を得られずにはいられなかった。
その渇望とも言える知識欲を
そうして大学に入る頃になれば、あの日までの
そして、如何にその知識が褒められようとも、水を
そうしている内に、
窓の外の
それは、一部の民俗学的見地から、サクラの源義は神霊的なものを指す〈サ〉に、座席を意味する〈クラ〉であるとする説。
この〈サ〉は
つまり、サクラとは「田の神の座席」たる花、という説だ。
その文章を読んだ瞬間、耳元で「またね」と、あの日以来聞いていなかった、今や自分の記憶にしかない幼い少年の声がした気がした。
そのタイミングで、そう聞こえたという事は、毎年春から秋にかけて、
* * * * *
そうして、
そして厚手のコートが不要になり、山を、町を薄紅が彩り出すと、
たんぺん 板久咲絢芽 @itksk_ayame
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