雨にぬれて露おそろしからずとも
気がつけば、女は濡れていた。
足元の地面は黒々と湿り、少し離れた場所には小さな水たまりがぽつぽつとある。
雨に降られたのだと気付いて空を仰ぐも、既に雨は止んで日が顔を
その太陽を見上げて、その眩しさと温かさに、女は手を伸ばした。
「おっと、そっちじゃないですよ」
振り向けば、女と同じようにぐっしょりと濡れた青年が、人懐っこい笑顔を浮かべて道の
「どなた?」
「おや、覚えておいででない」
「ええ、申し訳ないけれど、どうしてかしら、何も思い出せないの」
なんとなく、明るい方に、温かい方に行かなければならないということだけはわかるのだが、それ以外は曖昧にぼやけて、溶け落ちるように途切れている。
青年はおやおやと、それでも言うほど驚いた様子はなく、こともなげにこう言った。
「なら、きっと全部雨に流されてしまったのでしょう」
「あら、そうなの? 確かにあなたも濡れているわね」
「ええ、傘を持っていなかったので。いやあ見事な
青年の明るい茶色の髪からはきらきらと陽の光を反射する雫がぽたぽたと滴り落ちている。
濡れてつやつやとしている髪は傷んでいるようには見えない。もともと色素が薄いのだ。
「
「あはは、多少言葉を使う趣味を嗜んでいるもので」
さて、と青年が笑みの形に細めていた目を開き、立ち上がる。
「何も思い出せないでしょうけど、わかることはあるでしょう?」
「ええ、そうね。ついさっき間違えそうにもなったけれど……これまでも間違えていたのかしら」
青年は笑みを
「あなた、きっと知っているのね、洗い流されてしまった私を」
「……さて、どうでしょう」
青年の
「でも、何もかも洗い流されたあなたには、もうなんの
「そうね、そうだわ。これから間違えなければいいんだわ」
もう間違えないように。
繰り返し、女は呟く。
だから、先程手を伸ばしたのと同じ気配のする方へと向いた。
「ありがとう、おにいさん」
「どういたしまして。ここに
その言葉に女は一度笑顔を見せると、そのまま振り向かずに一歩を踏み出して、そして、青年の視界から消えた。
「終わったんすか、先輩」
木陰からビニール傘を腕に
問われた青年はにっこりと、人懐っこく、そして胡散臭さの含まれる笑みを向けた。
「終わったよ」
* * * * *
「いやー、ほんと来てくれてよかったー」
「びっくりしましたよ、ほんと」
学校も休みなら、バイトも休み。
丸一日寝てやろうかと惰眠を貪っていたところに唐突に鬼のようにメッセージを送ってきたのが、この先輩だ。
以下再現。
『ここ』(位置情報付き)
『来て』
『来てください、お願いします』
『傘とタオル』
『忘れずに』
『来てくれないと死ぬ』
『死んじゃう』
『マジでお願い』
『お昼でもおやつでも奢るから!』
『好きなもん何頼んでもいいから!!』
悲しいかな、見事に釣られたのである。
そして、その先輩の用が終わった後に、こうして先輩行きつけの喫茶店に連行されたのである。
なお、持って来るよう言われたタオルは先輩を拭くためだけに使われた。
「好きなもん何頼んでもいいとは言ったけど、それで頼むのがチョコバナナパフェか……」
「ここのチョコバナナパフェはとても食いでがありそうだったので」
そう、俺の目の前には背の高いグラスにこれでもかと詰められたアイスと生クリームとチョコとバナナの、およそ
後は単純に、今とてもとても甘いものが食べたいだけなんだけど。
ただし、そういう先輩は――
「そういう先輩は大盛りのナポリタンにオムライスってどんだけ食うつもりですか」
「一仕事終えた後は腹が減るんですー」
そう言いながら唇を尖らせるこの先輩との縁は、大学でたまたまとった講義が一緒で、たまたま隣の席だったところから始まった。
というか、それ以降、学内だろうと街中だろうと、偶然にしてもあまりにちょくちょく出会い過ぎた。
まあ、この先輩、かっこいいというわけではないが色白で、何故か目立つのだ。
そして、ある時言われた。
たぶん、君と縁があるんだね、と。
チョコバナナパフェに刺さっていたチョコ菓子を先にぽりぽりと食べながら、そんなことを思い出す。
「君は
「なんですか、その言葉。初めて聞きました」
フォークでナポリタンを多めに巻き取っている先輩は明るい茶のくりっとした目を瞬かせ、うーんと少し唸ってから答える。
「まあ、雨女、雨男と近い語だよ。雨に好かれてるのさ」
「……いい加減慣れてはきましたし、理解してはきましたけど、傍から見るとマジで不気味っすね」
ひどいなあと言いながら、先輩はナポリタンを頬張る。
さっき、俺にはずっと先輩が一人で喋っているようにしか見えていなかった。
端的な話、先輩は
「今回は流石に言い訳はないっすわ。出だしが出だしっすよ」
メッセージで指定された、割と近所の神社の裏山に俺が着いた時、目の前でナポリタンを頬張っているこの人は、真っ青な顔で宙に浮いていたのだ。
一瞬、首を吊っているようにも見えたそれが、何かに首元を掴まれて浮いている先輩だと気づいて、慌てて駆け寄ろうとした。
その時に、ざあ、と風が一吹きすると辺りが暗くなって、雨が降り出したのだ。
「あー、あれは新記録かな。五十センチ台は初めてだったわ」
待て、三十センチとかならあるのか。
バナナを頬張っているせいでツッコめない俺を置いて、先輩はひとり続ける。
「もともと保険として君を呼んだんだけど、そろそろ君が着く頃合いかなと思って
「……いろいろと言いたいことはあるんすけど、かぜおぎってなんすか」
ナポリタンのウインナーを突き刺した先輩はあー、と声を上げる。
「こう、口笛を吹くみたいに息を吹く動作だよ。
「……自業自得では?」
「……正論でくるかあ。確かに見当たらないからって強引に呼び出したツケと言ってもいいかもね」
それは最早自業自得以外に何があろう。
「本当は、君がいなくても雨降らせられたら良かったんだけどねえ」
「できるんすか?」
「条件次第では。と言っても、やることと言ったら先人の雨乞い歌を唱えるぐらいだし、濫用するのはアホの極みでしょ。そもそも神頼みだから、濫用したら応えてもらえないわな」
切り札失くすのは命取りだよね。
そう言いながら先輩は、また多めに巻き取ったナポリタンを口に運ぶ。
あ、ケチャップ、口の端についてる。
「僕、割と言葉に恵まれてるからね」
「初めて聞いた言い草っす」
「言いたいことはわかるだろ。君、僕の除霊、何度も見てるんだから」
だんだんアイスの冷たさで口の中が侵食されてきたので、お冷やでそれを緩和させる。
「確かに、いつも会話に入る前に必ずぶつぶつぶつぶつなんか言ってますよね」
「言い方に
ちょっと落ち込んだように言いながらも、先輩はナポリタンを巻き取る手を止めていない。
「見立てとそこへの干渉だよ」
「なんすか、急に」
「僕のやってることの説明」
巻き取ったナポリタンを頬張って、
「呪いの多くは見立てを介して現実に干渉する」
「いや、先輩のは呪いじゃないんじゃ」
「いいや、呪いだよ」
かつり、と先輩は四分の三はなくなったナポリタンの皿にフォークを突き立てる。
「祓いも祭りも、もともと呪いに他ならない。
「……」
先輩の話を聞きながら、さくりとチョコアイスを掬う。
「類感呪術にせよ、感染呪術にせよ、その本質は見立てだ。類感呪術は類似性から見立てる。感染呪術は物的な接触の関係から見立てる。その違いだけだ」
食べるよりも話すことに集中した先輩のフォークが、きいと皿の表面をひっかく音を立てた。
「祭りの大半は、過去の再現か未来の祝いだ。再現は過去を今に見立てる。
「……箸渡しとお骨拾いってことっすか」
「そうそう。そゆこと」
先輩はにこっと人懐っこさと胡散臭さの混ざった笑顔を浮かべる。
「同じように、祓うのも見立てだ。例えば風。さっき僕は悪いものを運んでくる場合が多いと言ったけれど、逆に悪しきを吹き飛ばす
「大事なものまで吹き飛ばすこともあるってことっすか」
「まあ、日本は台風がよく通るし、そういう認識が出来たんだろう。そうやって事物それ自体で見立てるのもあるけど、言葉だけで見立てることもある。有名な
「原文言われてもわかんねっすよ」
とろりとしたチョコソースのかかった生クリームとバニラアイスをまとめて掬う。
うーん、甘さの暴力。
「風が
「……」
「見立てに必要なのは、見立て対象の刷り込みとその概念に合わせた結果へ向けての展開だ。共通認識から落し所へ導くのさ。君の言う僕のぶつぶつがそれ」
そこに繋がるのか。
先輩は皿の何もないところに突き立てていたフォークを再びナポリタンの山に刺して巻き取りだす。
「今回は雨を下敷きにいろいろ見立てたわけ」
「そして、雨を降らせるために俺を呼んだと」
あの時、雨が降り出して、浮いている状態から解放された先輩は、手を付きながらもなんとか立ち上がると、稲光が走る中、濡れるままにぶつぶつと単語を列挙し始めた。
俺はそれをビニール傘という安全圏から見ていた。
「なんでしたっけ。せいろ、あまつみず、なんとかおでん」
ナポリタンの最後の一口を含んだところだった先輩は、それを聞いて慌てて口を抑え、なんとか飲み込む。それから少し咳き込んでから笑いながら口を開いた。
「……
「だから真っ先にそれを言ってたわけですか」
そうだよ、と言って先輩はスプーンを取る。
今流行のふわとろタイプではなく、昔ながらの硬めに焼いた卵に包まれたケチャップのかかったオムライス。その鮮やかな黄色にさっくりと銀のスプーンが突き立つ。
「あとはなんか、あらいあらいって繰り返してましたよね」
「
「ってことは、もしかして先輩が作りたかった共通認識って、あの雨がシャワーみたいなもんってことっすか」
言いながら、パフェの最下層とそのひとつ上のチョコソースとコーンフレークの層をざくざくと混ぜる。
こんがりとしたきつね色のコーンフレークにどろりとした黒いチョコソースが絡んでいく。
「そうだよ。あのあとも
「今あんまりもの食ってる時に聞きたくないワード聞こえたのは気の所為っすか」
「んー、穢れの代表格だからね。
チョコソースまみれになったコーンフレークを頬張ってザクザク感を楽しむ内に、一つ気づいたことがあった。
「じゃあ、なんで先輩は平気なんすか」
「そこは、あの人と僕の違いだよ」
「生きてるってことっすか?」
先輩はオムライスを頬張ると、そのままスプーンをくわえて、うぬーと唸る。
俺は俺で、コーンフレークに絡みきらなかったチョコソースをスプーンで掬えないかと悪あがきをしてみる。
「惜しい」
「惜しいんすか」
「そ。僕の言いたい違いは、君にあの人が見えなかった理由と同じ。肉体を持たないことだよ」
かつかつと器の底の方に残ったチョコソースを深追いする俺をじっと見ながら、先輩は続ける。
「見立ては結局、ないものを想起させる手段だからね。物質的に現世を認識できる肉体を持つ分、生きてる人間にはききにくい」
「ふーん。そんなもんなんすか」
「そんなもん」
流石に諦めた俺は、ため息をついてスプーンを器にかちゃりと置き、パフェと比べると温いお冷やを飲み干す。
「ごちそうさまっす」
「おーう、ありがとね」
俺はまだオムライスを食べながらにっかりと笑う先輩を置いて立ち上がり、喫茶店を後にした。
* * * * *
後輩の姿が喫茶店から出ていくのを見届けて、僕はひらひらと振っていた手を降ろしてスプーンを握った。
「マスター、ピラフとフレンチトーストとあとコーヒー追加」
「はいはい、少々お待ちを」
それから手にしたスプーンをかつっと皿に当たるまでオムライスに突き立てる。
誰しも。
誰しも現実を正確に知覚できている保証はない。
そもそも、知覚している時点でそれは感覚器の情報を元に再現したものでしかない。
見立てと同じく、再現は実物ではない。
こうして今僕が口内で感じるオムライスの味も食感もスプーンの冷たさと金属の味も、すべてすべて僕の脳内で再現された現実だ。
僕は多少、その再現のための情報を得る量が、他人より多いだけ。それだけに過ぎない。
そもそも、名称という共通認識において、他人と見ている色が同じだと認識しているだけであって、見ている色が本当に他人と一致しているかなんて分からない。それは色だけでなく形も同じことだ。
「はい、ピラフです。あと、口の端にケチャップ付いてますよ」
「え、うわ、ほんとだ」
マスターに言われて口の端を触ると、指先にオレンジ色をしたものが付く。
紙ナプキンで指と口を拭うと、マスターはかかかと笑う。
「何か考え事ですかな」
「ああ、うん。ちょっとね」
「貴方も苦労の多い方ですなあ」
マスターはもともと僕の事を知っている。
むしろ、調子がいいと感じる程度の人だ。
「先程の子のことでしょう?」
「あー、そこまでわかるかあ」
「むしろ、あの子からの相談話かと最初は思いましたからな」
ああ、なんだ。マスター、今日は調子がいいのか。
オムライスの最後の一口を口へ運ぶ。
マスターは僕が空にした皿を取ると、ピラフの皿と入れ替えた。
「確かに、問題はあるけど、マスターの考えてるようなことではないよ。というか、マスターの考えてるようなことであれば、まだそっちのが骨が折れるだけでどうにかなったさ」
「おや」
彼が
彼には蛇が憑いている。
水や雷と近いものとして崇められる蛇が憑いているのであれば、当然雨に降られやすい。
「いや、ほんとすごいよね、思い込みって。何度かあいつの感覚を一時的にでも
あれは感じすらしないタイプだ。
それでも、僕の口車にうまく乗せれば一時的に感じる程度にすることも可能ではあるはず……なのだ。
ただ、圧倒的に頭が固い。
自分は極々平凡な人間であると思っている。
その上、他人と自分は違うという前提が入っているから感化させることも難しい。
「ふむ、本人が気付かないといけないタイプですか」
「そ」
ピラフを掬って口に入れる。
かつりと歯がスプーンに当たる。
「だって、あの蛇からの要望だからね。あいつの執着をどうにかしてくれって」
あの蛇は最早憑いているというよりは、憑かされている。
彼が放さないからだ。
あの蛇は、かつて幼かった彼が殺したものだ。
そして恨みから憑いたものの、彼の執着に巻き取られて離れられなくなった。
この件について、前に彼は爬虫類が好きだと言っていたが、その時の彼の目は僕でもぞっとするほどの感情が渦巻いていた。
ぎらぎらとした熱量の高い羨望。
どろりと重たい嫌悪の煮詰まった憎悪。
喉が焼け付くほどに甘くエグみを含んだ欲情にも近い愛情。
それでいて、平然と自分は普通と思っている図太さと己の感情への認識の薄さ。
つまり、彼は自分が言う「好き」にそんな感情を乗せていたと自覚すらしていない。
「好き」という言葉が負を担うことは往々にしてあることだが、それにしたって鬱屈している。
「いやあ、ほんと、生きた人間はめんどくさい。雨で丸洗いもできやしないから余計めんどくさい。あいつに自覚させるの、ほんと難しい。せめてもう少し僕を信用してもらわないと一時的に何かするにしても無理がある」
今日の彼女には申し訳ないけど、雨で丸洗いしたという表現に何ら間違いはない。
というか、そういう見立てを利用したわけだし。
そんな僕の様子を見ていたマスターが口を開いた。
「……フレンチトーストにアイスつけます? サービスしますよ」
「……ありがと、マスター……イチゴアイスがいいな……」
わかりました、とオムライスの皿を持って下がるマスターを見送って、とりあえず僕は目の前のピラフを片付けることにした。
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