その8

 満月の夜である。

 青白い光が、赤と黒の砂漠の都をおぞましいほどに冷たく浮き上がらせる。かすかに揺れる椰子の葉すら、灰色に染まって揺れる。

 今宵、新しい蛇巫女――新しい沙地の国の女王が、民人たちの前に姿を表す。

 とはいえ、陽光を嫌う蛇巫女は、昼に表に出ることはない。夜の沙地の都の目抜き通りを、蛇巫女を乗せた輿が行くのだ。

 この日の為に、道はきれいにならされて、穴の一つも石の一つも凹凸もない。日干し煉瓦を敷き詰めたうえに、膠を混ぜた粘土で隙間を埋めて舗装され、砂漠から吹き込む砂の一粒も落ちていない。

 人々の家には、大蛇神を讃える装飾が乱れ一つもなく飾られ、一家全員がその前で膝をつき、蛇巫女を待っている。誰しも声をあげない。赤子すら、泣く事を忘れたようだ。

 やがて、若い男たちが担ぐ輿が通る。その上には、蛇巫女が乗っている。布で顔を隠しているものの、どこか異様な気を漂わせる女――蛇と交わる女である。

 だが、お披露目とはいえ、誰も蛇巫女の顔を見ない。人々は、頭を地面にすりつけ、深く畏敬の念を示す。

 砂漠の赤い風だけが、蛇巫女への無礼を許される。しかし、新しい蛇巫女は、その風にも苛立つようだ。風でなびく白い髪と布を、やや乱暴に整えた。

 誰も、蛇巫女には逆らえぬ。

 大蛇神は祟る神――かつて、怒りを持ってこの大地を割り、国を興した。いつ、再び怒りを持って大地を滅ぼすのか、わからぬ神なのだ。

 蛇巫女の力で、沙地の国は安泰――だが、すべては、蛇巫女の気分次第であった。沙地の国の実りも、流行病も、人の生き死にも。

 そして――何よりも、歴代の蛇巫女たちは人の心を持たず、気まぐれでわがままだった。 

 ゆえに、誰もが蛇巫女を恐れた。

 めでたくも恐ろしいこの日が、何事もなく過ぎ去ることを、誰もが心から祈っていた。


 だが、田舎から出てきたその者は、蛇巫女の恐ろしさを感じないかのようだ。

「待ってくだせえ! 蛇巫女様!」

 突然、彼は輿の前に飛び出した。

「無礼者めが! しずまれ!」

 あたりはざわつき、男は取り押さえられた。何ともむさ苦しい田舎男である。

 実はこの男、今をさかのぼること半月前、蛇巫女に願いを託し、財産のほとんどを差し出した。再びこの地に戻ってきた今は、蛇巫女に捧げるものを何一つ持たぬ。願い事などできぬ身だ。

 蛇巫女の怒りが頂点を迎える前に、男をどうにかせねばならぬ。誰しもがそう思った。

 だが、とうの蛇巫女は、輿の上で面白そうに赤い眼球をくるりと回したのだった。

「待ちや。話を聞いてやろう」

 深くかぶった布越しに声が響いた。

「弟を! 弟の命を返してくださる約束でした!」

 輿の上の蛇巫女は、肘掛けを改めながら、男の言い分を聞いていた。そして、やや楽しげな声をあげた。

「ああ、約束は果たしたぞえ? 弟は家に帰ったであろう?」

 男は、食ってかかるようにして、輿の上の蛇巫女に詰め寄った。従者たちがさらに強く男を押さえつけたが、声だけは蛇巫女に届いた。

「だども! だども、ありゃ、弟ではねぇ!」


 数日前のことだった。

 高地の村に強い風が吹いた。家の扉が、ごつんごつんと叩かれた。ただの風……と、誰もが気にしなかったのだが。

『おっとう、おっかあぁ……』

 家族は顔を見合わせた。聞き間違いではなかろうか?

『おっとう、おっかあ、帰ってきたよ』


「確かにおまえの弟だよ。わらわは、約束通りにした」

「だども! あれは!」


 喜びいさんで戸を開けた家族に、三男坊は腐れ落ちた目を向けた。涙のかわりに蛆がぽたりと落ちた。

 崖下の湿地で半月ほど。三男坊の体は、既に腐っていた。

 ボロ切れをまとった紫色の体は、異臭を放っている。落ちた衝撃で、首と腕の骨が折れていた。頭も割れて脳が半分失われていた。

 母親は卒倒した。父親は、慌てて近くの薪を手に取ると、息子の頭めがけて投げつけた。薪が見事に命中し、息子の頭は床に転がった。

『おっとう、おっかあ、何するんだよ?』

 転がった頭は、それでも言葉を語り続けた。

 長男坊は、うろうろしている三男坊の体を納戸の奥へと蹴り入れた。次男坊は、頭を拾って納戸に放り込んだ。そして、父親が納戸の戸を閉め、釘を打ち付けた。

 その夜の間、風はびゅうびゅうと鳴り続けた。そして、納戸からは、懇願する三男坊の声が響き続けた。

『おっとう、おっかあ……おいらをどうするんだぁ。う、う、う……』

 母親も泣き続け、父親は黙り込み、誰も眠れぬ夜を過ごした。

 そして、朝になった時、長男坊は再び翼竜に乗り、都を目指したのだった。


「やむを得ぬだろう? 時間がかかったのでな」

 蛇巫女は、被り物の下で微笑んだ。

「わらわは死人を生き返らせる約束をした。命を返す以外の約束は、何もしておらぬぞえ?」

「だが、あれじゃあ、あれじゃあ……」

 従者の手を振り切り、長男坊は蛇巫女の布に手をかけた。とたんに、するり……と布が落ち、真白の蛇巫女の髪が月の光に舞った。

 公にさらされた蛇巫女の顔が、月の光に青白く浮かび上がる。

 それは、明らかに蛇に仕える女。だが、長男坊は、驚いて声をあげた。

「……風香? 風香ではないのか?」


 ――風香。

 その名を聞いて、蛇巫女は一瞬笑顔をひきつらせた。

 確かに、そのような名前であった。だが、もうとうに捨てた。

 紅蓮が道羅と逃げた後、風香は蛇巫女の力を得た。双子の姉妹は、金貨の裏表を引き換えたのだ。

 蛇巫女の力は、血ではない。

 紅蓮を殺した時、風香は蛇として生きることを選び、人を捨てたのだ。

 今や、風香の髪は白くなり、目は紅玉となり、くるりと回る。蛇として生きれば蛇となり、人として生きれば人となる。それが、蛇巫女の血というもの。

 風香は紅蓮に追っ手をしむけた。罠を仕掛けた姉を殺し、愛しい男を蛇巫女の従者として縛るために。だが、二人は見つかる事なく、今日に至っている。

 風香はきりきりと悔しがり、ますます蛇の邪な心に染まった。

 おそらく、紅蓮は既に白い髪でも白い肌でも赤い目でもないのであろう。見つかる可能性は少ない。

 紅蓮は、あの紅玉を売りさばき、新しい生き方をするのだろう。

 そして風香は……。


「風香! やっぱり風香じゃ! 覚えておるか? おまえの家の三件隣の……」

 長男坊は、幼なじみにすがるような目で語りかけた。だが、蛇巫女は血のような真赤な瞳を吊り上げ、真白の髪を振り乱して怒鳴った。

「無礼者めが! もうおまえとの縁は切れたわ」 

 紙に描いたような生気のない顔の、剃られて真白な眉がひくっと上がる。色のない唇が割れて、生き血を啜ったような口の赤さだけが奇妙なくらいに浮き上がって見えた。怒りのあまり、耳飾はシャラシャと音をたて、額を飾る宝玉がカタカタといい、首に掛けた勾玉がチリリとなった。

「わらわは蛇巫女。無礼を働けば、万死に値するぞ!」

 風香は、高らかに言い放った。


――了

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蛇巫女 わたなべ りえ @riehime

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