その7

 どのくらい時間が経ったのだろう?

 風香には、想像もつかぬ。

 白いぶよぶよの男どもが、次から次へと争うようにして風香を陵辱し、己の欲望を満足させて、また、湖の中へ消えるまでの時間。

 風香は、あまりの苦痛に死んだ。

 あれらは、何の情もなく、動物的で、しかも、風香の命の心配もしていなかったのだ。息が止まるまで胸を押し続けたり、心臓が止まるまで激しく攻めたり、血がなくなるまで、肌を噛み続けたり――まさに人間ではなかった。そして、情欲のすべてを風香の中に吐き出して去って行った。

 死んだはずなのに、風香は生き返った。

 あれらの肉欲を満たすまで、何度も生き返ったのだ。死を望むほどに、辱めを受けたというのに。

 そして今。風香は、暗闇の湖の岸辺に何も身に付けずにボロ切れのように転がっていた。


 蛇神は風香を退け、化け物の食い物にしたのだろうか?

 姉を殺した報いを与えたのだろうか? 


 やがて、あたりは、なぜかほの明るく感じられた。

 まさか、これが黄泉の世界ではあるまいが……。

「儀式はいかがだったかえ?」

 突然、女の声が聞こえ、風香はぎくっとした。

 だが、体を起こすことはできぬ。何度も殺された体は、まだ風香の自由にはならなかったのだ。かわりに声の主が、風香を覗き込むようにして、顔を見せた。暗闇だというのにはっきりと見える。

 その顔を見て、風香はもう一度死ぬかと思うほど、驚いた。

 まるで、鏡に映したかのような……。

 風香と同じ顔を持つ女は、たった一人しかいなかった。しかも、その女は死んだはず。風香は確かに仕留めたはず。

 姉の紅蓮は、妹の驚きを満足そうに受け止めた。

 蛇巫女とはまた別の、いかにも女らしい口元に微笑みをたたえながら。

「なぜ生きている? 殺したはずなのに……と言いたげだな? だが、かわいそうに。まだ、声も出ぬのか?」

 仕損じたのか? それはないはず。

 風香は何度も姉を刺した。まずは、首を何度も何度も。そして背中や腹、さらに胸を。あの手応えは、いまだに感触として残っている。

 姉は、確かに目を裏返し、醜い死に顔を風香に向けていた。激しく痙攣し、どくりどくりと血を吹き出し、やがて、その揺れも収まって静かになった。風香は、衣に姉を巻き付けて、その場をあとにした……はず。

 目の前にいる紅蓮は、暗がりのせいか、目を回さない。髪の色も闇に染まって見える。微笑みすら、もはや蛇ではないようだ。

 思い返せば、ここまで風香を導いた神の声も、姉の声だったように思う。

「風香、わらわはおまえに殺された。だがな、蛇巫女は死なぬ。力を授かりさえすれば、殺しても何度も蘇る」

 風香は、言葉の変わりに歯ぎしりした。

 蛇巫女の力を知っていたというのに、怒りに目が曇って、忘れていたのだ。

「おまえには感謝しているぞ。蛇巫女としての力は、蘇りのためにすっかりついえた。蛇の紅蓮は死んだ。一人の女として、紅蓮は生き返った」

 紅蓮は、そっと胸前を開けた。

「致命傷となった胸の傷だけが、まだ少し痛むがの」

 姉は、風香のほほをそっと撫でた。それは、気持ちの悪いほど、優しく感じた。

 ――敗者の苦悩を見つめる勝者。いや、それとも違う。

「言ったであろう。風香、おまえはわらわの希望と。おまえは、まさにわらわの呪われた運命を変えてくれたわ」


 ――わらわは決めた。蛇巫女となるのは、紅蓮(ぐれん)じゃ。

 小さな金貨を宙に放って、母である蛇巫女は紅蓮の運命を決めたのだった。

 

「あの時を覚えておるか? あの日、母はたかが金貨の裏表で、おまえに自由を与え、わらわを蛇の生け贄に決めたのだ」

 思いだすのも苦痛とでも言いたげに、紅蓮は顔をゆがめた。

「わずか九つの時だった。あの太った白蛇どもに、わらわが捧げられたのは。蛇巫女の力を得るために、この岩屋に押し込められ、暗闇の中を逃げ、それでもあやつらに捕まえられて……殺されて。そうだよ、おまえが今日、味わった苦痛を、わらわは毎月味わっていたのだよ」

 はためには、美しい衣装をきて、贅沢三昧な生活。誰もが恐れる大蛇神の使い。だが、蛇巫女の力は、あの辱めから生じている。

 蛇の血を引く者同士の近親婚――力は引き継がれたが、同時に男には先天的な白雉の因子も引き継がれた。歴代の蛇巫女は、彼らを封印し、餌を与え、時に交わり、力を得、子を生したのだ。

「汚らわしいだろう? 今宵、おまえは、父と兄と弟と関係をもったのだ。だが、そのおかげで蛇巫女の力を授かり、生き返った。そして、願い通り、蛇巫女の宝を授かったのだよ」

 宝とは……禁断の契り。体内に蛇の子を宿すことだった。


 先代の蛇巫女は、双子を授かった。

 蛇の秘密を守るのは、どちらか一人。どちらでもよかった。

 ――だから、金貨の裏表で決められた。


「わらわは、自由になったおまえがねたましかった。毎夜泣いては、おまえととって変わることばかり、考えておった。特に、道羅と出会ってからは……」

 道羅……その愛しい男の名を呼ぼうとしても、風香の唇は動かなかった。ところが、紅蓮の口からは、何と滑らかに名が出てくることか。

 ただただ、紅蓮の話を聞くだけの身に、風香は耐えるしかなかった。

「蛇巫女を正式に引き継いだら、もう後戻りはできぬ。わらわは、覚悟していた。ところがな、そんなある日、予知夢を見た。生き別れた妹が、蛇巫女になることを望み、わらわを訪ねてくる夢じゃ。道羅は、そんなはずはなかろうと笑ったがな」

 風香は、ああと小さく声をあげた。

 初めて道羅に会った時、彼は美しい水の瞳をまっすぐに向け、驚いていた。それは、予知夢通りに、妹である風香が現れたからなのだ。

 それを、風香は何か運命の出会いのように、惹かれあったのだと勘違いした。そして、すべては、紅蓮の思い通りに動いてしまったのだ。

「誤解するな。道羅は、おまえを謀ることに乗り気ではなかった。たとえわらわが蛇に仕える女でも、それでもかまわぬと言ってくれた。ともに蛇に捧げられて生きてゆくもかまわぬと言ってくれた。だが、わらわは嫌じゃ! あやつらに陵辱された体を、道羅には……」

 そこまで告白して、紅蓮は息を整えた。

「余計なことまで、話しすぎたな。だが、わらわと道羅を憎むではない。わらわは賭けたのだ。ほんの少し、美味しい餌を撒いただけで、ただ待ったのだ。おまえが、わらわを殺してまで蛇巫女になりたいのか、否か? そして……選んだのはおまえぞ」


 ――ああ。

 風香は、小さく息をついた。

 かつて、道羅は風香に何と言ったのか?

「あなたはあまりにも紅蓮様に似ている。容姿もその気質もです」

 確かに、姉と似ているのだ。

 いや、蛇巫女であった母に似ている。

 金貨の裏表で、すべてを決めてしまうような――。

 

 どちらでもいいようなことが、枝分かれして、全く違う運命に変わる。

 まだ動かぬ体を起こそうと、風香は必死にもがいた。せめて、刃を突き立てることができぬとしても、姉の顔に唾を吐いてやりたい。

 だが、叶わぬことだった。

 風香は赤く染まった眼球をくるりと回して、悔しがった。自由な女となった紅蓮は、目を回す代わりに細めて微笑んだ。

「蛇巫女として引き継いだ物は、すべておまえに置いてゆくよ。わらわには、もう不要だからな」

 そして、風香が持ってきたあの紅玉を、手にかかげた。紅蓮の瞳にも似た美しい赤が、風香の心に傷を残した。

「これはもらってゆく。新たな人生に金は必要だからな」

 ま……て……と、手をのばそうとしたが、体は動かぬ。意識も遠のく。

 紅蓮は視界から消えた。

 だが、風香の閉じられた目には、道羅と手を取り合って逃げる紅蓮の姿が浮かんでいた。

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