その6
先に進もうとして、風香は一瞬、道羅を思い出した。
蛇の女をしとめて、囚われていた愛しい男と、この国から手に手を取って逃げる――そんな自身の姿が、脳裏をよぎったのである。まるで予知夢を見たような。
だが、風香はそのまま祠を目指した。
もう逃げる必要はない。ここで、蛇巫女の力を得れば、道羅は風香のものとなる。あの蛇の刺青が、それを証明してくれる。あの声で、彼は「私は風香様のもの」とささやく事だろう。
甘い吐息を想像して、風香は思わずくらりとした。まるで蛇巫女のように、目が裏返ったかも知れぬ。
万が一、蛇巫女として受け入れられず、死することとなっても、道羅を紅蓮にやらずに済んだ。それだけでも、風香は満足だった。
紅蓮が持つべき鍵をもち、行くべき祠へと向かった。
これから三日間、その祠で過ごすことになる。その間に、紅蓮の屍は発見されるだろう。人々は、それを気の毒な蛇巫女の妹――風香として、葬ることになろう。
紅蓮の部屋から祠への通路は、従者ですら通ることが許されぬ。だから、何の心配もないのだが、風香は不安に苛まれた。
あまりにも長過ぎる。天井が高すぎる。杉材で組まれた天には、星々の代わりに宝玉が埋まっている。柱の一本一本に、細かな文様が刻まれている。
神が通れるようにとの造りらしいが、あり得ない。隠密の者が柱に潜み、隠れるのに適しているようにも思う。
「蛇巫女になるのは、私だ」
荘厳な廊下に圧倒されるたび、風香は胸を張り、呪文のように唱えた。
もはや、誰にも邪魔されぬ。既に、紅蓮は息絶えた。風香は、ただ一人の蛇巫女の血となったのだ。誰かが柱から飛び出し、風香を押さえつけたところで、何になろう? そう、もう引き返せぬ。
それでも、喉がからからになるほどの緊張。風香は、何度も舌で口の中をまさぐった。
やがて、祠の入り口に着いた。
ここから先は、岩屋である。漆黒の扉こそ、人の手になるものだが、奥は大蛇神が自ら作ったと言われる自然の洞窟だ。
大きな白銀のかんぬきを外す。手が震えて、鍵を入れるのに手間取った。だが、風香が罪悪感――と言えるのかどうか、風香自身、わからなかったが――に苛まれたのは、ここまでだった。
ぽっかりと開いた漆黒の闇。一瞬、臆したが、風香は足を踏み入れた。とたんに、扉が自然にしまった。はっとしたが、その次の瞬間には、自然に壁のろうそくが灯り、あたりを照らし出した。
いったいどのような仕組みなのか、風香にはわからぬ。魔法とでもいうべきか? 否、これは神が風香を蛇巫女として受け入れたことの証に違いない。そうでなければ、暗闇で彷徨わせ、気狂いにでもすればいいことだ。
風香は、少しだけ安堵した。そして、神の声を聞いたような気がした。
「蛇巫女よ、おまえに力を与えよう。古より引き継がれた血を、力を、受け継ぐがよい」
道が示された。
何本かある通路のひとつに、かすかな明かりが灯ったのだ。風香は迷わずにその道を急いだ。
かなり地下へと潜ったのだろう。空気はひんやりとしている。血の付いた衣装を引き寄せて、冷気を遠ざける。息を吐くと白く濁った。
やがて、目の前が開けた。風香の目に、闇に静かに水をたたえた湖が見えた。岩を映しだして、まるで鏡のようだ。波一つない。
蛇巫女の宝が秘められているのは、ここなのだろうか? そもそも、宝とはどのような物か?
風香は、母であった蛇巫女の姿を思いだした。彼女は、常にじゃらりじゃらりと宝玉を身につけていた。人々の願いを叶えるたびに、多くの宝を差し出すようにと要求した。
常に宝を身にまとっているようなものだ――と、母は言っていた。だが、風香の知っている限り、人々が捧げたものばかり。とても、神から授けられた力の宝玉とは思えるものはなかった。
「そこで体を清めるがよい」
再び声が聞こえたような気がした。風香は声に従い、湖に降りていった。
水面に己の姿を見て、風香は苦笑いした。
何とも酷い姿だった。髪は振り乱れ、血糊がついている。顔は鬼のような形相で、目が爛々としている。人殺しの顔だった。
そして……とても神と向き合う姿ではないだろう。白い無垢である衣装は、赤いシミが花の文様のように付いている。しかも、乱れている。
風香は、水をすくい、顔を洗った。そして、一口・二口と、喉の乾きを癒した。
一瞬、水面が揺れた。
気配を感じて、風香は頭を上げた。周りを見渡したが、何もない。風一つと折らない。だが、風香が起こした波紋と交わるように、別の波紋が水面を揺らしている。岩に跳ね返って、戻ってきた波だろうか?
風香は、再び顔を洗おうとした。が、その時、明らかな水音が響いた。
次の瞬間、何か白い影が風香の上に覆いかぶさってきた。慌てて手で払いのけ、蹴り上げて身を翻した。
白い影は、うめき声を上げた。人のようだが、何かぶよぶよしている。だが、その正体を確認する間はなかった。
次から次へと続く水音。
水面から飛び出てくる白い影。その向かう方向は、すべて風香だった。
「何者だ! おまえたちは!」
叫んだが、答えはうなり声だけ。
振り乱した白い髪と血のような赤い目を持った男たち――人に似ているが人ではない。醜く太った体には、なんと青白い鱗が光っている。
しゅるり……と音がした。
先ほど蹴り倒した男が、再び風香に襲いかかってきたのだ。それだけではない。新手の男たちも、一斉に風香を目指して、我先にと押し寄せてくる。
慌てて振り切り走り出すも、先ほどまでの明かりがない。暗闇の中、手探りで逃げる。しかし、異形の男どもは、暗がりでも臆することがない。見えているのだ。明らかに風香に不利な逃走は、あっという間に終わった。
――殺される!
闇の中、何をされるのだろう。
だが、手を押さえるもの、足を押さえるもの、上に乗るもの様々で、抵抗するのも困難になってきた。風香は何度も悲鳴を上げ、神に救いを求めた。
無駄な抵抗だった。
ある者が首筋に噛み付いた時、獅子に襲われた鹿のごとく、このまま食われるのだと信じた。白い肉の固まりは我先を争い、時に喧嘩しているのか、悲鳴のような声を上げ、餌に群がる蟻のごとく、風香を埋め尽くした。
これが、姉を殺した報い。
わけもわからないうちに、化け物に食い尽くされる。
だが、痛みを感じて、風香はかっとなった。まるで雷に体を突き破られたような衝撃。体をこじ開けられて、受け入れられぬ物を突っ込まれたのだ。
もしも、道羅が引き起こした痛みならば、風香は喜びとしたかも知れない。しかし、化け物によってたかっての行為であれば、ただ殺されるよりも堪え難い。
風香は、獣のような声をあげた。
ここに至って、風香はやっとこの異形の男どもの目的を知った。
――食われるのではない。犯されるのだ。
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