その5

 何と嫌な長い夜だろう――

 黒曜石の柱に隠れ、風香は道羅が紅蓮から解放されるのを待った。

 時折、寝屋からは獣のような声がもれ、それが高笑いになったり、苦しげなうめき声に変わったりした。二人の間に何が行われているのか、もはや解らぬ風香ではない。時々、紅蓮と同じ快感を身に置き換えもしたが、大半の時間、まるで陵辱されているかのように、風香は嗚咽を押し殺し、苦痛を耐え抜いた。

 やがて、闇が白々と薄れた。二度と訪れないのでは? とすら思った朝が来たのだ。そして、部屋の扉が開き、二度と顔を拝めないのでは? と思った男が外に出てきた。水色の瞳を曇らせて道羅が目の前を通り過ぎようとした時、風香はさっと手を引いて柱の陰へと引き込んだ。

 くっきりと黒い影が二人を隠す中、風香は無我夢中で道羅の首に手を回し、その唇に唇を重ねた。

「何をなさいますか! 風香様」

 低いながらも鋭い声で、道羅は拒絶した。だが、風香は抱きついたままだった。

「しっ! お静かに。他人に知られてもいいのですか?」

 道羅は眉に皺を寄せた。蛇巫女の従者である者が、他の女と絡んでいたとあれば、当然命はないだろう。

「我が身に触れられるのは、蛇巫女になります紅蓮様だけです」

「それが道羅殿の望みというか!」

 風香は詰め寄った。

 このような夜が続くのだ。まるで生き餌のように蛇巫女に生気を吸われ、言いなりになって、日々を過ごす。それが、道羅の生き方であってはならぬ。風香の想い人の生涯であってはならぬ。

「紅蓮様にこの身を捧げるのが……私の望みでございます」

 苦しそうな表情が、道羅に浮かんだ。風香はそれを諦念と読んだ。

「何故だ! 何故だ! 自由になりたいとは想わぬのか? 自らの力で生きたいように生きようとは想わぬのか?」

 風香は興奮して、道羅の胸元を叩いた。

「風香様!」

 急に強い腕が風香を抱きしめた。否、押さえ込んだと言うべきか? 風香の口を塞いでいたのは、唇ではなく、蛇の刺青の手であった。

 蛇巫女に仕える従者の一団が、二人に気づくことなく、ぞろぞろと目の前を通り過ぎて行った。

「お静かに……」

 耳元で甘い声が響く。だが、内容は甘くはなかった。

「あなたはあまりにも紅蓮様に似ている。容姿もその気質もです。でも、自由の身であったとしても、私が選ぶのは紅蓮様。それを心に刻んでおいてください」

 ――罠に落ちます。

 最後のささやきは、ほとんど聞き取れなかった。

 風香は、真意を正そうと道羅の手を取ろうとしたが、男はもっと素早い動きでそれを遠ざけ、立ち去った。


 もう耐えられなかった。

 姉に対する憎しみが、ふつふつとわいてきた。

 あれは、金貨の裏表という幸運で、風香のすべてを奪ったのだ。母という存在も。贅沢の限りも。蛇巫女の地位も。そして、愛する男さえも。

 双子の姉を葬って、唯一の存在――蛇巫女になることに、何のためらいが必要だろうか?

 金貨の運命を、鋼の刀で変えてみせよう。自らの手で、自らの運命を切り開き、すべてを手に入れてみせよう。

 風香は、小刀を抜き、その輝きを見た。

 頭に血が上り、真っ白になっていたのかも知れぬ。感情を抑えきれず、衝動に走ったとも言える。だが、風香の頭は、その逆に冴えてもいた。

 思えば家を出て以来、この瞬間を待っていたのだ。おそらく、育ての親を捨てたのと同様に、踏ん切りが欲しかったのだ。

 心は決まった。否、決まっていたのだ。あとは、実行するのみだ。



 蛇巫女になるには、身清めの儀式を受けなければならぬ。今日から三日間、蛇巫女の祠の奥にある洞窟に籠り、飲み食いは禁じられ、人としての生を終えて蛇巫女となるのだ。

 紅蓮はその支度に余念がなかった。真白の装束は、まだ羽織っただけで、胸元が見え隠れしている。帯は、床に無造作に置かれたままだった。

 風香が部屋に入った時、彼女は鏡でその姿を見て、にやり……と笑った。

「ちょうど良かった。上手く髪が仕上がらなくてな……」

 紅蓮は、すっと襟足に手を入れて、白い髪を持ち上げた。透き通るような肌に、赤い印が見えた。道羅が残した痣である。

 それは、まるで挑発だった。

 風香に、そこを刺すように指し示したかのような仕草である。引き込まれるように、風香は紅蓮の後ろに迫った。小刀を逆手にかまえ、振り上げる。

 鏡に映った紅蓮の目にも、風香の鬼のような形相が、振り上げた刃先が見えたのだろう。小馬鹿にしたような笑顔は、あっという間に恐怖の表情に変わった。代わりに、風香は微笑んだ。

 紅蓮は立ち上がり、逃げようとしたが、既に遅かった。既に首に小刀が突き刺さり、血しぶきが飛んだ。

 恐怖におののき、風香の足下に崩れる紅蓮。見下して微笑む風香。

 致命傷を与えても、風香はやめなかった。完全に姉が息絶えるまで、何度も何度も刃を姉を刺しまくった。

 これですべては終わり、始まったのだ。

 あたりは、血の海で真っ赤になった。蛇巫女の白い装束にも、花が咲いたように模様が出来た。

 紅蓮が最後の抵抗で、人を呼ぶのかと思っていた。呼べばいい。風香は覚悟が出来ていた。

 蛇巫女を殺した罪で裁かれたところで、どうともならぬ。なぜなら、姉さえ死ねば、風香以外の蛇巫女はいないのだから。祟りを恐れる人々は、いかなる理由を付けてでも、風香を救い、正当な蛇巫女として認めるしかないのだから。

 だが、紅蓮は、風香の行動が意外だったのか、何の準備もしていなかった。悲鳴を上げることも、助けを呼ぶこともなく、首からどくり・どくりと血を流し、その場に倒れた。そして、赤い目を何度となくぐるり・ぐるりと回した後、大きく痙攣して息絶えた。

 最後の一突きの後、風香は小刀を取り落とした。へなへなと腰砕けになり、その場に倒れた。が、恐怖よりも興奮のためだった。

 人を殺した――いや、人ではない。これは蛇の女だ。

 姉を殺した――いや、姉ではない。これは私の影だ。

 風香の口から漏れたのは、抑えようがない笑い声だった。だが、同時に目から溢れ出る涙も抑えられなかった。風香は震える手で涙を拭い、口元を押さえた。

 深呼吸すると、紅蓮の装束をとり、身にまとった。血が付いていたが、かまわない。髪もきれいには上げられない。だが、刻は迫っていた。

 身内を飲み込んだ蛇の女。

 巫女として認められるものなのか、風香には確信がなかった。しかし、あの日、三男坊が谷に落ちた時から、風香の運命は変わったのだ。

 あのまま、日々を過ごしていたら、いつかは谷底で死んでいる。ならば、蛇巫女の祠で蛇に食われて死ぬ方がましだ。

 生きるためには、何でもしよう――たとえ、神に背いても。

 脱ぎ捨てた汚い衣で、血まみれの紅蓮の体を覆い隠し、片足で蹴って、転がした。衣は巻き付いて、ただ、髪の毛と腕だけが、かすかに外に出た。

 風香は、最後に鏡を見た。血塗れた鏡は、風香の顔を紅蓮のように映し出した。

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