その4

「風香様、陽光を浴びてはなりませぬ!」

 朝日を拝みたく思った風香に、そのような声を掛けたのは道羅である。

 この宮殿に来てからというもの、風香はまるで幽閉されているかのように、監視されていた。

「陽光は肌を焦がします」

 道羅が歩み寄り、風香を窓辺から引き離す。その手の甲には蛇がとぐろを巻いているのだった。

「道羅殿は、白い肌がお好みか?」

 風香の肌など、すでに焦げて黒いのだ。今更の言葉に、風香は皮肉の微笑を浮かべた。

「さぞや姉上の肌は白くて美しいことであろうな」

 狂おしげに道羅の視線が絡みつく。

 紅蓮は、まるで風香の気持ちを逆撫でするように、道羅を好んでそばに置いていたのだ。

「紅蓮様は蛇巫女になる身ゆえ、肌を焼くことは許されておりません。あれは、作られた肌の色でありますゆえ……」

 水の瞳に見つめられて、風香の肌は桃に染まる。この男が紅蓮のものだと思うだけで、心の奥にも炎が燃える。

「では、道羅殿は、作られた肌の色が好きなのか?」

「風香様、そのように困らせないでいただけませぬか」

 きりきりと歯噛みする。この美貌の男は、蛇巫女に捧げられているのだ。わかり切っていることも、あらためて突き付けられれば腹が立つ。

「だが、知りたいのはあなたが誰のものか、ということではない。誰が好きか? ということだ」

 風香には、感じるものがあった。初めてあった日から、お互いに惹かれていると思える何かが。

 水色が曇った。伏せられた瞳と苦悩の眉。そのような表情もまた風香の心を狂おしく惹きつける。

「我が身は蛇巫女様のもの。心もそれに従うのみでございます」

「紅蓮は! まだ、蛇巫女になったわけではないわ!」

 風香は怒りに任せて叫んだ。

 もう少しで、続きも口から飛び出そうだった。

 ――私が姉に代わり、蛇巫女となることもあろうに。となれば、あなたは私のものだ。

 道羅は、それに答えもせず、そっと胸に手を当てて敬意を示す。そして、絡みつく風香の腕を振りほどき、部屋を出て行きかけて、再度振り向いた。

「風香様、肌を日に焼かぬよう……」

 道羅の姿が扉の向うに消えてしまうと、風香は苛々して台座に置かれた瑠璃硝子の花瓶を手にとり、思い切り床に叩き付けた。

 色鮮やかな象嵌細工の床に、曇りない高い音とともに碧の欠片が飛び散った。まるで薔薇の花が打ち広げられるように鮮やかに。

 光に当たり輝く青い欠片は、まるで道羅の瞳のように、拾い上げた風香の指先を傷つけた。赤に染まる指先を口に含み、顔をしかめた風香であるが、ふっと頭に浮かんだのは邪の心である。

 ――この赤き血の、どこに違いがあるというのだろう? 

 蛇巫女になるのは、風香であってもいいはず。道羅を手に入れるのは、風香であっていいはずだった。



 高みに運ばれる食事の数々は、とても神に仕える巫女とは思えなかった。

 鳥の卵・蛇の卵・魚の卵……。鳥・兎・山椒魚……。

 紅蓮は目玉をくるりと返しながら、食物を丸呑みしてゆくのだ。

 あの小さな口がなぜ、駝鳥の卵まで丸呑みできるのか、風香には理解できなかった。首が顔ほどの太さに変わるが、あっという間にもとの細さに戻る。その時、紅蓮は恍惚とした表情で白目をむき、あぁ……と小さな声をもらす。そして最後に、ぷぃと卵の殻やら骨やらを吐き出すのだった。

 その様子を下方で控えて見る風香には、食事がない。紅蓮の食事が終わるのを待ち、その残り物を食うのだ。

 吐き出された骨や殻のほかにも、紅蓮のわがままで手をつけぬ物もある。時にそれは豚であることもあるし、虫であることもある。貴重な卵であることすらある。

 残りものとはいえ、紅蓮と風香は同じものを食べていることになる。同じ湯を浴び、同じように陽光を浴びない。

 だが、今の風香と紅蓮の間には、双子とは思えぬ違いがある。金貨の表裏ほどの差とは思えない大きな差であった。

 風香は時折、紅蓮の側に寄り添い、従った。

 外は従順に、内では燃えるように姉を憎んで、時に耐え難き仕打ちも受けた。自分に対する行いは我慢ができたが、道羅をいいなりにする姉のわがままな態度は、時に腹が煮えくり返るほどだった。

 こうして日々は流れ、紅蓮が蛇巫女となる日が近づいた。

 風香は焦った。姉が蛇巫女となれば、この構図は永久に続く。その日を待ち望んでいるのは、郷の三件隣の岩屋の家族だけだろう。亡くなった三男坊を返してもらえるのだから。

 多くの人々は恐れてもいた。

 蛇巫女は、絶対的な支配者であり、同時に恐怖の存在でもある。新たな巫女の出現は、神の降臨にも等しい。粗末に扱うと、祟るのだ。

 沙地の都は、蛇巫女の祭りの準備に緊迫していた。何か不吉な予感を感じて。

 だが、とうの蛇巫女になるはずの紅蓮は、だらだらと贅沢三昧の生活を、いつも通りに送るだけだった。


 紅蓮は風香の想いを知っているのだろうか?

 風香の目の前で、椅子にだらしなく座ったまま、横に立って控えている道羅の手を取るのだ。そして、蛇の甲の蛇の刺青を、とぐろにそって撫で回す。

 お戯れを……と、道羅の唇が動いたが、声にはならなかった。蛇巫女の物である従者は、けして主人には逆らえない。

 愛を望まれれば愛を捧げ、血を望まれれば血を捧げる。

 従者は、単に身の回りの世話をする存在ではないのだ。蛇巫女に滋養を与える生き餌でもあった。そして、ほぼ使い捨てである。蛇巫女は、若い男の生気を吸って、その力を維持するのだから。

 紅蓮の手が、道羅の手を離れ、彼の下半身に伸びた。さすがに道羅はぐっと声を上げかけて、唇を噛み締めていた。その顔には紅がさした。

 だが、風香のほうが、よほど紅潮したのだろう。紅蓮は、風香の顔を見て、赤い目玉をぐるりと回した。そして、口角を持ち上げた。長い舌が、ひゅるり……と唇の間から漏れた。

「風香よ、今宵はおまえに暇を上げよう。好きなところに行くがよい。わらわは道羅と二人になりたい」

 突然、紅蓮が言い出した。

 一瞬、道羅の顔がこわばった。だが、風香はもっとこわばったかも知れない。

 微笑みをたたえていたのは、紅蓮だけだった。

「よいではないか? あと三日でわらわは蛇巫女となる。今まで耐えてきたが、もうよかろうよ。明日の朝から、身清めの儀式に入らねばならぬ。その前に道羅が欲しいのじゃ」

 くくく……と紅蓮は声をひそめて笑った。

 その間にも、先の割れた細い舌が、ひゅるる……と唇から姿を出したり消したりして、風香にはおぞましく見えた。

 蛇のような女が、愛しい男に絡み付き、生気を吸いとっていく。その図が風香の頭によぎった。

 風香は強く拳を握った。その手から、血が滴るほどに。

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