その3

 男は道羅(どうら)と名乗った。

 次期蛇巫女である紅蓮に仕えて五年、常に紅蓮のそばに控える。風香と長男坊が紅蓮と謁見したときも、道羅は、食いつくような口づけは受けないものの、常に紅蓮の横にいて、彼女の肩に触れていた。

 姉の紅蓮は、控える二人よりも高いところで座っていた。宝玉を散りばめた椅子には細やかな透かし模様の装飾がなされていた。

 風香を驚かせたのは、あまりに豪華な紅蓮の姿ではなく、瓜二つであったはずのお互いの変わりようにであった。

 姉はまさに母だった。茶であったはずの髪は白く、やはり茶であった瞳も赤かった。透き通るような肌は、岩山で焼かれ続けた風香の肌とは比べ物にはならない。色のない唇をぱかりと開いて、紅蓮は言葉を発した。

「風香、懐かしや。我妹」

 その言葉には、歓迎の気持ちがこめられていた。

 しかし、風香には喜びはなかった。姉の瞳には侮蔑の色が浮かんでいるように思われ、言葉は哀れみ以外の何物もなかった。

 さらに苦しいことは、道羅が常に姉の傍らに立っていることである。姉が蛇巫女となったならば、この美しい男は、生気を吸い取られるような口づけを彼女と交わすことになろう。

 苦々しい思い。顔を上げることのできない風香の横で、長男坊が声をあげた。

「あぁ、蛇巫女様! お願いします。我弟の命をお返しくだせぇ! できる限りのことはいたします!」

 差し出された家宝の数々に、紅蓮はちらりと目を流す。真っ赤な眼球が切れ長の瞼の中でくるりと回って元に戻った。

「男よ、わらわはまだ、蛇巫女ではありませぬ」

 横に控えていた道羅が台座を降りて、すっかり落ち込んだ長男坊の貢物の中から紅玉を取り、紅蓮に両手でうやうやしく捧げた。

 紅玉を目元にかざしながら、紅蓮は眼球を三度回転させ、そして満足そうに笑った。

「だが、十二日後には蛇巫女となる。そなたは、失われた我妹を連れてきてくれた。これに勝る宝はないであろう」

 白々しい……と、風香は感じた。紅蓮の瞳は、元を正せば自分が命をかけて手に入れた紅玉に奪われ、風香のほうを見ようとはしないではないか? 所詮、蛇の情だ。

「では、では、弟は?」

 舞い上がる長男坊に、紅蓮は紅玉のような目を細めて言った。

「蛇巫女になったならば、必ず命を返してしんぜよう」


 浮かれた長男坊が姿を消すと、紅蓮は微笑みながら台座を降りてきた。そして、風香の顎下に手を入れると顔を上げさせた。目が合うと、真赤な瞳がくるりと一回翻った。真白の唇が割れ、かすかに舌がちろちろとのぞく。

「あぁ、風香よ。我が希望」

「姉上様こそ、我が希望」

 風香は頬に突き刺さる姉の爪を感じた。言葉こそ優しいが、この姉は蛇である。

「今まで、母の我侭ゆえに苦労を掛けたが、これからはわらわの妹として仕えるがよい。悪くはせぬ」

 やはりそうか……と、風香は苦笑する。

 この世に蛇巫女は一人でよい。力はどちらか一人に与えられるのだ。では、なぜに蛇巫女が風香であり紅蓮が仕えであってはいけないのか? その理由は皆無であろう。

 ――たかが、金貨の裏表ではないか。

 転び方ひとつで、生き方がかわるとは思えぬ。

 しかし、この容姿の違いはいったいどうしたことなのか? 風香は戸惑った。かつての自分は、姉の姿と瓜二つだったはずなのに。 

 風香の疑念など気がつかぬのだろう、紅蓮は風香の手をとり、奥の間へといざなった。

 先の扉を押し開いていた道羅の手に、蛇巫女の刺青があるのを風香は見とめた。あれは、蛇巫女に捧げられる者の証――心苦しく感じた。

 彼は、二人が扉を通過すると、うやうやしく扉を閉め、さらに後に従った。


 蛇巫女の秘所に繋がる宮殿は、風香の知らぬ世界だった。

 天井の高さは翼竜が飛べるほどであり、沙地の国では高級品とされる杉の木を組んで造られていた。色とりどりの装飾は、宇宙を表す文様――つまり、星、月、太陽である。眩いばかりの細やかさに目を取られ、風香は躓いた。

 見ると、床はやはり珍しい大理石に蒼石、緑玉、薔薇石などを埋め込んだ象嵌細工で出来ていた。一部盛り上がったところは、白磁に絵付けされたタイルが埋め込まれていた。そこに風香は足をとられたのである。

 倒れぬように手を貸してくれたのは、道羅であった。紅蓮は、軽く口元を吊り上げて笑っただけであった。

「田舎者となったものだ」

 姉の一言に、風香はかすかに体を震わせた。だが、その震えを抑えるかのように、抱きとめた道羅の手が強くなった感がして、別の動悸を覚えたのも事実である。

「大丈夫か?」

 優しく思いやりのある声は、風香には聞いたこともないもの。村では、誰も風香を抱きとめてくれなかった。ただ、鋼索のみが風香を崖下に落ちぬよう支えてくれるものだった。激しく打つ心臓の音に驚きながらも、風香の胸は締め付けられた。

 だが、道羅の手の甲の刺青には、蛇がとぐろを巻いている。それは、彼が蛇巫女の所有物であることを意味している。

 紅蓮の足が止まり、ぐるりと目の玉が動いた。

「何か臭うぞ。そうか、風香は風呂に入ってはいないのだな?」

 男の腕の中で聞くには、何と恥ずかしい言葉であろう? 嫌がらせとしか思えない。風香は慌てて道羅の手の中から逃れ、うつむいた。

 村では風呂などは滅多に入ることはないが、蛇巫女の子としてこの地にいた時代は、毎日のように湯浴みした。貴重な水も蛇巫女なれば、いくらでも手に入ったのである。

 嫌味なのか、それとも贅沢者ゆえに気がつかぬのか、紅蓮の言葉の一つ一つが、風香には憎く狂おしかった。


 その夜、風香は風呂に入ることができた。

 薄暗い浴室の小さな湯船に、風香は体を横たえた。

 今まで見た秘所の様子から見ると、不釣合いなほどに質素ではある。しかし、それでも風香の七年間では味わえない至福の時であった。

 お湯は微かに媚薬の香りが漂う。そのお湯が、紅蓮の使った残り湯を下水から引いたと気がついたのは、ふとお湯から引き上げた指先に真白な髪が絡まったからである。

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