その2
「わらわは決めた。蛇巫女となるのは、紅蓮(ぐれん)じゃ」
小さな金貨を宙に放って、母である蛇巫女は風香の運命を決めたのだった。七年前のことである。
「……母様」
「無礼者めが! もうおまえとの縁は切れたわ」
蛇巫女は血のような真赤な瞳を吊り上げ、真白の髪を振り乱して怒鳴った。紙に描いたような生気のない顔の、剃られて真白な眉がひくっと上がる。色のない唇が割れて、生き血を啜ったような口の赤さだけが奇妙なくらいに浮き上がって見えた。
怒りのあまり、蛇巫女の耳飾はシャラシャと音をたて、額を飾る宝玉がカタカタといい、首に掛けた勾玉がチリリとなった。
「わらわは蛇巫女。無礼を働けば、万死に値するぞ!」
それが、風香が最後に聞いた産みの母の言葉だった。
白地に朱の帯を巻き、上に何枚も錦の上衣を羽織った蛇巫女は、先ほどまでは母だった。しかし、今は手の届かぬ恐れ多き神の使いである。
母は姉を従えて、その場を立ち去ってしまった。
わずかに振り返ったほうは双子の姉で、顔は風香にそっくりであったが、母と同じ豪華絢爛な衣装を着込んでいる。風香は、たった今、その衣装を剥ぎ取られた。
姉の目は、どこか侮蔑に満ちていて、勝ち誇っていた。
風香は捨てられたのである。
沙地の都の懐かしい砂の匂いを嗅ぐと、風香は母の怒鳴り声と姉の視線を思い出す。それはけして気持ちのいいものではない。
たかが金貨の裏と表で、姉・紅蓮は今でもいい服を着て美味いものを食べている。かつての風香が、巫女の娘よとちやほやされていたのをそのままに。
母に対する恨みは忘れぬ。
もしも真面目に神託を聞けば、神は風香を選んだかも知れぬ。この厳しい七年間の生活は紅蓮のもので、風香には変わらぬ豪奢な生活が続いたのかも知れぬ。
しかし、かの地にて風香の耳に飛び込んだのは、母が死んだという信じがたい話だった。今や、次の新月を待って、紅蓮が蛇巫女の宝を引継ぎ、満月に巫女としての地位を引き継ぐという。
母の死を聞いても、風香は何も感じなかった。むしろ、家宝のすべてを捧げようとしていた長男坊のほうが、よほど落胆した。金さえ積めば死者をも呼び戻してくれるという蛇巫女が、今はもう居ないのだから。
「風香、おまえは巫女の娘なんだろ? どうにかならないかね? 俺はこのままじゃ、おっとうおっかあの顔が見られねぇ」
とは言われても、今や平民の風香にはどうすることも出来ぬ。だいたい、蛇に血の情を求めて、何とするものか? 母が生きていたとしても、貢ぎ物以外で心を動かされるはずがない。
だが、ここでとどまっても埒が開かぬ。とりあえず、二人は谷にある蛇巫女の神殿に行くこととなった。
砂地に突然現れる奇岩の壁。長い年月を掛け、細やかな文様が掘り込まれている。いや、文様だけではない。内部はもっと豪華な部屋が彫り作られているのだ。それこそ、蛇巫女が住む神殿なのである。
風香は、七年前までそこに暮らしていた。母の住んでいた蛇巫女の祠以外は、よく知っている場所である。だが、今となっては遠く感じる。神殿に至る黒曜門の手前で足が止まった。
門の横の裏扉が開き、背の高い若い男が現れた。どうやら、身分の高い者に使えている従者らしい。風香と目があうと、彼はなぜか不思議そうな顔をして立ち止まった。
小奇麗な衣装は、風香にも見覚えがある。蛇巫女であった母はこのような従者を五人置き、常に奴隷のように使っていた。一人は巫女の右手をさすり、一人は左を、二人はそれぞれの足を、そして一番見目よい男は、肩や首を揉み解していた。時にその男が母の唇に唇を重ねている姿すら、風香は目のあたりにした。蛇巫女たる母の長くて細い赤い舌が、若い男の生気を吸い取るかのように絡みつくのが、目からどうしても離れない。
目の前に立つ男の澄んだ水の瞳を見ると、蛇のような女に仕えているとは思えない。風香の心に、何か不思議な胸苦しさがわいてきた。
「あなたは?」
男の声は緩やかで洗練されていた。風香が答えを紡ぎだす前に、長男坊が叫んでいた。
「こ、この方は蛇巫女様の御子でして。お願いします。蛇巫女様、いや、巫女子様におあわせ下せぇ! 妹君が会いに来ていると!」
男の顔は、見る見るうちに驚きの表情に変わっていった。
「この方は……紅蓮様の妹なのか?」
涼やかな瞳にさらされて、風香は体中の血が踊るようなときめきを感じた。
男のほうも、風香を見る目が明らかに違う。何かを感じているのだ。
これは運命――と、風香は思わざるを得なかった。
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