蛇巫女

わたなべ りえ

その1

 風が渡る――

 日の傾きで時間を計ると、一刻の猶予もならぬだろう。風香(ふうか)は籠にしっかりと蓋をし、腰に固定した。籠の中には、この高地で神より授かった貴重な薬石や草、そして偶然見つけた紅玉が入っている。今日の稼ぎは、この紅玉のおかげで普段の十倍はあろう。

 この国で唯一の平原である高地に居られる時間は、日が昇ってから南中するまでの、わずかな時間だけだ。それを過ぎると、この場には誰も存在できぬほどの風が吹き、すべてを崖下のはるか霞に捨て去ってしまう。

 ――かつて天空の大蛇が怒りをもって大地を割った――風香の国で信じられている伝説である。この広く深い亀裂を見れば、誰しもこの伝説の真偽を疑うものはない。

 慎重に鋼索を伝って下る。やや時間を誤ったのか、ひとつに結ばれた焦茶の髪が、一度二度と顔にまで掛かるほどに風で揺れた。荷物はいつもより重い。慣れているとはいえ、風香は十六歳の華奢な体の少女だ。下山速度はどんどんと鈍った。

 この急な崖にしがみついているのは風香だけではなかった。横を見ると、別の鋼索に幾人か……村の衆も皆、時間を見誤ったらしい。四苦八苦して、落ちないように慎重に降りてゆく姿が見える。

 突風が吹き、一瞬目をつぶって再び開けた風香の茶の瞳に、ゆるりと落下する人影が見えた。そして谷中に響き渡る少年の悲鳴が後を追った。あれは三軒隣の岩屋に住む家族のところの三男坊だ。年の頃は、風香の一つ下だったはず。

 ――ひゅうう……。

 悲鳴は風の音と混じり、谷に消えた。

 頭の中が白くなった。よく知っているところの少年が、落ちていってどうなったのかは、わからぬ風香ではない。恐怖に囚われて体に力が入ったのか、足元が滑ってぐらりとなった。

 このようなところで三男坊の後追いは出来ぬ。風香が慌てて命綱に頼ろうとしたところ、重めの籠を縛っていた紐が切れ、蓋が開いた。中身ははらはらと霞の向こうに落ちて消えた。

 こうして風香の命の代わりに今日の稼ぎはなくなった。


 育ての親は風香を役立たずだと罵り、家外へ追い出した。何度か岩屋の扉を叩いては見たが、育ての親は開けようとしない。風が吹く夕、風香が崖っぷちでうっかり足を滑らせたとしても、何も気にもしないのだろう。それはこの七年間で痛いほど思い知らされた。

「蛇巫女様のお子とはいえ、お前は何の力もない普通の子供だ。普通の子供は普通に親に尽くすものだ」

 普通の子供であったことはない。奴隷のように扱われた。

 愛情を注いでくれぬ親に注ぐ愛情など、風香は持たない。それは育ての親でも産みの親でも一緒である。

 一応は泣いているふりでもしよう。が、本当はもう泣かぬ。

 風香は帯の間から紅玉を取り出した。これさえあれば、どうにかなる。

 すべてをなくしたと告げたのは嘘だ。育ての親が少しでも風香を心配するそぶりでも見せるならば、この石は明日にでも見つけたことにするつもりだった。でも、邪険に家を追い出すようならば、この石を持って家を出ようと決めていた。

 最後のふんぎりがつかず、風香は親の態度に賭けた。案の定、彼らは風香に愛など持たぬ。育ての親の顔に何の愛もなかったことを、風香はむしろ喜んだ。

 未練なく、心置きなく、すべてを捨てて去ることができる。これほどまでに家を出ることを望んでいたのかと、驚いたほどだった。

 三軒隣の岩屋では、家中をひっくり返して金になりそうな物を探していることだろう。三男坊の死は、蛇巫女様に貢物を送ることで取り消してもらえるのだから。

 案の定行ってみれば、長男坊が翼竜を三頭出し、荷物をくくりつけているところだった。あわただしい中、風香は荷の中に体を忍ばせた。飛び立ってしまえば、沙地の都までいける。途中ばれてしまっても、風香がこっそり捨てた荷物の代償を紅玉で払えば、長男坊は文句をいうまい。

 目の前で崖下に消えていった少年に、今夜は感謝をこめて悼みの言葉を唱えよう。少年は風香の新たな旅立ちのために大蛇神に捧げられた供物そのものだ。おかげでこの地から、何の苦労もなく旅立てるのだから。

 翼竜は長男坊が乗り込むと、連なって悲鳴にも似た声をあげ、山場の村を飛び立った。

 すべては、これから――

 風香は、翼竜の翼の下に広がる世界を見た。大蛇が作ったという世界を。

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