何気ない一日のスナップショット
鹽夜亮
何気ない一日のスナップショット
「散歩をしよう。」
僕のこの一言から、何気ない今日は始まった。県外では隠し湯などと言われていて、一部で有名らしい寂れた温泉街の最寄り駅に、車を止める。無人駅の駐車場には、僕の車以外何も存在すらしなかった。
「思ったより暖かいね。コートはいらないかな。」
トランクを開けながら呟く。
「日陰はきっと寒いよ。着ていきなさい。」
隣で新調したばかりのカメラを弄る彼女は、少し眉をしかめてそう言った。結局、僕は彼女の言う通りコートを着てゆくことにした。
温泉街のメインストリート、といってもこのあたりには道など一本しか通っていないのだが、そこに降り立つと、目の前には大きな大衆食堂が見える。ここのヒレカツがそれはもう絶品で、何度か父親と足を運んだことのある店だ。生憎、今日はもう腹ごしらえを終えていたので、ヒレカツを味わうのはまたの機会に譲ることにしよう。
「ここだっけ?貴方が美味しいって言っていた食堂って。」
「そうだよ。カツが厚くてね、でも柔らかくって、すごくお店の雰囲気も優しいんだ。いつか一緒に来てみよう。」
うん、と彼女がうなずく。僕は、食堂の前に設置されている自販機でお茶を買い、これからの散歩へと備えた。
道を山の奥の方へと歩き始めると、○○温泉街まで一キロメートルと書かれた錆びた看板が目に入った。一キロ、というと徒歩だとそれなりの距離だ。都会に住む人々はその程度日常茶飯に歩いているというが、僕のような田舎ものにとっては車で移動する距離の範疇に入っている。
若干気の滅入りを感じた僕とは裏腹に、彼女は看板のちょうど反対側にある橋の写真を一心不乱に撮っている。この橋というのが、人通りも疎らな廃れた温泉街にはどこか似つかわしくなく、変に近未来的な構造をしていて、明らかに周囲の景色から浮いている。その様はどこか滑稽でもあり、概念としての「バブル期」を思い出させるようなものでもあった。僕もカメラを取り出すと、彼女に倣ってその橋をレンズに収めた。
写真というのは、いざ撮ってみるとこれがなかなか難しい。裸眼で見たときに美しいと思った景色や構図、光の加減なんかは、写真にした瞬間嘘のように鳴りを潜めてしまったりする。はたまた、裸眼ではどうということもないただの一瞬間が、いざ写真に切り取ってみると素晴らしい作品になったりもする。僕も彼女も、まだ何気ない一瞬間を芸術にする魔法を完全には会得していないから、手探りでレンズの中に景色を閉じ込めていく。
右手に先ほどの橋を見ながら、緩い上り坂を歩く。太陽は西に傾き始め、ノスタルジックな緋色で山の谷間を映していた。左手には、豪華な作りをしているものの、既に営業を停止しているであろう旅館が見える。壁を這うツタや無造作におかれた何に使うかもわからないトタンの板などが、繁盛したであろう往時を忍ばせる。この旅館も、どこかのだれかの家族旅行や一人での旅行、様々な美しい思い出と共に誰かの心の中で生き続けているのだろう。旅館の名前を掲げる大きな看板だけは、植物にも錆びにも浸食を受けず、ただ一人誇り高く空に突っ立っていた。
車では何度か通過したことのある道でも、こうして歩いてみると沢山の発見をするものだ。それは道ばたにあるよくわからない看板だとか、潰れた旅館の数の多さだとか、人が一人ギリギリ通れるかどうかもわからない広さの脇道だとか、そういったどうでもいいものたちである。このどうでもいいものたちを写真に収めるのが、僕ら二人はどうしようもなく好きなのだ。
誰に注目されるわけでもない廃墟の古びた窓や、打ち捨てられた茶器、蔦に絡まれて半分自然に還りかけた自転車。石にこびり付いた苔。手すりの錆び。彼らは僕らに、ノスタルジックな気分と少々の不気味さ、触れたくはないギリギリの汚らしさといったスパイスで、魅惑的な刺激を披露してくれる。
「ねえねえ。ここ、ちょっと入ってみようよ。」
彼女が僕の左腕を引きながら言う。指し示す先を目で追うと、大きな旅館と旅館に挟まれた、湿っぽく暗い路地が見えた。両側に高くそびえる旅館の壁には、多種多様な配管が血管のように張り巡らされている。
路地に入ると、残飯のような臭いと湿っぽい雨上がりのような臭いが微かに鼻孔を刺激した。苔や虫たちには随分住み心地のよい場所だろう、できれば虫との遭遇はご遠慮願いたいところだ。
路地は数十メートルもなく、すぐに旅館裏手の山際に到達して行き止まりになった。行き止まりから右手の方向、先ほどまでは路地の横に大きな壁を披露していた旅館の裏勝手口側を覗き込むと、路地横にあったものよりもさらに古びた配管たちが所狭しと並んでいた。中には、液漏れを起こして水を滴らせているものもあった。
「いいね。最高だよ、これ。」
彼女は興奮した様子でカメラのレンズに釘付けになっている。無論、それは僕も同じだ。ただ同じ景色を撮り続けるのも芸に欠けると思ったので、ふざけて彼女の頭の上にカメラを置いて写真を撮ったら、ぺしりと手を叩かれた。
「なんといったかな…たしか、そう。スチームパンク。だっけ。こういう景色のこと。」
「スチームパンクとは少し違うんじゃない?なんとなく、雰囲気は似ているような気はするけれど、私にも詳しくはわからない。」
ぱしゃぱしゃ。シャッターを切る音だけが静かな路地に響く。レンズを覗き込みながらも僕は、今の僕らを他者が見たら完全に不審者だろう、などと取り越し苦労を思ったりした。
ひとしきり写真を撮り終えると、路地を引き返す。その引き返す途中で、また面白いものを見つけた。
「F…Fa…Facion…?」
路地に入ったときには見えなかった位置、ちょうど影になっている部分に、青いペンキか何かで書かれたラクガキがあった。なぜこんな誰も通らないような場所にラクガキがあるのか、そしてなぜわざわざ書かれているのがFacionというイマイチ的を得ない英語なのか、何もかもがわけがわからず、どうにも可笑しくて二人で大笑いした。ただしもちろん、謎の「Facion」にピントを合わせてシャッターを切る事は忘れなかった。
路地を出て、温泉街を二十分程歩き回ると、運動不足の僕は足に疲労を感じ始めた。それは最近飲んでいる精神安定剤のせいであるのかもしれないし、仕事を休養していることに伴う運動不足に原因があるのかもしれない。または、もしかしたらただの加齢によるものなのかもしれない。
対して彼女の足取りは軽い。小さな身体をぴょこぴょこと揺らしながら、様々なものをレンズに収めていく。細い道を右に、左に。ある時は岩にへばりついた苔をギリギリまで近付いて撮って、ある時は廃墟の壁の崩れかけた傷を撮って。僕は、その姿を少しだけ保護者のような視点で見た。彼女の名誉にかけて、あくまで、ほんの少しだけ、だ。
「そろそろ帰ろうか。いっぱい写真も撮れたし、疲れたでしょう?なんだかふらふらしているよ。」
ふらふらしている、と彼女に言われて、自分でも驚いた。たしかに足取りが危うかった。ここまで体力が落ちているのか、と少し落ち込んだ。
「そうしよう。加工したら、写真見せてね。きっといっぱいいいものが撮れただろう。特に、Facionとスチームパンク。」
笑いながら、帰路を歩く。幸福とはこういうことを言うのだろう、なんだったら今日一日を記録して、それを広辞苑にでも提供してあげようか、などと馬鹿げたことも考えた。
もう日暮れが迫っていた。彼女の言う通り、コートを着込んで正解だったな、とふらふらした足取りで肌寒さを感じさせるようになった温泉街を歩きながら、僕は思った。
何気ない一日のスナップショット 鹽夜亮 @yuu1201
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