カフェ・ルポゼで会いましょう
帆ノ風ヒロ
「この作品でもダメなのか……」
スマホの画面に映し出されたアクセス数と評価ポイント。それを確認した途端、溜め息と共に頭を抱えてしまった。
一時間ごとのアクセスを示すグラフは一桁ばかり。いや、閲覧者のいない時間帯の方が多い。そして、現在までに獲得している評価ポイントはわずか10。
今回は自信があった。今までの作品よりも、ユーザへ歩み寄った設定や書き方を心がけたのに。やはり、サスペンスやホラーしか書けない僕には、“小説を書こう”というこのサイト自体が合っていないのかも。
間もなく秋が終わり、冬が訪れようとしている。外を吹き荒れる木枯らしが、僕の心の隙間にまで容赦なく流れ込んでいるように思えた。
「
「え?」
木製のカウンター越しに優しい笑みを投げかけてくれたのは、このカフェの店員である
たかが趣味の小説投稿。そう割り切っているはずなのに、何を期待しているのか。
「溜め息なんてついて、疲れているんじゃありませんか? 休息も大事ですよ。せめて、このお店では寛いでいってくださいね」
目の前へ、ブレンドコーヒーの注がれたカップが差し出された。
「ありがとうございます。でも、休息ならほら。ここでこうして美味しいコーヒーを頂くことが最高の休息だから」
彼女の前ではデキる男を装いたい。不甲斐ない姿など見せられない。
すると彼女は、穏やかな女神の微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。今の言葉、マスターも喜んでいますよ。今頃、奥でニヤニヤしているはずです」
「別に、マスターが喜んでくれてもね……」
僕と同じ三十代だというオーナー、
耳に心地良い、小鳥のさえずりにも似た軽やかな声と、明るい太陽のような笑顔。それが僕の心へするりと入り込み、染み渡ってゆく。最早、彼女の虜だ。
仕事帰りにこうして、カフェ・ルポゼへ来ることが日課になってしまった。彼女の笑顔と言葉が僕の心を癒やし、明日を乗り切るための活力を与えてくれる。
コーヒーを飲みながら、憧れの人との会話を楽しむ。これで小説投稿サイトの作品が人気になれば言うことはないのに。
でも、現実は甘くない。僕はそのサイトの中では底辺と揶揄されるような存在だ。そのレッテルを引き剥がすには、評価ポイント500以上の作品が必要とされている。だが、今回の自信作でさえ10ポイントの僕だ。そんな高みへ届くはずがない。そしてここでも、山戸さんとの距離を縮められずにいる。
今の生活に不満はない。仕事は順調。三十半ばだが中間管理職という立場も任され、それなりにやり甲斐もある。
そんな僕が小説の投稿を始めたのは、本当に何気なくだ。学生時代から趣味で書き溜めていた物を埋もれさせてしまうのは勿体ない。誰かに読んで欲しい。僕の存在に気付いて欲しい。そんな些細な気持ちからだった。
ある程度、分別の付いてしまった今では、何もかもが上手くいくなんて思わない。作家になったからといって、それで一生食べていけるとも思わない。仮に僕の作品が書籍になったとしても、一、二冊で打ち切りだろう。
あくまで趣味。それが僕のスタンスだ。しかし、人目へ晒したからには反応や反響が欲しいと思ってしまう。心の奥から本音と欲望が顔を覗かせる。もしも物好きな出版社から書籍化の打診があれば、二つ返事で快諾してしまうだろう。
ワイシャツの首元へ手を伸ばし、ネクタイの締め付けを緩める。待望の一杯を楽しもうという時に、こんな拘束は必要ない。
なぜか、カウンター越しを動こうとしない山戸さん。その視線に緊張を覚えながら、手にしたカップをゆっくりと口元へ運ぶ。
黒い海とも言えそうな複雑な層を持つ液体が、揺らめき輝いている。湯気に乗って立ち昇る豊かな香りが鼻腔をくすぐった。口に含んだ途端、厚みのある奥深い味わいが一気に押し寄せた。
目と鼻と舌。それらを使い、マスターが生み出した世界を存分に堪能する。
「うん。やっぱり美味しいなぁ」
悔しいが、彼の創造する世界は本物だ。のほほんとした雰囲気を漂わせている割に、仕事はキッチリこなす辺りが小憎たらしい。
この店の内装にしてもそうだ。アンティークの小物がさり気なく配置され、カントリー調のアットホームな世界観が形成されている。駅から徒歩十五分という不便な立地の割に、クチコミで人気が広まり客足は上々。以前からここを利用していた僕にとって、この店が混雑するのは迷惑でしかないのだが。
しかし、慌てて邪念を払う。今はコーヒーを楽しむ時間だ。それだけを考えていれば良い。その温かさが全身へ染み渡り、心の奥底まで満足させてくれる。
「三井さん。ひとつだけ聞いてもよろしいですか?」
「なんですか?」
彼女が仕事中に雑談を始めるとは珍しい。いつも周囲に気を配り、絶えずお客の要望に耳を傾ける勤勉な人なのに。
「三井さんがいつもスマホでご覧になっているサイトって、“小説を書こう”ですよね?」
「知ってたんですか!?」
「すみません。何となく画面が見えてしまったので、つい……私も友達が書いている作品を読んでいるので、あのサイトを三井さんも使っているんだなぁって、勝手に親近感が湧いてしまって」
意外だった。まさか彼女が“書こう”の存在を知っていたなんて。でも、僕が底辺作家だということは絶対に知られたくない。
「さすがに書くのは無理ですけどね。ここでコーヒーを飲みながら小説を読むと、凄く贅沢な気分になれるんです」
「コーヒーに読書。大人な感じで良いですね。私はもっぱら花より団子で、この店のカフェオレとチーズケーキを頂きながら、ガールズトークに花が咲いてしまいますけどね」
はにかんだ笑顔に見とれてしまう。
「山戸さんは若いんだし、それくらいが丁度いいよ」
彼女は二十四歳のはず。綺麗というより可愛い雰囲気の漂う、元気で明るい女性だ。そして、彼女を目当てでここを訪れるライバルたちの存在も知っている。
「でも最近、落ち着いた大人の女性に憧れるんですよねぇ……二つ上の姉がいるって、前にお話ししましたよね? 最近は合う度に、色気がないだの、お子様だのって……」
山戸さんとの間に、“書こう”という思わぬ繋がりができた。そんな少しの進展に胸を躍らせながら、レジで会計をすると。
「三井さん」
店を出る直前、山戸さんに呼び止められた。
「厚かましいことは承知の上で、お願いを聞いて頂けませんか?」
☆☆☆
「これか……」
帰宅後、入浴を済ませた僕はベッドへ寝転び、スマホに映し出された“書こう”の画面を見ていた。映っているのは自分のユーザページではない。“物書きをする
帰り際、山戸さんに呼び止められた僕。ためらい、恥じらうような仕草を見せる彼女に戸惑ったのは言うまでも無い。妙な勘違いをしたことも否定しない。
“友達の作品を読んでいるとお話ししましたよね。ご迷惑でなければ、三井さんにも読んで頂いて率直な感想を伺いたいんです。なんだか、私の意見では物足りないみたいで”
なんて贅沢な友人だ。そんな奴はあのカフェのコーヒーでなく、めんつゆでも飲んでいればいいのに。チーズケーキでなく、チーズの一切れを与えてやろうじゃないか。だいたい、物書きをする黒猫というユーザネームも頂けない。自分の機嫌次第で、山戸さんを振り回すような気まぐれさを感じてしまう。
「いや、待て……」
毒を吐いている場合ではない。あの山戸さんの友人だ。悪い人のはずがない。
「めんつゆの件は素直に謝罪しよう」
一人つぶやき、作品タイトルへ目を通してゆく。長編はなく、短編作品が三十作ほど並んでいる。どれも女性を主人公にしたタイトルのようだ。とりあえず最新の作品を開いてみた。冒頭も入り易い。柔らかな文体は好印象だし、空気感や匂いまで伝わってきそうな繊細な表現が際立っている。起承転結も申し分なく、一気に引き込まれ、夢中で読み終えていた。
「これだけ素晴らしい作品なのに……」
おそらく、このサイトを訪れる読者の趣向には合わない。それを如実に表すように、作品の評価ポイントは二桁台。恐る恐る他の作品のポイントも確認してみるが、どれもこれも同じような具合だ。
評価ポイントとは、読者から与えられる数値だ。お気に入り作品として登録されると2ポイントを得ることができる。その他に、作品への評価が五段階。つまり、一人のユーザから最大で7ポイントを得ることができるのだ。この数値は運営サイトのサーバーで集計されており、ジャンルや累計ポイントなどで分けられた独自のランキングシステムへと反映される。
投稿サイトのトップページに表示されているランキング。そこへの掲載はアクセス数を大きく左右する。読者から見れば当然、人気作品だから面白いはずだ、という先入観が生まれる。そうなれば必然的に評価も得やすくなり、ポイントが2万を越えるような人気作になれば、書籍化の誘いがかかるとも聞いている。
趣味として活動しているユーザもいるが、大半の者が書籍化を目指し、研鑽を積むための戦場なのだ。
「もっと人気が出ても良いのに……」
そんなことを思い、眠りに
☆☆☆
「それを直接、感想欄に書き込んで頂けませんか? その方が友達も喜びます」
翌日の夕方、山戸さんへ感想を告げた結果がこれだ。
「直接か……」
思わず頬が引きつった。感想を書けば、テルという僕のユーザネームが記録されてしまう。
「いや、人に意見できるような評論家じゃない。僕には無理だよ」
「そうですよね……わかりました。他の方も当たってみます。わざわざ貴重なお時間を割いて頂いて、本当にありがとうございました」
寂しそうな山戸さんの顔に心が大きく揺れた。他の誰かにこの役目を取られるわけにはいかない。彼女には僕が必要なんだ。
☆☆☆
「みんな、すまない……許してくれ」
その日の夜。自身のユーザページを開いた僕は、掲載された作品たちへ静かに詫びた。いや、正確に言えば作品だけではない。それぞれにお気に入り登録をしてくれている、見えない読者たちに対しての謝罪も込めていた。
二十話ほど連載しているサスペンス物には七件のお気に入り登録が付いていた。この続きを楽しみにしてくれている人がいる。そう思うと胸の奥が痛んだ。
だが、現実としてすぐ間近にある山戸さんの笑顔に敵うはずがない。僕は心を殺し、機械的な動作で作品たちを消去していった。
☆☆☆
それから一週間かけて、物書きをする黒猫さんの全作品へ目を通し、感想を書き込んだ。気に入った作品にはレビューを書いて宣伝もした。
それこそ、物書きをする黒猫さんは様々なジャンルを書いていた。魔法少女の冒険物。モデルを目指す少女の話。冴えない事務職女性の恋愛物。女子高生のドタバタコメディや、人妻の不倫が題材のサスペンス。果ては童話や詩まで。僕はそれらの世界にのめり込み、熱狂的なファンと化していた。
しかし、僕の盛り上がりと反比例するように、どうしても人気が出ない。どうしてみんな、彼女の作品の素晴らしさをわかってくれないのか。
「おまえらの目は節穴か? 全員、めんつゆでも飲んでいればいいんだ」
このサイトでは異世界ファンタジーの人気が圧倒的だが、物書きをする黒猫さんの作品の前では最早、それらは文字の固まりにしか感じられない。
「安易に転生してきたボンクラどもに、スキルが目覚める秘薬だと言って、めんつゆを飲ませて再殺害する話でも書いてやろうか」
そんな黒い気持ちを抱えるかたわら、物書きをする黒猫さんからは誠意溢れる御礼メッセージが連日のように届いている。彼女はとても良い人で、丁寧な文面からは人柄が滲み出ている。さすが山戸さんが友人に選ぶだけのことはある。
「でも、が付くんだな……」
彼女とやり取りさせてもらった一週間の間に、ひとつの疑念が生まれていた。
「ん?」
ちょうどその時、ユーザページへ届いたメッセージを見付けた。差出人は物書きをする黒猫さんだ。
いつもの御礼メッセージだろうと、何気ない気持ちでそれを開いた。
“私の拙い作品へ丁寧な感想をくださり、いつもありがとうございます。”
そんな書き出しから始まったのだが、続く文章を目にして、ベッドに寝転がっていた体を即座に起こした。背筋を正し、正座をしてスマホの画面を凝視する。
そこへ続いていたのは、数日前に僕が送った問いかけへの返答だ。それに対して誠実に向き合わなければいけない気がした。
僕の投げた問いは簡単なものだ。投稿している作品の人気が振るわず、心が折れることはありませんか、と。定期的に作品を投稿し続ける前向きさは、どうやって生み出しているのですか、と。
底辺作家の苦しみはみんな同じだと思っていた。誰もが多くのポイントを獲得したい。あわよくば書籍化を願っているのだと。僕の心はきっと、大好きなコーヒーのように、底の見えない黒い幕に覆われている。見通すことのできない、深く大きな暗闇に。
しかしそんな僕に、物書きをする黒猫さんは女神のお告げのような一言を投げ返してきたのだ。
“人気が欲しいわけではなく、書くことが好きで、自分が楽しむために書いています”
そうして、静かに燃えるような熱い想いが、流麗な文章で淡々と綴られていた。それは彼女の作品からも感じ取ることができた。本当に楽しんで書いている様が、手に取るように伝わってくるからだ。
底辺作家ということにコンプレックスを持っている僕には、物書きをする黒猫さんは眩しすぎる存在だった。彼女の内から溢れるような眩しさは、僕の心を隅々まで照らした。深く大きな暗闇すら容易く突き破り、奥底に隠れてしまったはずの想いへ手を差し伸べてくれたのだ。
僕にも、そんな時期は確かにあった。僕が創造した僕だけの世界。そこに生きる人々を思い描いただけで心が躍り、それを形に表すことで、他の人たちと楽しみを共有したいと願った。その世界が次第に構築されてゆくことに無性の喜びを覚え、ただひたすらに、純粋に、創造を楽しんでいた。
そう。“小説を書こう”に出会う前の僕は、心底楽しんで世界を創っていたのだ。
メッセージを読み終えた僕の心には、いつか無くしてしまった熱が蘇っていた。
そうして僕は、慌てて返信を書いた。結びの言葉はもう決まっている。
☆☆☆
翌日は休日だったため、居ても経ってもいられなくなり、開店時間と同時にカフェ・ルポゼへ駆け込んだ。
木製のドアを開けると、ベルの音が僕の来店を喜ぶように響く。それに釣られるように漂ってくるコーヒーの
「おはようございます。一番乗りですね」
そう言って微笑む彼女へ足早に近付き、耳打ちをするように顔を近づけた。このカウンターがジャマだ。今すぐ乗り越えてしまいたい。
コーヒーの香りを阻害しないよう香水は付けないと言っていたが、胸元まで伸びる黒髪からはシャンプーの清潔な香りが仄かに漂った。
「実は、山戸さんにお願いがあって」
「私に? なんですか?」
「彼女に、黒猫さんに会いたいんです! 連絡を取って頂けませんか?」
山戸さんにこれほど接近したのは初めてかもしれない。普段なら怖じ気づき、ためらってしまうのだが、今は彼女の魅力は二の次だ。
物書きをする黒猫さんに会いたい。今はその気持ちしかない。
「どうされたんですか、急に?」
驚き面食らっているが、それも当然だろう。ここまで勢いのある自分をさらけ出したのは初めてだ。いつもは落ち着いた大人の男を演じているだけ。店内に他の客はいない。今なら、彼女に全てを打ち明けても構わない。
「実は“小説を書こう”を利用していたのは作品を読むためじゃなく書くためです。サスペンスやホラー作品を書いていましたが、人気が出ずに全て削除してしまいました……」
彼女はただ黙って聞いてくれている。
「黒猫さんからメッセージを貰ったんです。彼女は人気など関係なしに、自分が楽しむために書いていると言っていました……そのメッセージを読んで思い出したんです。僕が小説を書き始めた理由も、全く同じだったって」
学生当時の高揚感と、投稿サイトの利用を始めた時の緊張感がふつふつと蘇ってくる。
そう。昨日までの僕は単純に、逃げ道と言い訳を探していただけだ。書籍化に憧れる本心と素直に向き合うことができず、こんな年なのだから、会社員という現実があるからと。そして、作品の人気が出ないことの全てをマイナージャンルだからと言い聞かせ、どこかで自分を誤魔化し続けていた。
「僕は一番大事な気持ちを見失っていた。作品の続きを待っていてくれた読者も裏切った……作品と読者への贖罪を胸に、もう一度やり直すことにしたんです。そのキッカケをくれた黒猫さんへ、直接御礼が言いたい!」
カウンターへ両手を突いて頭を下げた。
「お願いします!」
「ちょっと、三井さん!」
慌てふためく山戸さんの声がする。だが、物書きをする黒猫さんに会えるのなら、頭を下げることすら何のためらいもない。
「お願いですから落ち着いてください……」
困り果てた彼女の声で、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。徐々に冷静さを取り戻し、気まずさを抱えたまま、カウンターに並ぶ椅子へ腰を落ち着けるという始末。
「すみません。取り乱しました……」
顔を上げることもできず、テーブルに刻まれた木目を何の気なしに眺めていた。そうしたところで、何がどうなるわけでもないのに。
程なく、目の前へ真っ白なカップが静かに置かれた。中は黒い海で満たされ、いつも味わっているコーヒーの香りが漂ってくる。
弾かれるように顔を上げると、山戸さんが穏やかな笑みを浮かべていた。
「お店からのサービスです。どうぞ」
「すみません……」
コーヒーは相変わらずの美味しさだ。奥深い味わいと温もりが全身を巡る。そうしてようやく人心地が付いた。
カウンターの向こうで僕を見ていた山戸さん。その円らな瞳を黙って見つめ返した。
穏やかな佇まいと柔らかな物腰。そこから感じる雰囲気は間違いなく一致する。僕の抱いていた違和感は恐らく正しいはずだ。
「山戸さん……正直に答えてもらえますか? あなたが、“物書きをする黒猫”なんですよね?」
「え?」
友人が書いた物。そう言って第三者へ意見を仰ぐのは有り得ない話ではない。何事も控えめな彼女のことだ。自分が書いたとは言い出しづらかったのだろう。そんな奥ゆかしい一面もまた、惹かれてしまう要素のひとつ。
だが、彼女は慌てて首を横へ振った。
「とんでもない! 私では、あんなに綺麗な文章は書けません」
「どういうことですか?」
予想が覆されるとは思っていなかった。必死で否定するその顔は本気だ。ましてや他人にいたずらを仕掛けるような人ではない。だが、彼女でないとすれば誰だ。いや、待て。カードはまだ残されている。
「そういえば、お姉さんがいるんだったね。凄く繊細な文章を書かれる方だし、作品から気品が漂ってくる。そうか、その人が……」
「いえ。理数系には強い姉ですが、文作は苦手で」
「じゃあ、本当に山戸さんの友達なんですか?」
「いえ……あのですね……」
山戸さんが言い淀んでいると、店の奥からぷっと吹き出す声が聞こえてきた。
見えない存在からバカにされているようで、途端に不快感が込み上げてくる。
「何がおかしいんですか?」
暗がりに向かって声を投げると、彼は顎髭を擦りながらこちらへやってきた。真っ白なワイシャツに黒のズボン。茶色のミドルエプロンという、いつもの装いで。
「僕、何か変なことでも言いましたか?」
人を小馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべ、何がそんなに楽しいのだろうか。
「いやね、なんと言っていいのか……こういう時は素直に、ありがとうございます、って言えば良いんですかね? テルさん……」
「は?」
僕の時間だけが停止していたらしい。
店内を沈黙が支配し、壁に掛けられたアンティーク柱時計の振り子だけが規則的な音を奏で続けている。
「マスター。冗談キツイよ」
どうにかそれだけを絞り出したが、二人が表情を崩すことはない。
山戸さんが、気まずそうな顔で僕を見ていた。
「三井さん、冗談ではないんです。彼が、“物書きをする黒猫”なんです」
信じられない。あの繊細な文章を書いていたのが、こんな髭面オヤジだなんて。
「いや……だって……あの人の作品は全部、女性目線とか、女性主人公とか……」
僕の言葉に、マスターは苦笑いを浮かべて口を開いた。
「ほら、こういう客商売をしてると、女性の繊細な内面なんかも勉強した方がいいんだろうなぁと思ってね……彼女に作品の添削をお願いして、アドバイスを貰ってたんですよ」
気恥ずかしそうに笑い、山戸さんを見る。
「じゃあ、黒猫っていうのはどこから?」
「あぁ、ユーザネームですか? 自宅のマンションで黒猫を飼っていましてね。名前はカプチーノ、って言うんですけど」
あんたが飼っている猫の名前なんてどうでもいい。
もう言葉が出て来ない。ただうな垂れて、カップに残ったコーヒーを見つめた。
「彼女が面倒をかけてしまってすみません。三井さんがテルさんだと知ったのも、あのメッセージを頂いたからなんですよ」
昨晩、夢中で打ち込んだメッセージの数々が脳内を巡ってゆく。
不人気から挫折して作品を削除してしまったものの、物書きをする黒猫さんの作品と人柄に触れ、あの頃の気持ちを取り戻しました、と。もう一度頑張ろうと思います、と赤裸々に告白した長文を送りつけてしまった。
「最後に、“カフェ・ルポゼで会いましょう”って書いてくれましたよね。驚いていたら、隣で見ていた彼女が、実は……って」
「え?」
隣で
見ていた
だと?
「ということは、もしかして二人って……」
「はい」
山戸さんは、耳まで真っ赤にうつむいた。
「私の意見では物足りなそうだし、黙々と執筆する彼が寂しそうに見えて……ご無理なお願いばかりして、すみませんでした」
「え……あ……いや……」
もう、世界の全てが崩壊した気分だ。僕こそがこの店で、コーヒーでなく、めんつゆを飲まされ続けていたのかもしれない。山戸さんに失恋しただけでなく、“書こう”の世界でも騙され続けていた。いや、正確には勘違いと言った方が正しいのだろうけれど。
うつむいた拍子にカップの黒い海を覗くと、情けなく歪んだ自分の顔が映った。
なんて顔をしているんだ。淡い恋と卑屈な心は、昨晩のうちに全て捨てたはずだ。今度こそ、創作活動に全身全霊を注ぐと決めたばかりじゃないか。
そう思うと、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。相手が山戸さんだと思ってひいき目に見ていたが、こいつが相手なら話は別だ。さすがに、今までの作品評価を取り下げるような子供じみたことをするつもりはないが。
カップを手に取り、残されたコーヒーを喰らい尽くさんばかりの勢いで煽った。手の甲で口元を拭いながら席を立ち、サイフから出した千円札をカウンターへ叩き付けるように置く。
これは宣戦布告だ。塩を贈ってもらうつもりはない。見据えた先には、黙ってこちらを見るオーナーと山戸さんの姿がある。
「黒猫さん、ここからは僕も本気です。あなたの繊細で気品ある文章には憧れています。でも、それに負けているとは思わない! 僕にだって、僕にしか書けない物語がある!」
そう。彼の描く世界は到底マネできない。だが彼にしても、僕の世界をマネすることなどできない。
「僕が得意とするのはサスペンスとホラーです。そのジャンルで必ず、日間一位をもぎ取ってみせます! あなたが二人がかりで挑むなら、僕は今までの二倍書くだけだ!」
「おっと。これはまた、強敵出現ですね……お互い頑張りましょう。テルさんの作品、楽しみにしていますから」
顎髭を擦り、屈託無く微笑む顔が憎らしい。
「あなたもライバルの一人です。これからは辛口評価で行かせてもらいます!」
カフェ・ルポゼのドアをくぐって現実世界へ立ち戻る。
和気藹々とした暖かな時間はもう終わりだ。吹き付ける木枯らしも今は生温い。その空気を肺の奥まで思い切り吸い込んだ。
「さてと……」
ここから、また新たな始まりだ。今度はどんな物語が生まれ、僕を楽しませてくれるだろうか。それを言葉として綴り、一刻も早くみんなへと届けたい。
軽くなった足取りと共に、次作への構想を思い浮かべて家路を急ぐ。
カフェ・ルポゼで会いましょう 帆ノ風ヒロ @HIRO_STAR
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