#4
ぼく自身にも、人生の大きな転機が訪れている頃だった。
長いフリーランサーの生活から、縁あって、小さな会社のマネジメントに職を移していた。
歳を長じると脱落者が多くなってゆく我々の業界で、知らぬ間にぼく自身のキャリアは他を抜きん出るほどになっていた。
決まったクライアントとしか付き合ってこなかったけれど、後進の育成と、自分自身の研鑽を兼ねられる、その席の居心地は決して悪いものではなかった。
そこから与えられる驚くほど多くの収入で、ぼくは彼女に、一粒のダイアモンドのついた、シンプルなネックレスを買った。
誕生日を祝うことはできないが、最後にプレゼントを渡したかった。
彼女はそれをみて、ひと雫だけ、右の目から涙をこぼした。あとは下唇を噛んで、気丈に涙を止めてみせた。
ぼくは彼女の首に両手を回し、ネックレスをつけた。
こぼれた涙は、彼女のデコルテに鈍く輝く宝石になった。
ぼくたちはそして、ゆっくりと
彼女の脚をとって、一本一本の指を丁寧にくちづけて。そして、その細い指たちをそっと、吸った。
ベッドにうつぶせた裸の背中。浮き上がる背骨の一つ一つの凹凸に、心を込めてくちづけをした。
手を取り、指の股を舐め、手首に見える青い静脈にそって、舌を這わせていった。
彼女の呼吸を読み、指先に全身全霊を込めた。
暴力などなくても、人は
心の中で、ジムノペディーの3番が流れてくる。
神々への祈りにも似た、静かなセックス。
彼女との、最後のセックス。
額に玉の汗をかいて、彼女はぼくのくちづけに答えてくれる。
潤いきった性器からは、ぼくを激しく求める渇いた声が聞こえる。
指を絡めて。身体を重ねて。思えば最初に彼女のことをスパンキングしてから今日までが、長い長い前戯だった気がする。
深く、彼女の中に入る。長い時間が持たない。いままでが長すぎたんだ。
互いに性器を差し込みあった瞬間、しびれるような感覚がふたりをつつんだ。ぼくにも、彼女にも、それがわかった。ぼくたちは、快楽を求めるのとは別の目的で、その時身体をあわせていた。言葉にできない感情が、あふれるように胸に迫る。性の昂ぶりとともに何故か、涙がポロポロとこぼれた。彼女の肩に顔を埋めながら。彼女も強く、ぼくを抱き締める。
互いの名前を呼び合って、激しく、昇りつめる。
瞬間、ジムノペディが消えた。
そしてぼくたちは、絶頂を迎えた。
「ねぇ?」、と彼女に声をかける。
真夏の午後のホテルのロビーは、白く透明な光線がさして、夕暮れにはまだ早い。
知らない人々の静かなざわめきが心地良い。
感傷などひとかけらもなく、ぼくたちは、終わりを迎えた。
これで終わったんだと、互いが心の底から理解しあった。
「クルマを買うときはさ、」と、ぼくは切り出す。彼女は柔和に微笑している。逆行になった午後の光が彼女の輪郭を彩り、まるで女神のように見える。
「メルセデスのスポーツタイプの2シーターにしなよ。ボンネットが長くて、エンジンが一番強力な奴」
「どうして?」
ぼくは笑った。
そんなの決まってるじゃないか。
「そんなの決まってるじゃないか。君に、いちばん、良く似合うからだよ」
からからと顎をのけぞらせて笑うひとには、もう少女の面影は残っていなかった。
●
ジムノペディは、もう、聞こえない。
3つのジムノペディ フカイ @fukai
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