秋霖
――声が、したんだ。
今にも掻き消えそうな、そんな、小さな、俺を呼ぶ声が。
数日前から、雨が続いている。
狂い咲いたあの桜の花も、この長雨で散ってしまうだろう。
もとより春に咲くのが定めの花、しかたないといえばそれまでだが、さみしいと感じてしまう。今が己にとっての春だと、堂々と咲き誇る姿はうつくしかった。
「弥斗兄。いくら雨続きで暇だからと言って、そんなにごろごろしていると身体が鈍ってしまいますよ」
かぐやが溜息を零しながら俺を見下ろす。その手には縫いかけの着物があった。こうも雨が降り続いて洗濯できないから、持て余した時間は繕い物をしているのだろう。相変わらずしっかりした妹だ。
「雨の中稽古してもいいんだけど、そうするとかぐやは怒るじゃないか」
「当たり前です! 風邪でもひいたらどうするんですか」
ごろりと横になったまま転がる。かぐやは「もう」と言いながら傍らに座った。俺の存在なんて無視してちくちくと縫い物をはじめる。
十二年前。十歳の俺が見つけた小さな小さな女の子は、こんなにもうつくしい『女』になった。
里の若い男たちのなかにも、かぐやに求婚しようかどうかと言っている奴もいるらしい。俺に直接相談してくるような強者は今のところひとりもいないが。
武の里の男は皆いい奴らだ。誰がかぐやを娶っても、彼女を不幸にすることはないだろう。
母上の言うとおり、婚約の期間をおいての祝言ならば、そろそろ相手を探してもおかしくはない。武の里では二十歳を過ぎても嫁き遅れなどと言われることはないが、それでもやはり十八歳くらいには嫁いでいるのが普通だ。
家事はたいていのことを完璧にこなせる。器量も良いし、性格もいい。武の里では珍しく三歩下がって夫に従うような性格をしているものの、ここぞというときにはしっかりと意見する。どこへ嫁がせても自慢できる妹だ。
――だが、どうもこの件について考えていると、苛々する。
「……それ、父上の着物か?」
どう見ても男物だ。一針一針丁寧に縫っている。
「これは弥斗兄のですよ。そろそろ新しいのが必要かなと思って」
「俺の?」
「はい。好きですよね? 縹色」
少しくすんだ深い青だ。そう言われてみると、わりと好んで着ている色かもしれない。自分では気にしたこともなかった。おそらくかぐやが着物を仕立てるたびに、俺の何気ない一言を覚えていたんだろう。
「これから着るには少しさみしい色ですけど、良い反物だったので」
「俺のじゃなく、おまえのを仕立てれば良かったのに。かぐやはいつも俺や父上母上のものを縫ってばかりいるだろ」
「自分が縫ったものを人に着てもらうのが好きなんです」
自分の着物なんて誂えても楽しくないんですもの、とかぐやは笑う。もう何年か前から、家族の着物はほとんどかぐやが縫ったものだ。いつか嫁いだ先でも、夫や子どもの着物を縫うのだろうな、と思って、また言いようのない不快感が生まれる。
「なぁ、かぐや」
問いかける自分の声が、やけに低い。
「なんですか、弥斗兄」
「おまえ、好いた男はいるのか」
「……なっ、な、んですか突然」
言葉に詰まった様子を見るだけでわかる。かぐやは誰かに惚れているのだ、と。
「わかりやすいなぁ、かぐやは。里の男か?」
「からかわないでください。いませんそんな人」
「そんなに顔を真っ赤にしていると、いるって言っているようなもんだぞ」
「これはっ弥斗兄が変なことを言うから!」
声を荒げたかぐやは、縫いかけの着物を俺に放り投げて逃げ出す。縹色に視界を奪われて、抜け出したときにはかぐやの姿はなかった。
誰かの名がかぐやの口から発せられるのを知らずに済んで、胸がほっとしたような、ざわつくような、そんな不思議な感覚が残った。
その日の午後、雨が小降りになったので外へと出た。稽古に精を出す気分でもなかったので、あの桜のもとへ向かう。湿った風が髪にまとわりつく。
赤く色づいた山の木々の中で、一本だけ違う色を纏っていた桜。
うつくしく咲き誇っていた満開の桜は、雨に打たれて無残な姿を晒していた。花弁はほとんどが地に落ち、土とまじりあってもはやあの白さはどこにもない。聖域が踏み荒らされたような印象が残る。
結局咲いていたのはほんの数日だった。秋の雨に打たれ、寒さに震え、桜の花弁は土へと還る。そして他の桜と同じように、いつしか区別がつかなくなるのだろう。
それはまるで、雷のように突然に落ちた。
「……縁談?」
俺は母上から出された言葉を咀嚼するように、ゆっくりと呟いた。
「ああ、かぐやにね。
どうする? と母上はかぐやを見る。かぐやは驚きで凍りついたまま、言葉を失っていた。母上も意地が悪い。かぐやには、おそらく、好いた男がいると気づいているだろうに。
「織の一族はうちとも付き合いが長い。かぐやは族長の娘っていう肩書もある。悪い扱いは受けないだろうよ。とりあえず見合いだけでもって向こうさんは言っているが」
まぁ、うちの娘にひどい真似をしてタダで済むとは思わないだろうしねぇ、と母上は煙管を咥える。かぐやは膝の上で拳を握りしめ、俯いていた。艶やかな黒髪に隠れて顔は見えない。
母上、と間に割って入ろうと身を乗り出したところで、かぐやが顔を上げる。
「……それは、武の里にとって良き縁談になりますか」
母上に問うかぐやの声は、地面に打ち付ける雨のように、まっすぐとしていた。
「悪い縁談ではないよ。蹴ってもまったく問題はないけどね」
武の里はこの周辺ではもっとも古く、そして力もある。織の一族はたくさんの里とのつながりはあるものの、武力は持たない。その名のとおり機織りを主要な仕事にしている一族だ。力関係からして、こちらがこの縁談を断ったところで向こうは文句も言えないだろう。
「里のためになるのなら、お受けしてもかまいません」
「かぐや!」
堪らず割って入るが、母上もかぐやも俺の声など聞かない。
「いいのかい?」
「ええ」
あまりにも平静なかぐやの声に、こちらが焦りを覚える。
どうして。まだおまえは十五歳だろう。なぜ里を背負って縁談などする必要がある。まして顔も知らない男と、なんて。
「……では、まずは見合いでもしてみるかい」
「お願いします」
ゆっくりと頭を下げるかぐやに、疑問ばかりが浮かぶ。話はそれだけだよ、と母上が告げると、かぐやは「では失礼します」と言って部屋から出ていく。一瞬呆けたのち、慌てて小さな背中を追いかけた。
「かぐや!」
ゆっくりと歩くかぐやに、すぐ追いついた。肩を掴んで振り替えさせると、かぐやは人形のような微笑みを浮かべている。
「なんですか、弥斗兄」
いつもどおりを装った笑顔に、苛立つ。
「おまえ、いいのか?」
「何がでしょう?」
「おまえ、好いた男がいるんだろ? なのにあんな話を受けて……! 見合いなんて形だけだ、すぐに話がまとまるぞ」
里同士で、しかも族長へ直接やってきた話だ。こちらがでは見合いでも、と返事をすることはつまり、よほどのことがない限り断られることはないと向こうも思うだろう。今の段階ならばなかったことにするのは容易なのに。
「かまいません。これも里や母様たちへの恩返しになると思えば、むしろうれしいくらいです」
「恩返しなんて……! おまえは里の人間だ。そんなこと考える必要はないだろ!」
そんなものを求めてかぐやを拾って育てたわけではない。そんなことを理由に、かぐやを利用したいわけでもない。
「本当に恩を返したいというのなら、好いた男と結ばれてしあわせになれ! 里にとってよいかどうかじゃない。かぐやがしあわせになれるかどうかだ!」
かぐやの両肩を掴んで声を荒げる。細い肩を震わせて、かぐやは俯いた。
「好いた男と、なんて」
小さな声とともに、ぽたりと涙が落ちた。
「叶うはずもないのに! こうして傍にいたら、終わりにもできないじゃないですか!」
涙を浮かべた瞳に射抜かれる。その叫びは、まるで。
「……兄なら、兄らしく祝福してください」
小さな手が俺の手に触れ、肩から下された。去っていくかぐやを追いかけることができず、俺はただ立ち尽くす。頭の中ではかぐやの声が繰り返されていた。浮かんでは消える自問自答。
まさか、と苦い笑みが零れる。しかし焼き付いて離れないかぐやの表情も、声も、まるで。
――まるで、あいしていると告げられているようで。
困惑する。心臓が叫び声をあげているかのように騒いでいる。歓喜で指先が震えていた。そう、俺は、この瞬間、たまらなくうれしいと、思ってしまった。
十二年、妹として接してきたというのに。
「馬鹿か、俺は……」
その場にしゃがみこんで頭を抱える。どうして気づかない。どうして気づけなかった。彼女が純粋に兄として慕ってくれているとばかり思って、単純に妹のようにいとしいのだと思い込んで、本当は、家族愛に似たもっと別の感情であったのに。
「邪魔だよ馬鹿息子」
声とともに、背中を容赦なく蹴られた。体勢が崩れて俺は前に手をついて自分を蹴り倒した人を仰ぎ見た。
「……馬鹿だよどうせ」
「ようやく自覚したのかい」
母上は手にしている文を見せびらかすように掲げて笑う。
「知っていたんですか」
「当然だね。何年おまえたちの母親をやっていると思っているんだい。かぐやも、おまえも、他から見りゃ誰でも気づく」
だから馬鹿だと言ったんだ、と母上も容赦ない。……そんなにわかりやすかっただろうか?
「こっちがわざわざ背中を押してやったのに、本人が鈍いのは困るね。だからこうして横槍が入る」
はぁ、と呆れたように母上が溜息を零す。いつ背中を押したというのか。つい先ほど蹴られたことだけはわかる。
「おまえも武の里の男だったってことだねぇ。守りたいもののために強くなる。気づいてないのかい? おまえが自ら『守る』と言ったのは、後にも先にもかぐやだけだよ」
「それは」
あの秋雨の降る日。かぐやを見つけた瞬間に思ったのだ。守ってやらなければ、と。そうしなければこの小さな女の子は死んでしまう、と。目を覚まして泣きじゃくったときに誓ったのだ。守ると、ずっと守ってやると。それは何故か。
義務感などではない。
ただ、守りたいと、思っただけで。
「さて」
母上が試すような笑みを浮かべて口を開く。
「この文は織の一族への返信なんだが、おまえが届けてくれるかい、弥斗」
文に口づけるように俺に見せつけて、俺の返答を待っている。意地の悪い母親だ。
「おまえがかぐやの兄を続けるというのなら、引き受けてくれ。もしそれが無理だというのなら、さっさとかぐやを迎えにいきな」
俺は母上を見上げた。その薄っぺらい紙切れが、運命そのもののように見える。
かぐやは、ずっと、妹だった。
「……文を」
立ち上がり、手を出すと母上は無表情で俺に文を渡した。本当に薄っぺらい。俺は文を受け取ると、数拍もおかずにふたつに破り捨てた。母上が目を丸くしている。
「かぐやは誰にもやりません」
俺のです、とはまだ言う資格がないので心の中に留めておく。母上の言葉も待たずに、俺は踵を返した。背に母上の愉しげな笑い声が響く。くそ、子どもで遊びやがって。
外は、あの日と同じように雨が降っている。
かぐやはどこへ行ったのだろう。里の中ではすぐに見つかってしまうと、山まで行ったかもしれない。
もしかして、とかぐやを最初に見つけたところまで走ってみたが、彼女の姿はない。雨の降る山の中で彼女が行きそうな場所なんて見当もつかなかった。そもそもかぐやはあまり山へ入らない。
「かぐや」
雨の降る日は薄暗い。木の茂った山の中ならなおさらだ。赤く色づいた葉はまだ半分も地に落ちていない。
あの日も、こんな風に雨音に掻き消されそうな、小さな声がしたんだった。一緒にいた他の誰もが「そんな声は聞こえない」と言っていたが、俺にはしっかり聞き取れた。「たすけて」という、小さな声が。
ああ、そうだ。かぐやにはもうひとつ山の中で行きそうな場所がある。
狂い咲いた、桜のもと。
思いついた瞬間には身体が動いていた。日常から山へ入っているので、ぬかるんだ地面も足止めにはならない。衣はすっかり濡れて重たくなっていた。雨が強くなる。
――声が。
いとしい声が、聞こえる。
俺を呼ぶ声が、聞こえる。
「やとにい」
地面に落ちた花弁は、もう土と同化している。桜の花が咲いていたなんて誰も信じてはくれないだろう。しかし俺の目には、一瞬だけ雨の中に咲き誇る満開の桜が見えた。
「かぐや」
涙か雨か、頬を濡らしたかぐやは、最初に出会ったあの日と同じ顔で俺を見た。不安に揺れながら、安堵を滲ませて。
「弥斗兄」
かぐやは微笑んだ。目を奪われるくらいにうつくしい、女の微笑みだった。
「狂い咲きの桜も散って、私の春はもう終わりました。終わりに、します」
俺を見つめてくる瞳は、まっすぐで少し痛いくらいだ。熱とともに切なさを孕んで、俺だけを見つめている。
「弥斗兄、私は、あなたが好きなんです」
指先だけじゃない。身体全体が痺れるように歓喜を訴えた。
「叶わないと知っていても、好きなんです。出会ったあの日から、ずっと、ずっと、弥斗兄だけを、見てきたんです」
「……終わりになんて、しないでくれ」
震えた声でようやくそう呟くと、かぐやは涙で濡れた瞳で俺を見た。細い腕を掴み、引き寄せて抱きしめた。華奢な肩に顔を埋める。髪から香る匂いが、雨に濡れて一層艶やめかしい。
「弥斗、兄?」
「終わりにしないでくれ。俺はやっと、気づいたのに」
抱きしめる腕に力がこもる。これが兄妹の抱擁でないことくらい、かぐやも気づいているだろう。
「好きだよ、かぐや。愛している」
「そ、れは」
かぐやの声が震えていた。おずおずと細い腕が俺の背に回る。
「兄としてじゃない。もう妹なんて思えない。誰にも、おまえをやりたくない」
「終わりに、しなくていいんですか」
「ああ」
「妹じゃなくて、いいんですか」
「俺はもう、兄であるつもりはない」
「好きでいても、いいんですか」
「そうじゃなきゃ、俺が困る」
困るよ、と駄目押しでもう一度告げると、かぐやはぼろぼろと泣いて、強く強く俺を抱きしめ返した。
守ってやると誓ったあの日、俺に縋るように抱きついてくる姿と重なる。守らねば、と。守るために強くあらねば、と思った。この子のために強くなりたいと――それはつまり、俺はあの時からかぐやのことを愛していたのだろう。
雨が俺たちのもとへ降り注ぐ。
静かな雨音だけに満たされた世界は、まるで俺たちふたりとその他を遮断しているようだ。今だけは、誰にも邪魔はされない。
煩わしいだけの雨にさえ、祝福されている気がするんだ。
・
・
・
満開の桜の花が、はらりはらりと花弁を散らす。
かぐやは一年待って秋でもよかったんだけど、と言った。秋は思い出の詰まった季節だから、と。
しかしやはり、白無垢に身を包んだ花嫁に降り注ぐのは、薄紅の花弁が良い。
弥斗兄、と未だ呼び方が変わらないことに困りながらも、まぁゆっくりと慣れていけばいいか、と甘やかしてしまう。この半年は兄か夫か曖昧な状態であったけれど、これからははっきりと夫婦なのだから、妻として夫としての時間はたっぷりとある。
舞い散る桜をいとおしそうに見つめながら、桜の雨だね、と愛しい新妻が笑うので、答える代わりにその唇に口づけを落とした。
夢宵桜 青柳朔 @hajime-ao
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