秋霖

狂い桜

 今でも覚えている。

 貴方と出会った日のこと。貴方に恋した瞬間のことを。




 しとしとと、静かに秋雨の降る日だった。

 私の手を引く母はとても厳しい顔をしていて、どこに行くの、なんて問うことは許されないようであった。

 随分と里から離れたけれど、傘も差さずに歩いてきたのですっかり濡れてしまっている。寒い、と訴えることすら怖くてできない。繋いだ手だけが、とても熱かった。

 くしゅん、とくしゃみをすると、初めて母がこちらを見た。

「……すっかり濡れてしまったわね」

 私の濡れた黒髪をぎこちなく撫で、母は言う。そういう母も、ずぶ濡れだった。

「どこか近くの里からでも、拭くものを借りてきましょう。ほら、そこの木の根元なら、おまえが入れそうな穴があるわ。……待っていなさい、かぐや」

 幼い私は素直に母の言うことを聞いて、雨露をしのぐように穴に入り膝を抱えた。母はなぜか突然、いつもよりも口数が多くなったことに、気づきながら。

「いいこと? 山には獣もいるのだから騒いでは駄目よ。ちゃんとここで、静かにして、いい子で待っていなさい」

 私がこくりと頷いたのを見ると、母は来たときよりも足早に去っていった。


 今になって思えばすぐにわかる。母は、私を捨てるために山を彷徨っていたのだと。そして私を置き去りにして行く理由を探していたのだと。

 事実、母は迎えにこなかった。一刻が過ぎても、あたりが暗くなり始めても、母の姿は見えなかった。


 雨の日は昼間も暗い。太陽がいつ沈んだのかさえも分からず、暗闇の中で私はじっとしていた。

 わずか三歳だった私も、もう母には会えないのだろうということはなんとなく理解できた。夢占ゆめうらの里は、残酷だ。力を持たぬ子を容赦なく山へと捨てる。

 私の生まれた夢占の里は、夢によって未来や過去を視ることができる人々が住まう里。

 しかし時折、その力を持たぬ能無のうなしの子が生まれた。そういった子どもは、成人前に捨てられる。たいていが三歳から五歳ほどで、私のように山に置き去りにされるのだ。連なる山々は広く、幼い子どもに帰る道はわからない。

 雨に濡れた身体が、熱を帯び始めていた。

「たすけて……」

 かあさま、とうさま。

 呼んでも両親は来てくれない。だから私は熱に浮かされながら、ただ誰かに助けを求めた。

「たすけて」

 じわりと涙が滲んで、頬を流れる。このまま死ぬのだろう、と幼心に悟った。秋雨は私の小さな声を掻き消してしまう。意識が朦朧として、目を開けていることすら難しくなってきた。

 重い瞼を、もう閉じてしまおうと思った、その時だった。

「見つけた」

 声変わり前の、少年の声だった。

 涙と熱でぼんやりとした視界に、ほっと安堵したような、それでいて心配そうな顔の少年が映る。

「おいで」

 もう大丈夫だよ、というやさしい声に、私は泣きたくなったのを覚えている。けれど実際は彼の腕にそのまま倒れこみ、意識を失ったのだ。


 目を覚ますと私はあたたかい褥の中にいた。私の右手は少年がしっかりと握りしめていた。

「あ、起きた」

 嬉しそうに笑って、彼は私の額に手を乗せる。そうして熱を測って「うん」と頷いた。

「熱も下がったみたいだな」

「ここ……」

 何も把握できていない幼い私は、ぼんやりとした声で呟いた。

「ここは、武の里。俺がおまえを見つけて連れてきたんだ。おまえ、夢占の里の子だろう?」

 こくりと頷くと「そっか」と少年は頷いた。

「俺の名前は弥斗やと。おまえは?」

「……かぐや」

 かあさまがつけてくれた、名前だ。

 じわりと涙が浮かんだ。捨てられたのだ、という現実が幼い私の頭に雪崩れ込んできて、涙になって溢れた。声を上げて泣き喚いた。

 不思議なことに、私はかあさまが私を探しているのではないか、なんて甘い幻想を欠片も抱かなかった。幼くても夢占の里の子だ。能無しの子がどうなるのか、悟っていた。

 突然泣き出した私の声で、何人か大人が部屋へと駆け込んできた。弥斗という少年は、あたふたと困ったように目を白黒させた挙句、私をぎゅうっと抱きしめた。

「泣くな、だいじょうぶだから!」

 ひく、と驚きで涙も止まる。

「だいじょうぶだ! 安心しろ、俺がおまえを守ってやる! ずっと、おまえを守るから!」

 ずっと、という言葉に、私は縋り付いた。ならば、私はもう捨てられることもひとりになることもないのだろうか、と単純な考えだった。

「……ほんとうに?」

「本当だ。武の里の男は嘘なんてつかない!」

「ずっと、まもってくれる?」

「ずっと守るよ」

「ずっと、いっしょ?」

「ああ、ずっと一緒だ」

 しっかりと頷くのを見て、私は笑った。この人と一緒ならだいじょうぶだ、と幼い私はそう信じ込んで、彼の胸に抱きついた。


 そうして私は、彼の、弥斗兄の義妹いもうとになった。

 今になって思う。私はきっと、手を差し伸べられたあの瞬間に、私を守ると約束してくれた彼に、恋に落ちたのだ。

 長い長い、叶うことのない恋のはじまりだった。




 頬を撫でる風は冷たい。すっかり夏は過ぎ去って、武の里にも秋がやってきた。先日から降り続いた雨は上がり、今日は青空を覗かせている。

「弥斗兄! どこまで行くの?」

 朝起きて、朝餉もとらずに弥斗兄は私を山へと連れ出した。武の心得のない私が里の外へ出ることを、いつもならば渋るくせに。

「もうすぐ!」

 まったく、もう二十二歳にもなるのに、こういうときは無邪気な少年のようだ。年上の男の人なのに、可愛いなんて思ってしまう。

「かぐや、大丈夫か? 疲れた?」

「このくらいで疲れたりしません。それより見せたいものって?」

「それは、着くまで内緒」

 にかっと久々に見せた晴れ間の太陽のように笑って、弥斗兄は私に手を差し出す。山道で歩きにくいからだろう。素直にその手に甘えてる。大きな手は私の手をすっぽりと包み込んでしまう。そんな小さなことに、胸が鳴った。


 ひらり、と薄紅の花弁が視界の端を舞い落ちる。


 え、と声が漏れた。それは、春によく見る花の名残。弥斗兄がにんまりと得意げに笑った。

「ここだよ、かぐや」

 弥斗兄が指をさす先には、満開の桜の花があった。どうして、と声が落ちた。今は秋だ。山では虫が鳴いて、風は切なげに夏の終わりと、冬の到来を告げている。

「驚いたろ。この間見つけたんだけどさ。桜が咲いていたんだ」

 狂い咲きだな、と弥斗兄は呟く。周辺にある木は自然の摂理に従い赤く葉を染めている。

「おまえに見せたくなってさ」

 記念の日だしな、と弥斗兄は桜をいとおしげに見つめながら呟く。


「十五歳、おめでとう。かぐや」


 今日は、私の十五歳の誕生日。私は、成人の日を迎えた。


 周囲の木々とは異なる姿を見せるその桜は、異質で異様で、うつくしかった。狂った末の、堂々たるその姿は桜が桜であるように潔い。

 けれど、その孤独な姿はどこか私に似ている。同じだけど、同じではない。私は、武の里で暮らしているけれど、どこか違う。血のつながりなんてない、武器を握ることもできない。武の里で武器を扱えないのは、赤子と私くらいなものだ。

「ありがとうございます、弥斗兄」

 咲き乱れる桜と同じように狂っている私自身に気付かれないように、いつも通りに微笑む。

「本当に欲しいものとかないのか? 祝い事なんだから何でも買ってやるのに」

 数日前に何か欲しいものは、と問われたことを思い出す。特に思いつかなかったの「何も」と首を横に振ると、弥斗兄は少し残念そうに笑った。

「かぐやは無欲だなぁ」

 もっとねだっていいのに、と私を甘やかしたくて仕方ない弥斗兄は、私の頭をくしゃりと撫でる。

「無欲では、ないですよ」

 そんな清らかさなど、私には欠片もない。本当は、ずっとずっと前から喉から手が出るほどに欲しているものがある。

「何でも買ってやると言っている兄に何もいらないって言っておいて」

 くすりと弥斗兄が笑った。お金で買えるものではないんですよ、と言ってしまいたい。

「弥斗兄は隙あらば私を甘やかすので、これくらいでちょうどいいんですよ。私が甘ったれで何もできない子になったらどうしてくれるんですか」

「今更べったり甘やかされたところで、かぐやはしっかり者のままだと思うけどなぁ」

「身内の欲目です」

「欲目なもんか。あー……かぐやも成人かぁ。そのうち嫁に行っちゃうんだなぁ。兄さんはさみしいなぁ」

 どきりと心臓が震えた。嫁、なんて。

 ――あなたが独り身である限り、そんなふんぎりもつかないのに。

「さみしいなら、弥斗兄こそ早くお嫁さんをもらえばいいじゃないですか。知っているんですよ。弥斗兄、もてるでしょう」

 武の里の若い女たちは、一度は弥斗兄に恋をしたといっても過言ではない。

 弥斗兄は世話好きだし、強いし、このとおり女にやさしいので、ころりと落ちてしまう女はたくさんいた。けれど弥斗兄にまったくその気がないもので、泣く泣く諦めて他の男に嫁いだ女も少なくない。

 最近では女の敵だ、なんて言われている。無自覚に惚れさせて、希望も与えてくれないのだから。

「嫁さんねぇ……考えたことなかったなぁ」

「次期族長はそれでは困りますよ。跡取りがいなくなってしまうではないですか」

「別にほら、俺が継ぐと決まったわけでもないし。継いだとしても俺の子どもが継がなきゃならんわけでもないだろ? 白妙しろたえんとこのチビが継いでもいいし、おまえが結婚して子どもができれば、おまえの子でもいい」

 血筋を軽んじているわけではないが、武の里は実力主義だ。強い人間が族長になる。

 母様は強い戦士であるし、頭もいい。弥斗兄はその血を色濃く継いだ、優秀な人だ。人望もある。誰もが弥斗兄が継ぐと思っている。当の本人はこんな様子で、従姉夫婦のまだ小さな息子やまだ生まれてもいない私の子どもを引き合いに出してはぐらかす。

「……弥斗兄。まさかまだ白妙姉さんのことが好きなんですか?」

 ずっと疑問に思っていたので、今が好機と問う。弥斗兄は普段なら躓くこともない木の根に躓いてものの見事に転んだ。

 わかりやすい――いささかわかりやすすぎるくらいの動揺に、溜息がでる。

「な、なんでおまえ」

「里の皆が言っていましたよ。昔はよく有仁ありひとさんに食いかかっていたって。相手はもう人妻で母親なんですか、すっぱり諦めたらどうですか」

 弥斗兄は顔を真っ赤にして「いや」「ちが」と口籠る。

 従姉である白妙姉さんは既に二人の子持ちだ。早くに祝言をあげていて、私がこの村に来たときには既に人妻だったと思う。夫君である有仁さんに勝負を挑んでは負けていた、と母様を含めたくさんの人から聞かされている。私も来たばかりの頃の記憶はもう曖昧なので覚えていない。

「別にまだ白妙が好きなわけじゃない。そこまで馬鹿じゃないぞ俺は。まったく誰だよそんなの吹き込んだやつ……」

 弥斗兄は衣についた砂を払いながらぶつぶつと文句を言っていた。

 初恋は特別だと聞きますから。弥斗兄にとって白妙姉さんはずっと特別な女性なんでしょう。私にとっての弥斗兄が、永遠にそうであるように。

 そう思うと嫉妬することすらできなくて笑うしかない。




 その夜、家族四人で夕餉をとっていると、母様がふと「十五歳か」と呟いた。

「かぐやがうちに来てもう十二年になるんだね。早いもんだ」

「どうしたんですか、母上。年寄り臭いですよ」

 女性にとっての禁句を口にした弥斗兄に、馬鹿だなあと思いつつ私は援護しない。案の定母様がじろりと弥斗兄を睨み付けていた。

「そりゃあ年もとるだろうさ。おまえも二十二歳だからねぇ」

 低く唸るような母様の声に、弥斗兄もしまった、という顔をする。

 こういう話題のときは、たいてい弥斗兄はいつ嫁をもらうのか、という話になるのだ。母様も父様も急かすつもりはないようだけど、やはり年齢的にどうしても避けられない話題だ。

 しかし母様は珍しく、それ以上は弥斗兄に言い返さなかった。あれ、と私も首を傾げつつ母様を見る。すると母様と目が合う。え、と私は思わず呟いた。どうして、私を見ていたのだろう。

「そろそろかぐやも、良い相手を見つけなきゃならないねぇ」

 淡く笑みを零した母様の言葉に、私は何も言えなかった。予想していなかった。まさかそういう話題が、私にまわってくるなんて。

 成人なんて、ただ形だけのものだ。周囲は私を子どものままにしていてくれるだろう、私を取り巻く平穏が壊れることはないだろう、と。

 母様のたった一言で、心臓はどくどくと強く脈を打っている。

「相手なんて」

 静寂を割ったのは、わずかに怒気を孕んだ弥斗兄の声だった。

「母上、かぐやにはまだ早いです」

 表情だけは平静を装っていたけれど、声だけで苛立ちが含まれていることがわかる。どうして弥斗兄が怒るの。今日の昼間には、弥斗兄も似たようなことを言っていたじゃないの。

「……まだ、成人したばかりだというのに」

 この家において、いや、この里において母様の言葉は絶対だ。なんせこの武の里の族長である。

「早いもんか。白妙だって十六歳だか十七歳で祝言をあげたんだ。それを考えたらそろそろ見つけておかなきゃならんだろ」

「白妙は、相手が先にいたからであって……」

「だいたい、おまえが口出すことじゃないだろ、弥斗。私はかぐやの花嫁姿を早く見たいんだよ」

 可愛い可愛い娘だからね、と母様は笑う。こういう場で父様は発言権がない。ただ微笑んでその場を見守っているだけだ。どうするべきか悩んでいると、矛先がこちらに向いた。

「かぐや」

「は、はい」

 緊張と困惑でびくりと肩が震える。母様はやさしく微笑みながら「かしこまることはないよ」と言った。

「そういうことだ。もし好いた男がいるなら、教えておくれ。里の男ならこちらから打診してやる」

 どくん、と今度は淡い期待で心臓が跳ねた。

 好いた男がいるなら。もちろん、ずっと想い続けた人がいる。けれどそれを告げることなんて、できるはずはない。

 だって私は、義兄が好きなんですよ、母様。あなたの息子が、好きなんです。

 私はあなたの娘なのに。娘に、してくださったのに。


「なぁに、かぐやみたいに器量良しを振る男なんていないよ」


 家事もできるし、良い嫁になるよ、と母様が誇らしげに言う。父様もそうだな、と頷いていて、弥斗兄だけがまだ憮然としている。

 本当の親よりも親らしく、夢占の里では手に入れることができなかったであろう、理想の家族。その家族を壊すつもりはない。

 私は、ただ終わりを待っていた。この春の、終わりを。


 ――秋雨の降るあの日から、ずっと抱えてきた想いがある。


 胸の中で、満開の桜が散っていた。秋に咲いた春の桜。狂って狂って、それでも堂々と咲き誇る。狂ったことすら運命なのだと告げるように。

 狂った末のこの恋は、どうなるのだろう。


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