美醜
鹽夜亮
美醜
美醜
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ…。」
酷く使い回された言葉を、彼は繰り返し繰り返し唱えていた。寂れた、駅近くの商店街を目的もなく歩きながら、彼は苦悩に身をやつしていた。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ…。俺は、美に属したまま生きることができると思い込んでいた。美という魔力を、信奉しすぎたのかもしれない。」
彼は、横をそそくさと通り過ぎた薄汚れた黒猫にさえ気づくこともなく、黙々と歩き続けた。
父が一ヶ月前に死んだ。しかも、それは唐突に訪れる種別の、悲劇であることに変わりないものの、世間的にはありふれている悲劇のうちの一つだった。父の死後二三日の間は、彼ら家族を途方も無い混乱と、悲嘆と、現実感の喪失が襲った。彼らの中の一人として、現実について思い悩むことはなかった。葬儀やその他の手続きはたしかに、現実的なものではあるが、それさえも無意識に近い白昼夢のような状態の中で過ぎ去って行った。その証拠に、喪主となった彼は、父の葬儀にどこの家の誰が参列してくれたかであるとか、香典は全額でいくらいただけたとか、それらのことは何一つ記憶していなかった。
彼が父の死後三日間で記憶していたのは、額の中で笑顔を作っている父の懐かしい顔と、脳裏にこびりついた母の泣き声と、暗唱できるほどに幾度もきかされたお経の一部だった。
死後四日目になって、彼ら残された家族に襲いかかったのは、現実という悪夢だった。まず、何よりも彼ら家族は、食事をせねばならなかった。種々雑多なローンを払わねばならなかった。彼の通う大学の学費を払わねばならなかった。これらの問題を一身に背負い込み、突然に最愛の夫を亡くした母が発狂するのは、実にあっけなかった。
兆候は一週間であらわれた。彼の母は、何もせずにひたすら泣き続けることをやめると同時、一切の表情を喪失した。その変化は彼にとって、同情というよりも恐怖に似た思いを抱かせた。母は、機械のように突如として冷淡に変わった。彼の母は、表情と同時に感情さえも喪失していたように彼には思えてならなかった。
何一つ行動することのできなくなった母を横目に、彼は生存するための懸命な努力を開始した。
家事の一切と、夜間のアルバイトと、学校を並列的に取り組んだ。それは多忙の中に父の消失を埋め合わせる意味合いもないわけではなかった。だが、彼自身がそれに気づくことはなかった。彼は必死だった。母を守らねばならなかった。自らを守らなければならなかった。父が築いた家と、その血を、守り通さねばならなかった。
父の死後三週間たった金曜日。十六時までの講義を終え、十八時から日付の変わるまで続くアルバイトをこなすと、彼はいつも通り過ぎ去った一日にある程度の満足をおぼえつつ、帰路を急いだ。車内から夜空を見上げると、美しい三日月が静まり返った町を見下ろしていた。
鍵を開け、自宅へと入ると、すぐに違和感に気がついた。居間の明かりがともっていた。病んだ母は、もう数日も居間に降りてきてはいない。この事実から、彼はある希望的観測をした。母が、この居間の扉を開けたら、笑顔で立っている。「おかえり」と彼に言う。彼は「ただいま」と答える…。
だが、現実とは残酷なものである。時には残虐といっても過言ではない。
居間へ続く扉を開けた彼を待っていたのは、カーテンレールの下にぶらぶらと揺れている、母の身体だった。
彼は、その後のことを何一つ記憶していない。泣いたかどうかさえ、記憶にない。ただ、気がついた時には、こうして町を彷徨い歩きながら、当てもなく「生きるべきか死ぬべきか」と唱えているのだった。
彼は、今が昼であるか、夜であるかさえ理解できなかった。視覚を通して脳に映る光の束が、日光によるものか電灯によるものか、判別することができなくなっていた。
ただただ歩く彼の頭の中にあるのは、二つの両極化した考えだけだった。すなわち、泥水をすすってでも人間としての生存を貫くべきなのか、まだ理性の残滓がほんの少しでも残っているうちに、彼の思う美の中で死に絶えるべきなのか、である。彼はもちろん、この考えの最中に、幾度も脳裏に羅生門を思い描いた。その中にある死体を。その髪を一心不乱にむしる老婆を。自分と同じように右の頬に面皰のある下人を。だが、いくら考えてみたところで、下人の行方は彼に知れるわけがなかった
「どうすればいいのだ。俺には、下人のもっている太刀がない。近くに軽蔑すべき老婆もいない。死体も転がっていやしない。ウェルテルの手に入れた、最愛の人の涙で濡れた拳銃もない。それでもなお、生きるべきか?だが、下人の行動は、美しいものだったか?ウェルテルは脳髄を撃ち抜いたからこそ、美しかったのではあるまいか?待てよ…だが、ラスコーリニコフは死ななかった…。ならば…いや違う。あれには娼婦がいた。そうだ。世にも美しい、娼婦がいた…。」
彼の歩みは、その肉体の原因によって、自覚のないまま速度を落としていた。足取りはふらついていた。事実、彼は幾度か路上の段差に、薄汚れた電柱に、横を通る柄の悪い男に、身体のどこかしこをぶつけていた。
次に気がついたとき、彼は彼の家にいた。家は静まりかえっていた。太陽はすでに堕ちたようで、室内は暗闇に包まれている。彼の右手には、ナイフが握られていた。彼は、その鋭い刃に、見覚えがないことを感じた。カーテンの隙間から差し込む柔らかい月光に、その刃は鈍く、拍動するように輝いた。
「右手にはナイフ。ナイフ…。…。」
ぶつぶつ、と静かに彼は呟いていた。自覚もないままに。
「右手にはナイフ。ナイフ。どこを切れば…どこを切ろうか。切腹には長さも鋭さも、趣も足りない。それに、介錯人のいない切腹は酷く苦痛だという。それは…それは嫌だ。」
彼は、右手のナイフを見つめたまま、うろうろと室内を歩きはじめた。
「首か。そうだ。やはり、ここは首だろう。手首はダメだ。死に切れるとは限らない。死ぬからには、死に切らねばならない。そうでなければ。美ではない。俺は、美のために死ぬのだ。ならば、冷静に。徹底的に、方法は吟味せねばならぬ。欠片も、醜くあってはならぬのだ。」
明瞭な言葉と、意味をもたない単語の羅列が、交互に繰り返された。それはあたかも、彼の理性と狂気が、互いに鬩ぎ合って、代わる代わるに移り変わっているようだった。
「ふむ。方法は決まった。次は、手順だ…。まずは、…そうだ。身体を清めるか。屍は、綺麗であるにこした事はない。」
彼はそういうと、右手のナイフを大切そうにガラスづくりのテーブルの上に置き、服を脱いで几帳面に折り畳むと、シャワーを浴びにいった。
シャワーというのも、この世で最後だと考えると、それなりに感慨深いものである、と彼は考えていた。肌の上を温水がすべる、若干の艶かしさをも含むこの、日常的で健康な快楽は、正真正銘今回で最後なのだ。そう思えば、細い二の腕を伝い降りて行く水滴一つさえ、どこか愛おしい。特に、首は念入りに洗った。対して意味もなかったが、これから己の手によって、この皮膚が切り裂かれるのだと思うと、今までになく自分自身の肌が愛おしく思えた。何気なく浴室内の手鏡を見ると、髭の手入れをここ数日間していなかったことを思い出した。カミソリに泡をつけ、丁寧にそり落とした。剃り終えた後のつるりとした手触りに、忘れかけていた自分の若さを思い返した。だが同時に、その感触は鱗のないアルビノの魚類を触ったときのような、どことない気色の悪さも孕んでいた。
次に彼が右手にナイフを持ち直した時、それ以前にみられた狂気のようなものは、もう表れなかった。かわりに表れたのは、驚くべき冷静さと、ある種気味の悪い落ち着きと、多幸感であった。
「何もかも、万事上手くゆきそうだ。身体は清めた。身だしなみも…問題ない。なに、決して俺は美男ではないが、出来る限りのことはしたさ。恥じる事はない…。さあ、死ぬとするか。」
彼は仏間に移動すると、仏壇の前にあぐらをかいた。そのまま、軽く会釈をすると、右手にもったナイフを首の左側面に沿わせた。
その冷たさは、いつかどこかの女が、冬空の下の戯れに彼の首筋に指を這わせた時の感覚を思い返させた。だが、女の名前も顔も、声も、服装も、彼には何一つ思い出されなかった。ただ、一抹の幸福感とともに、女の髪の香りだけは、ふわりと彼の鼻腔をくすぐった。無論、それはただの幻想に他ならなかった。後に残ったのは、不気味にこちらへ伸ばされる、何もない暗闇から伸びる病的に白く、細長い、儚げにも美しい指の印象だけだった。
ナイフをゆるやかに引くと、驚くほど軽く皮膚は裂けた。血は生暖かかったが、それは彼の予想よりも遥かに少ないものだった。切り口が浅かったことを察するには、それで十分だった。彼は、少々気怠げに一度深呼吸をすると、もう一度同じ位置にナイフを沿わせた。今度は両手でしっかりと柄を握った。力を入れる行為は、たしかに彼の命脈を断つ事を如実に顕していたにもかかわらず、容易なことのように思われた。事実、それに使う腕力は、普段風呂で凝り固まった首筋をほぐすために使うものと、大差なかった。
今度は、確実に深くえぐった。両の手に、ぶつり、と己の血管を切断した感覚が伝わった。瞬間、視界が深紅に染まった。
仏間一面に撒き散らされた、赤ワインのような彼の血は、たしかに美しいに違いなかった。
美醜 鹽夜亮 @yuu1201
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