かぐやひめ
ゆきさめ
かぐやひめ
見上げた先、完璧な姿とは相違のある月が一つきり。
私は大樹の根元に身を寄せて、一人きりで呟くのだ。
「虧月を見たことはあるか」
今は常に虧月である。
知っての通り皓皓と輝きをばら撒くそれは、私の知る限り、盈月の顔を見せたことはない。欠けたまま満ちもしない、だから今見ているこれなるは、やはりどうやっても虧月なのである。
欠けたまま、故の虧月である。
歪み一つない美しい球体こそがあれなると誰が言ったか、勘違いも甚だしい。事実、あれなるは歪みもない完璧な円であり球であり完成したものであるということを、赤目の私らは勿論理解しているわけだが、真の姿は虧月さえも美しい永久浄土なのだ。このような、今私のいる大樹が根を張る此処、穢土とは、そう、月となんとかといったところか。
降る柔和な明かりはまさに瑞光であり、あすここそまほらばであるのだ。
それを一体何人が知るというのか、誰もが月の裏側を見たことはない。
しかし私の母、あるいは祖父、または兄はそれを知っている。私から血族へ教える術はもう持ち合わせてはいないのだが、だからこそ私もまほらばであると知りうるのだ。
さて、しかし、あれなる『ぎょくと』とは、いかなる字で示されるのかをご存知であるかね? 美しき玉の字に、なんと私らの名を続けているのである。つまるところ、想像は容易であろうが、私らの本来住まうべき場はあれなる玉兎である!
私らは瑞光包まれるかの玉兎、そしてかの浄土まほらばにいるべきであったのだ。あすこにおいては、虐げも、横暴も、何もなかった、なかったはずなのだ。
嗚呼。このままこうしていれば、いつかきっと、母の時のように使者が大車輪の車を引き引き連れ立って、美しき白い羽衣を私の肩にかけるに違いない。
そして言うのだ、「栄光の迎えがあなたにも」と。
そのときは私は豊かな白の衣を風になびかせ、使者を連れ従えて、焦がれに焦がれた瑞光の向こうへと失せるのだ。そこにはきっと母もいるに違いない。
私は白い羽衣がいいのだ。
それというのも私の母は、使者が来る直前までは濡れそぼった赤の衣に身を包み、それから昇っていったわけだが、それはどこまでも穢土のものであったのだ。私らが元々纏うこの白こそ浄土に相応しいだろうに、白は自慢である。
――はて、母が迎えられ随分経ったが、いまだに私への迎えは来ない。
遅い、遅い。
私はこの大樹の根元、あらゆることに用心しいしい虧月を見上げ続けているのだが。滴るように溢れる柔らかな光に、この瞳を向けているのだが。
いつかに、月の法典にはこうあると聞いた。
『すべての子らが玉兎となるように』と。
母はそう言って最期のときまで私を宥めていらしたが、その頃の私はといえば大樹の窪みにこの身全てを隠してしまえる程に幼かった故に、法典の意味を知ったのはつい最近である。
知った今、私は乞い願うしかなかった。
栄光たる迎えはまだか。
唯一の母の抱擁はまだか!
虧月の裏側に住まい、まどかとなったそれに皆で満足する日はいつであるか!
嗚呼ッ、こんなことであれば母の白を染め上げた鉛玉に、この身を奮い立たせて向かうべきであったのか。もはや手遅れ、遅すぎるのだ。
今日も普段のように見上げたそれは、普段と変わりない瑞兆を見せつつも、普段と全く同じく静かに欠けた姿を晒していた。
僅か、滲む。すべての輪郭が、とける……。
――『絶滅を危惧されていた白兎でございますが、この度どうも、最後の一ツと見られる子兎、その死体が今朝、今朝の薄ら明るい頃に発見された次第でありまして、監視と研究としておりました者どもの調べによれば、どうやら大きな外傷も飢えもなく、また禁止区域に人が立ち入った様子も御座いません故、死因は不明と申しておりますものの、大樹の根元には子兎の母と見られる、これまた酷く腐乱した死体が置かれたままになっており、この腐敗した劣悪極まりない環境が直接的原因ということも視野に入れ、本件解明に急ぐとのことで御座います、これでまた一ツの種が絶えたわけでありまして、私たちはこの事実現状を受け止め、――
穢土に別れを、しかし眼下、穢土は広がるばかりであるらしい。
玉兎が堕ちる日もそう遠くはないかもしれない。玉兎は瑞光そのものであるゆえ、潰えたときこそすべての崩壊であろう。
しかし今は満ちた月の日。あの日から月は満ち欠けを完全になくし、虧月盈月の区別は消えた。ここに存在する中で唯一完璧な球体を取り戻した月が意味することは、あの子兎が真に玉兎となれたことである。
月の裏に兎は帰る。あるいは還るという。
月の赤い日は子兎の赤い目に責められているようには思えないだろうか。それは思い違いであっただろうか。
果たして月はまほらばか?
「居心地はどうだ」
「悪くない」
「それはよかった」
見下ろす赤い瞳は責め立てている。
かぐやひめ ゆきさめ @nemune6
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