Ⅳ
ミナと別れたジルは、その足で自室へと向かう。
自室と言っても伯母であるカルナの家はさほど大きくはない。二階の二部屋はミナとカルナが使っているので、ジルが貸してもらっている部屋はかつて物置の代わりに使っていた、所謂屋根裏部屋だ。
数年前まではミナと同室だったのだが、流石にこの歳になるとまずいのではないかと考え、別室に移ることにした。
初めはカルナが自室を貸そうと提案してくれたのだが、ジルはこれを固辞した。元より寝所にそれほど頓着がなかった故、とりあえず寝られるならば何処でもいいジルにとって、部屋というものにさほどこだわりはなかったからだ。
と、いうのは表向きの理由であり、実際はこの部屋の立地にあった。
林を背にしたカルナの家は、裏側に煙突がある。
一階から伸びる石造りの煙突が、屋根裏部屋の窓のすぐ隣にくるのだ。
これを梯子代わりにすることで、容易に誰にも気づかれることなく家を出る事ができるのである。
これのおかげで、夜間の稽古に励む事ができる。
ジルは窓を開けると、慣れた手つきで石組みの隙間を探る。
一つ目の手掛かりを見つけると、スルスルと降りてしまった。それも、片手には例の木剣を握った状態で、である。
日々の鍛錬で培った、細くともしなやかな筋肉のなせる技だ。流石に指一本で自身の体重を支えることはできないが、片腕さえあれば自身の身体を持ち上げることくらいはできる。
なにせ日に数百回もあの木剣を握って振るっているのだ。雨の日は外に出れないため、簡単な筋トレに留めてはいるが、それ以外にはここ数年、一日たりとも欠かしたことはない。
その成果が、ジルの身体には如実に表れていた。
既にここの上り下りは苦ではなくなって久しく、特に休むこともなく、ジルは林の中へと駆け出した。
ジル達の住むカンパー村は南北に長く伸びる“別つ山脈”のちょうど中央、特に高くそびえる
今ジルが向かっているのは、山と村との間に位置する、そこまで広くない森の中心である。
村に伝わる森人伝説から“
森人森には特に危険な生物が出るというわけでもない。森人が守護するために、常に清純な気が流れ、妖の者も近寄れぬからだという。
とはいえ、夜の森はそれだけで危険である。
魔物は出ずとも、熊などは出る上に、この辺りではボーガと呼ばれる熊よりも凶暴な大型の猪もいる。
大人の女の背丈くらいはありそうな牙に、小屋程の巨体。縄張りを持たずに常に徘徊する故に居所を掴めぬ神出鬼没性。
村の近くに現れればちょっとした災害として扱われる程の生物である。
鍛えているとはいえ、子供のジルには勝ち目のない相手である。
そう言われると寧ろ燃える
せいぜいが、出てきたら相手してやろうという程度のものだ。
無論、出会わぬに越したことはないのだが。
では、なぜジルがそのような危険を冒してまで辺鄙な森の奥深くに分入ってるのかというと――――
「来たか、『選びし者』よ」
しゃがれた老人の声にも、ただの木々の擦れる音にも聞こえるその声に、ジルは足を止めた。
「あぁ、来たぞ、木偶の坊供。今夜も付き合ってもらおうか」
そう答えるジルの足元で土塊が爆ぜ散り、静寂の森にパーンと頬を張るような甲高い音がこだまする。雑草がちぎれ飛び、緑の大地に一箇所だけ土色の地面が見える。その中心で椎の実に似た木の実がポツリとこちらを見上げていた。
「今宵の試練はそれだ」
告げる声とともに眼前に向け飛来する二つの殺気。それらを手に持った木剣ではたき落とす。
一つは完璧に凌いだが、もう一発は軌道を変えるのがギリギリであり、頬をかすめて背後の木にめり込んだ。
ツーっと熱い液体が頬を伝う。
「試練に耐えられぬ者には死あるのみ」
その言葉には欠片も慈悲の色がなく、完全にジルを殺す気であるのが分かる。
油断なく、今はそれ一つが頼りの木剣を、左手で正眼に構えた。
「全く、スパルタにも程がある」
今度は四方から一発ずつ、フェイクの入り混じった木の実がジルめがけて飛来する。
カンッと、およそ木の実と木剣がぶつかり合ったとは思えぬ高い音が二度、夜の森に響き渡る。
剣を持つ左手と顔面にめがけて飛来した実を無視し、本命である右脇、背後からの右腿狙いの凶弾を振り返りざまに袈裟斬りの要領で叩き斬ったのだ。
軸を右にずらした為に、最初の二発は大きく的を外し、夜の闇に消えた。遠くでカツーンと音が響く。
「武器を持つ手と顔面への攻撃。人の心理を利用した、いい罠だ」
ジルはそう分析した。
戦闘において武器を持つ手への攻撃というのは非常に警戒される。
下手に攻撃されて武器を落とせば、丸腰で戦う羽目になるからだ。
顔面は言わずもがな、人体の急所である。
これらへの攻撃は過剰な防衛を誘い、結果的に隙の誘発へと繋がることがある。
しかし、今回の本命である脇と太腿。ここも人体にとっては十分に急所たり得るのだ。
両者とも比較的太い血管が通っており、深く傷つけば出血多量でのショック死もありうる。
その上、武術の型において、これらを守るようなものは少ない。
これはひとえに鎧のおかげだろうが、今のジルはチェニックに鹿革のパンツである。この程度ではこれらの急所を守りきれるとは言い難い。
故に、比較的狙いの推測が容易な正面、左からの攻撃は軸をずらす程度の回避にとどめ、本命である右、後方からの狙撃に対処したのだ。
そうは言っても、この木の実の速度に対処できねば意味がない。
流石に銃弾とまでは行かずとも、その弾速は落ちる雨粒よりなお早い。
並の者ならば、目で追える程度である。
ジルはそれを、
居合道の達人は、モデルガンから射出され、亜音速で迫る直径六ミリのBB弾を切ることができるという。
あらゆる武術、格闘技においても頂点に立った記憶のあるジルにとって、この程度のことは造作ない。
とはいえ、それは修行を積んだ全盛期の大人の体でのことであり、多少の体力は付いているとはいえ、子供の矮躯で行うのは少々骨が折れる。今はまだ木剣すら自由自在に操れるわけではないのだ。
無理な回避から斬撃を放ったせいで、足元を狙った一撃への対処が遅れる。
飛び跳ねてこれを避けるも、すぐに空中に逃げたことが失策だったことに気がついた。
「意地の悪いっ!」
空中にいるジルに向けて、八方からの偏差射撃。
それはどこをどう凌いでも、一つは当たるように仕組まれている、息を呑むほど完璧な
ジルは右腰のあたりに剣を構え、ギリギリまで耐えてから一気に反時計回りに体をひねりながら、剣を薙ぐ。
四つの実が粉微塵に砕け、三つが軌道を逸らされてジルの体をかすめていく。
しかし、最後の一つまでは剣が届かない。
既に七発の弾丸を無力化した剣は、傷だらけになり勢いを完全に削がれていた。このまま最後の弾に当てたところで、衝撃に負け大きな隙を晒し、次の一手で死ぬだけである。
「ふんっ!」
ジルは回転する体の勢いを利用して、体のど真ん中に迫る最後の一発の前に右手を出す。
掌の親指と人差し指の間に木の実が突き刺さった。
鋭い痛みと衝撃とともに、右掌から多量の血がこぼれ落ちる。
着地点に赤い雫をこぼしながら、ジルは夜闇に紛れる気配に向けて視線を向けた。
「当たると分かっていれば、それを前提に動けばいいだけだ」
右腕をだらりと下げながら、なおも周囲に気を配るジルに対して、木の実が飛んでくることはなかった。
どうやら、今日のところは合格らしい。
背後で風が一声鳴く。
振り返ると、そこには異形の者が立っていた。
一本の木から彫り出したような、歪な
目や鼻、口といった穴は木の
「これが敵であれば、死んでいたぞ『選びし者』よ」
森人。
木から生を受け、木と共に在る者。
森の
今では、子供を不用意に森に近づけぬ為の伝説と成り下がっていたそれが、眼前に正体を曝け出している。
ジルはそれに臆する様子もなく、毅然とした態度で森人を睨む。
「ふん、未だ十全に体が動かん。慣らしとして貴様らを使っているのだ、木偶めが」
ジルは血まみれの右手を見下ろす。
怪我をしたのなど随分と久しぶりだ。
ここまでの怪我では、なんと言ってミナを誤魔化したものかと考えながら、とりあえずは手のひらに埋まった木の実を取り出そうとする。
ジルが夜毎この森を訪れる目的は彼等である。
些か厳しい所はあるが、彼等はジルにとって剣の師匠なのだ。
最近ではこのような実戦形式の稽古になってきたが、かつては心構えから型まで、細かく教えてくれていた。
ジルの身近には最も剣の師として優れた人間がいる。しかし、彼女――――英雄アミュ・アーガマイトは殆どこの村に帰ってこないため、学ぶ機会が少なすぎる。
仕方なく森の奥深くで、たまに襲いくる獣の相手をしながら剣を振るっていたのだが、ある日偶然、あまりに深く迷い込んだ日に彼等に出会った。
ジルにとって彼等と出会えた事は僥倖といえよう。十五歳になれば都の警備隊に志願できるとはいえ、剣の振り方などはそれまで誰かに教えてもらえるようなものではない。
結果的に、ジルはこの数年を有意義な修行の日々として過ごすことができた。
無論、この事は村の人々には秘密である。
伝説上の存在として語られてきた彼等の存在が明るみに出れば、余計な混乱を招きかねない。
「我らの種子を取り出す必要はない。それは、放っておけばそなたの身を癒すであろう」
森人はそう言うと、ジルの右手の上に自身の両手を重ねた。
その手の下に小さな青い光が灯る。
痛みと共にどくどくと脈打っていた右手を心地よい冷たさが包む。やがて光が消えると、先程までの痛みは随分と収まっていた。
「赤き川の奔流は止めた。後はその実に任せておけ」
見ると、あれほど真っ赤だった手が随分と綺麗になっている。血糊が全て洗い流されたようだ。
そのせいで手のひらにぽっくりと突き刺さった木の実や、その周りの肉が抉れて血が固まっているのが見えてしまい、随分とグロテスクだったが。
「治癒……と言うよりは水の流れを操る魔法か。使い方によっては簡単な止血も行えるのだな」
ジルはまだ魔法に詳しくはないが、森人達からは得体の知れない不思議な力だと教えられている。
森人達も草木の成長を早めたり、水を意のままに操ったりなどできるが、自身でもなぜできるのかは分からないのだと言う。
要するには、訳のわからぬ力なのだ。
「然り。そなたの体を流れる小川の流れを操った。些か使い過ぎてしまったがな」
月明かりの下に掲げられた森人の左手が、乾燥しきって萎れている。
それはどんどんと体の方にまで広がっていた。
元より、森人は魔法が使えると言うだけで、それに長けた種族ではない。
ジルの傷を治すのに多量の水分を消費したのだろう。
「無用な事を……」
血など暫くすれば止まる、汚れは洗えば取れる。確かに体力を消耗するが、我が身を削ってまで処置せねばならぬ程ではない。
しかし、森人は元より己の身を顧みない。人とは価値観が異なるのだ。
彼らにとって、自己よりもジルの方が優先されるらしいというのは、数年の付き合いで分かってはいた事だ。
「しばし休め、貴様の体ならば、やがて治るであろう」
労わるジルの言葉を、森人は聞いていなかった。その虚ろな目は今、村の方へと向けられている。
「何者かが火を放った。我が親を、子を喰らい、膨れる忌々しい火を」
森人にとってこの森は体の一部に等しい。
全ての木が彼らの目であり、耳なのだ。
「其奴らの狙いは森なのか」
ジルが問いかける。
自身の故郷が窮地にあるかもしないと言うのに、随分と落ち着いた様子である。
「いや、こちらではない。そうであれば、我が
ジルはククッと小さく笑った。
目の前の闘争に期待するかのように。
「いい機会だ。実戦訓練といこうじゃないか」
村の方へと進路をとるじるの肩を、一本の枝が捕らえる。
「待て。我が身は暫しの休息が必要だ。ならばこそ、この身はそなたが役立てよ」
そう言うと、森人は自身の体に右手を突き刺す。既に体の殆どが水分を失っていたためか、パラパラと粉を散らしながら、その身は容易に砕けた。
何かを握った右手を、ジルに向かって差し出す。そこには一粒の種子が握られていた。
ジルの右手に突き刺さった物とよく似ているが、それよりやや赤みがかっている。
「受け取れ、『選びし者』。そなたの手の内で、我は暫し休もう」
ジルはひったくるようにその実を受け取る。
森人の身体が、音もなく崩れ去った。
それと同時に木の実が急激に成長して、黒檀のような黒みがかった、ツヤのある見事な一振りの剣となる。
先程までジルの使っていた木剣に比べるとかなり重量があるように思えたが、これくらいの方が武器としては扱いやすいだろう。
ジルは慣らすように何度かその剣を振った。
「存分に使わせてもらう」
そう呟くと、村の方向へと駆け出す。
その顔には飢えた獰猛な笑みが張り付いていた。
黄昏の空に陽は昇る 天村真 @amamura1118
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