Ⅲ
彼の人生について、今更細かく語る必要はないだろう。
それはあくまで余計なものであり、語りだすと別の物語が始まってしまう。
故に、彼の長き回想の内、抜擢するのは未だ誰にも語られぬ記憶にとどめよう。
ミナに話したのが彼の最後の最期とするならば、これはその最期の最後。
言うなれば、エピローグ。
しかして、その実プロローグでもある。
清水清隆の物語が終わり、ジル・アーガマイトの物語が始まるその始点。
彼が思い出していたのは死後であり生前の、幕間の物語であった。
死を永遠の眠りと称すなら、それは無限の夢と呼ぶに値するのだろう。
無限の夢。
果てなき夢。
清隆は自身の置かれている状況をそう仮定していた。
彼が今いるのは、小さな部屋である。
あるのは木製の狭い机と同質感の四脚の椅子。机の上には皮紙に書きかけの原稿と羽ペン。壁には一枚の重そうな木彫りの扉。
無論、そこが清隆の書斎というわけではない。清隆は豪遊を好むが、意外にも彼の居住空間、特に書斎と寝室は質素なものであった。しかし、書斎に関しては今のこの部屋ほどではない。
では、この場所はなんなのか。
清隆の持つ最後の記憶は、寝具と壁掛け時計しか置かれていない自室(この部屋以上のシンプルさだ)にて、柔らかなベッドに身を横たえたところで途切れている。
何者かに拐かされたというのは、年老いてはいても、武人の心得として気配に聡い清隆が寝込みを襲われることはまずなく、考えられない。
また、清隆が着ていた寝間着も、いつの間にやら上下セットの白いタキシードに変わっている。わざわざ着せ替える必要性が見えてこない以上、これを誘拐犯がしたとは考えづらい。
そもそも、清隆という存在自体、世界の天敵にして大黒柱なのである。彼を攫って世界を敵に回す度胸のある人間がいるはずがない。
つまり、清隆が何故ここにいるのか、それを説明するのに、誘拐では答えにならない。
それ以外にも、清隆には一つだけ、心当たりがあった。
何者にも掴めず、何処にも縛られず、何時来るとも知れぬ、如何ともしがたいその存在を。
死だ。
考えるまでもない。
人に気付かれず、しがらみにとらわれない死の影ならば、眠った清隆を攫うのは簡単な事である。
そう気づいた時点で、清隆も多少は面食らった。
清隆は死後の世界というものを信じていない。死ねば終わり、そう思っていたからだ。
しかし、生前ならば考えられない現状も、死後だと思えば納得できる。
妙なものだ。
死んだと認識する自我がある。
死後の世界……と呼ぶにはやや味気ないが、そのような空間もある。
「存外、面白みのないものではあるが……」
落胆したように呟く清隆の眼前に、いつの間にやら一つの影が落ちていた。
無論、それは死の影ではない。
死と呼ぶには輝きすぎている。
死の実像など知らないが、それが死だとは清隆には思えない。
その輝かしき光の影の元をたどると、一人の人間のようなものが立っていた。
人間の
それが人であるとするならば、ホモ・サピエンスは清隆の知らぬうちに、内側から発光する特殊な技能を獲得したことになる。
ぼやけて見える輪郭は、身長一七〇センチ後半の清隆よりも幾らか背が高く、かなりの長身だが、女性のシルエットであるように見えた。
「驚きましたか?驚きますよね!驚かないはずがない!」
驚きと言うよりは警戒から言葉を発さなかった清隆に対し、やけにフランクな口調でそれは声をかける。
不思議と、声が聞こえた瞬間から、謎の影は明確な形を取り始めた。発する光が弱まったのだろう。
彼女は薄桃色の唇に笑みを浮かべながら、少し太めの眉をキリッと上げてしたり顔をしている。
「ある程度の検討はつけていたが、まずは聞こう。君は誰で、ここは何処だ」
「私はキュートでプリティーな女神様。ここは哀れな魂の待機室です」
清隆の質問に、女神を自称するそれは間髪入れずに答える。
女神、にしてはややノリが軽すぎるようにも思える。とは言え、幽霊の正体見たり枯れ尾花。やや意味が違うが、実際に相対すると、神というのはこんなものなのかも知れない。
「おやおやー?どうしましたか、まただんまり決め込んで。物思いに耽るいぶし銀も、私としてはどストライクではありますけれど。かと言って贔屓にしてあげることなんてできませんよー?」
まさしく女神そのものの満面の笑みで、黙していれば美術品のような神聖さ溢れる美貌も、口を開けばただの脳足らずにしか見えない。
清隆は会話ができるだけマシかと諦め、女神を直視する。
身長の低い清隆が見上げる形にはなったが、その目に相手を敬うような色は見られなかった。
「結構。それで、何の用があって現れたのだ、女神を自称する者よ」
側から見ると、厳しい顔つきな上、白髪に髭まで蓄えた清隆の方が神様然としていた。
その上、この異常時に現れた自称女神に対して、なおも引かぬその態度と口調。
まるで威厳が逆転している。
「あららー?あまり乗ってこないんですね。このノリそんなに好きじゃないんですか?昨今の流行りだと思うのですけれど」
「ふん、何十年前の流行りだ。一周回って目新しいわ」
「そうでしたっけ?ちょっとずれてる気もしますが……今更素に戻るのも気まずいのでこのまま続けちゃいましょう!」
清隆の記憶では、この手のいわゆる『お決まり』が流行ったのは半世紀以上前のことである。
あまりこの手の知識は深くないが、それでもそういうものがあった程度のことは覚えていた。
「して、何用かと聞いている」
ここまでお決まりの流れなら、その行き着く先は半ば見えているようなものだが、それでも一応の確認は取る。
確認は大事だ。
清隆は女神のいい加減な態度にも、たいして思うところはないが、質問に答えぬことに関しては多少の苛立ちを覚えていた。
そんな清隆の有無を言わせぬ圧に、なおも女神はヘラヘラとした態度で対する。
「いえいえ、ちょ〜っとしたお願い事がありまして」
「聞こう。何だ」
「本当にちょっとした、些細なお願いなのですが……」
「聞くと言った。回りくどい喋り方はよせ」
清隆の声には僅かにだが怒気が混じり始めていた。
流石にそれ以上、怒らせる気はないのか、ようやく女神は要件を語り出す。
「それではズバリ言わせていただきますと、貴方様には是非、今世の記憶を継いで別の世界に生まれ直していただきたい!と、そんなわけでありますですはい」
女神は早口でそうまくし立てると、どうですかと言わんばかりの態度で踏ん反り返る。
「理解した。その要求を飲む代わりに、こちらからも一つ頼むものがある」
清隆は特に問題ないといった様子で即答する。
その潔いまでの即断即決即行動こそ、清隆をこの地位まで押し上げた要因の一つと言っても良いだろう。
女神も清隆のそんな性格は知っていたのか、特に驚く事もなく話を続ける。
「そりゃあもう分かってますって旦那ぁ〜どのようなスキル、能力をお求めでしょうか?限りはありますが、可能な限り当店で揃えさせていただきますよ〜」
ボンッという音ともに、小さな引き車風の屋台が現れた。
どこからともなく出現したその小さな屋台には、知っているものから見たこともないような際どいものまで、様々な果物がやたら仰々しい煽り文句と共に並べられている。
清隆はそれらを一瞥し、手を――――伸ばすこともなく女神へと向き直る。
「知っている。故に、こう言おう。断らせてもらう、と」
清隆の言葉に、女神が初めてたじろいだ。
「余分なモノは要らん。この身、この記憶、それだけあれば十分だ。必要あれば己が手で獲得する」
清隆の声音からは断固たる意志が感じ取れる。
しかし、女神もここは食い下がった。
「え〜と、それはこちらの規則と言いますか、一応決まりとして何か一つは配らないとダメなんですよね。ほらほら、何でもいいんですよ。何ならとっておきの『不死』なんてのもありますし」
そう言って、女神は何もない空間に
彼女の右腕、肘から先が見えない壁の向こうへと消え、次に現れた時には銀の果実を握っていた。
「どうですか?貴方も死ぬことから逃げていたじゃないですか。もう死にはしましたが、来世では逃げる必要もないのですよ」
女神がどうぞ取れとでも言うように、その果実を清隆に差し伸べる。
それは林檎であった。丸々と大きな銀の林檎だ。
「くだらん」
清隆はそれには目もくれず、ぎりっと鋭い眼光で女神を睨め付け、聞こうともしない。
「俺が死を遠ざけていたのは、その必要があったからだ。まだ俺になさねばならぬ事があると思っていたからこそ、それから逃れようとはした」
清隆はここ十数年の記憶を思い出し、その無意味さに辟易するように首を横に振った。
「そのおかげでよく分かったさ。行き着く先まで行ってしまえば、後は死を待つのみ。俺は待ちぼうけなどごめんでな」
僅かに曇ったその眼が、あのような思いはもうごめんだと如実に物語っていた。
「どうしても一つ受け取れと言うのなら、忌々しい『不死』などではなく、そいつをいただこう」
清隆はそう言って、屋台の中にある一つに指先を向ける。
その先を捉えた女神はキョトンとした表情で、その果実を手に取る。
「これですか?意外なチョイスですね。中々王道なチート能力じゃないですか」
真っ白な玉にしか見えぬが、意外と弾性が高いのか、女神はそれを手の内でプニプニと弄ぶ。少しして飽きたのか、清隆の方に放り投げた。
清隆はその実を受け取ると、女神と同じように、少し実を握ってみた。硬めのスライムのような感触で、中々に興味深かった。
「ふん。物は使いようだ。これがあれば、多少は俺の思い通りになるだろうからな」
清隆は気に入ったのか、そう言ってる間も手の中でずっとその実を握っている。
このままでは暫くこうしていそうな程だ。
「それで良ければ、食べちゃって、その扉から外に出てください。貴方の新たな生をスタートしましょう!」
清隆の様子に、女神は苦笑い気味にそう告げる。
その言葉に、漸く清隆はその魅惑の実から視線を女神に戻した。
「うむ……うむ。あぁ、そうか、食わねばならんのか」
そう言う清隆の様子はやけに残念そうである。よほどその感触が気にいったのだろう。
「まぁ、仕方がない。似た物を探す事も、次の生での課題の一つにでもしよう」
名残惜しそうに、その実を口に含む。
噛み切るとプチっとした食感とともに、爽やかな酸味と風味豊かな甘みが口に広がる。
「これほど美味い果実は食った事がない。悪くない、悪くないな」
清隆がククッと細い笑みを浮かべる。
人前では厳然な態度を崩さぬ清隆にしては珍しい事である。
「これらの果物は次の世にある物に概念を紐付けしたものですから、気にいったなら探せば見つけることはできますよ。それは難しい部類に入るでしょうが」
「なに?そうか、ならば行こう。早々に見つけ出さねばな」
女神の言葉を聞いた瞬間、俄然乗り気で扉へと歩を進める。
もう果実以外の事は頭にないらしい。
扉のドアノブに手を掛けたその時、清隆は「あぁ」と思い出したように振り返る。
「聞くのを忘れていたな。何故、俺だったのだ」
女神は一瞬茶化すようにおどけた表情を作ろうとして、やめた。
「それは……きっと、貴方自身の目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、そうして直接答えを出した方が良い事です」
先程までの自称女神というような面影は消え、そこには悲しげな、しかし慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。
その様子を見て、清隆は満足そうに鼻で笑うと、扉の方を向く。
「そうか、ならば、これ以上の疑問は皆無。目的もできた事だ。先を急ぐとしよう」
扉を開く、眩い光に阻まれ先は見えぬが、それに恐れを抱く事もなく、むしろ期待に胸を膨らませ、足を出す。
「貴方の道行きに難あれ。それを乗り越え、彼等に貴方の価値を見せつけてあげなさい」
清隆の背を見送る女神の目は、さながら愛しい我が子の旅立ちに立ち会う母のものであった。
その言葉を聞きながら、さりとて振り返る事もなく、力強く一歩一歩進み、彼の姿は光に飲まれて消えた。
こうして、清水清隆の最期は終わり、運命が混沌とした渦を巻く世界にて、新たな一つの命が産まれた。
しかし、それは清水清隆の生ではない。
清水清隆の物語は、ここで確かに終わったのだ。
故にここからは新たな物語を語るとしよう。
やがては数多の『勇者』を討ち倒し、一国の王となる男の物語。
ジル・アーガマイトの物語。
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