長きに渡る男の話も、今はその晩年、地位も名声も、財も権力も手にいれ、あらゆる武術に精通し、あまねく智慧をその身に宿し、世界の頂点に立った所まで語られた。

 どこにでもあるような家庭で生を受け、その有り余る欲の炎を動力源に体を動かし、立ち止まる事なく全力で走り続けた男が、その世において手にしていないものは残すところただ一つである。

 ただ少し立ち止まるだけで手に入るそれを、僅かに待てば容易く受けることのできる恩寵を、しかし、男は否定した。

 それ以上は開拓の余地も、採択の価値も無い。漠然とした『未来』のみが支配する無の領地を、男は未だ速力を落とさず走っていた。

 彼は気づいていた。

 これより先に未知は無く、これより後に道ができぬ事を。

 己の走る無意味さも、さりとて立ち止まる事のできぬ愚かさを。

 彼は既に、息詰まる程に行き詰まっていたのだ。

 それでも進む事をやめぬ男の背を、誰も追う事は出来なかった。

 孤独で哀れな男は諦めはしなかった。いや、諦めを知らなかった、という方が正しいか。

 人と呼ぶには愚かすぎる気高さは、彼を余計に苦しめる。

 その最期は、語るにはあまりにあっけない。

 あえて言葉にするのならば、男はただ、死んだ。

 ある日唐突に、糸が切れた操り人形の如く、生命活動を停止した。

 苦しむこともなければ、身構えることもなく、夜眠りについたらそのまま目覚めなかった。それだけである。

 文字通りの永眠。

 それまでの英雄譚が嘘のように、呆気なく、味気なく終わりを迎えた。


「これで彼の話はおしまい。きっとミナが期待していたような、きらびやかな幕引きではなかったと思うけれど、僕が思いつく彼の物語はこれ以外に幕の引き方が分からない」


 ジルの顔にはなんの感情の色もなかった。まるでそれ以上飾ることを避けるように。それ以下に貶めることを拒むように。そこには何もなかった。

 ミナはそんないつもと異なる表情のジルを見ながら、それでも安堵の笑みを浮かべ、彼の頬に手を伸ばす。


「ありがとう、ジル」


 ミナの柔らかな指が、春の日差しのようにジルの頬をそっと撫でた。


「こんなので満足できたかい?」


 ジルは心配そうにそう問いかける。

 その気弱な様子が珍しく、ミナは不思議そうに目をパチクリさせた後、ふふっと小さく笑む。


「ええ。だって、もうこれ以上先を想像する必要がないでしょ?先を求める必要がないでしょ?それなら、私は満足よ」


 ミナの言葉に嘘はない。ジルを安心させようと発したことではあるが、それはミナの本心であった。既に数年来の付き合いだ、ジルもその事は分かっている。分かっているからこそ、彼は困ったように眉根を寄せた。


「そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、あまり先のことについて深く考えないほうがいい」


 ジルの言葉の意味を十全には理解できなかったのか、ミナはキョトンとしている。


「分からないなら、まだ大丈夫。少し早いけれど、今日はもうおやすみ」


 ジルはあまりベッドを揺らさぬように、そっと立ち上がる。

 その服の裾をミナの小さな手が掴んでいた。


「あ、ごめんなさい……なんでもないわ。おやすみ、ジル」


 何が恥ずかしかったのか、ミナは早口でそうまくし立てると、布団を頭まですっぽりと被ってしまった。

 ジルはその様子を横目に、そっと部屋を後にする。

 扉を閉める直前、声が聞こえた。


「次のお話、楽しみにしてるね」


 ドアノブにかけていた手が止まる。

 扉のわずかな隙間から差す光が、ミナの顔を照らしていた。

 ジルは妹の様なその少女の目をじっと見据える。


「うん。また、きっと」


 そう言い残して閉じられた扉は、閉じることを拒むように、やけに重苦しい軋み声をあげた。

 これより先、ミナに物を語る事は、きっとないだろう。ジルはそう直感していた。

 あまり想像力の豊かでないジルが、唯一語ることのできるのが『欲張りおじいさんのお話』である。

 しかし、ミナにできる話は最後までしてしまった。

 『欲張りおじいさんのお話』が一人の人間の生涯を語る物だとすれば、これより先は蛇足であり、ジルの口から直接語られるべきではない。

 なにせ、その物語はまだ終わっていない・・・・・・・・・のだから。


「欲張り、か……なるほど」


 ジルが独り言ちる。

 夏の通り雨のようにさっと表情を変える。そこに柔和な少年の面影など微塵もなく、入れ替わるように、内に火を持つ木炭のような烈情が現れた。


「俺は欲張りだったのだな」


 何故か殊更満足気にそう呟くの事を、ジルと呼ぶ者はこの世に誰一人としていないだろう。


「面と向かって言われたことがない故に気づかなんだが、なるほど、確かに俺の生は欲ばかりだ」


 彼は、己が半生を振り返る。

 そこには彼がジル・アーガマイトとして生きてきた時間の数倍の記憶が刻まれていた。

 十八歳にしておおよその学問を極めたのも、二十六の時にはほぼ全ての格闘技で最強の座を手に入れたのも、三十五歳で世界の経済の中心に立ったのも、ジル・アーガマイトの記憶ではない。

 彼の名は真水しみず 清隆きよたか

 かつてここではないどこかの世界の中心で、全知を手にし、全能を体現した人間。

 それは存在を語ればおとぎ話にしかならない、企画外の男の記憶。


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