梶原洋一の音楽 3

「一人酒で終電逃したとか、ありえなくなぁい?」

 Nはそればかりを聞いて、しきりに私の目をのぞきこみ笑った。

「うるさいなあ。本当なんだから、仕方ないじゃん」

「だって飲み屋街? のほう、行ってたんでしょ? 一人とか絶対ありえないって。誰と? 喧嘩したん?」

 Nとは今でもたまに会うが、その度、彼女のペースに引き込まれてしまう。変わらないな。高校からの付き合いだから、もう十年は近い。

 思えば、彼を紹介してくれたのはNだった。彼女は彼のことを、部活掛け持ちしてるありえない先輩と言った。ありえない先輩、て。そのありえない先輩と付き合った私も、たぶん充分にありえない人なんだろう。

 時刻は三時に近かった。私たちは他愛もない話に終始した。誰が結婚したとか、どこの料理がおいしかったとか、持ち出してきたアルコールも手伝ってか、ガールズトークに華が咲いた。Nといると楽しい。共通の知人には、よくあんなケバい子と一緒にいるよね、タイプ違わない? と言われる。でも、彼女は良い子だ。物事に純粋で、そんなところは彼と似ている。

 やがて煙草もお酒も切れかけてきた頃、Nがゆっくりと切り出した。

「梶原先輩、亡くなったんでしょ」

 真顔のわりには口調が軽く、少し笑ってしまった。何で笑ったのかには気づいていないようだったが、Nもつられて微笑んだ。

「ねえ、何で梶原先輩と別れたん?」

「前も言ったじゃん。だから、あまり構ってくれなかったからだって」

 Nの携帯が鳴った。ちょっとゴメンね。カコカコと、キーを叩く音がやけに響いて感じられた。私は傍に落ちていたファッション誌を繰った。自分とは全く違うコーディネイト。私にこんなのは無理。彼に連れられてクラブにはよく行ったが、パンツ丸出しで男と踊って酒を飲むなんて、私にはできない。きっとこれらも、彼女たちのような女性が着るのだろうし、私はそんな女には決してなれない。

 ちょっとゴメン。メールの相手だろうが、Nは電話をかけ始めていた。

「なら、ちょっとコンビニ行ってくるよ。お酒、買ってくる」

 少しため息をついてから立ち上がる。本当に自己中心的でその分素直だけれど、いつも振り回される。Nは片手を立ててうなずいた。いいって。少しゆっくり行くから。

 先ほどよりも高い位置に月が見えた。私は最後の一本に火をつけ、しばらくくわえたままにしてから、逡巡したのち、彼が普段そうしたのを真似て、月へと向かって煙を吐き出してみた。この時間ともなると通りに人の気配はなく、広がりゆく煙のふわふわした音が耳に入ってくるような気がして、途端に訪れた嫌悪感から、わざと煙を散らすように早足に歩いた。遠くでバイクのエンジン音がした。横路地で猫が鳴く。

 自分がちっぽけな人間に思えてならなかった。私は音符の一つ。長い長い壮大な曲の、観客も聞き飽きてくるくらいに経過した頃の、途中のたった一音。

 彼はいつだったか、頬を上気させ、無邪気な目でもって語ってくれた。モーツァルトは、楽譜が難解すぎるから音符の数を減らせと言った王様に対して、こう答えたんだ…私の曲には、決して音の数が多すぎるといったことはないのです、と。

 ただ私という音は、彼に添っているから不足でないだけなんだ。

 あんなダメ男に今でも奏でられる私は嫌だ。

 フィルターまで達した。投げ捨て、靴の先で踏みつぶした。火は消えても、吸い殻まではなくならない。当たり前か。なんだかおかしくって、笑う。

 Heart breaker, can’t take her, heart breaker, just bring me down.

 たぶんいま、梶原洋一が私に宿っている。私は歌いながら歩いた。タタン、タタン、タタン。三拍子。陰鬱なのに楽しい。きっと憑りつくの間違いね。Heart breaker, can’t take, me.

 コンビニから戻った私に、もう、遅いってばあと、Nはふくれてみせた。一時間近く経っていた。ちょっと考え事しながら歩いてたからさ。もう、心配したよお。ごめん、ごめん。

 はい。レジ袋から缶酎ハイを取り出して手渡した。改めて、乾杯。

「さっきの話の続きだけどさあ」

「何?」

「ホントに、寂しかったから別れたの?」

 酎ハイの程よい甘さが、今夜は珍しくおいしかった。酔っているのかもしれない。

「寂しいって言い方したっけ。でも、うん、そんな感じ」

「でも梶原先輩、会いに来てくれたんでしょ? すごいかっこいくない?」

「いいよその話は。そうでもしないと構ってくれないって、ことでしょ」

「そうかなあ」

 Nは小首をかしげて両手で缶を握り、口元まで持っていった。私もぐいっと、飲み干した。

「たぶんあいつはNのほうがお似合いだったと思うよ」

「えぇ? ありえなぁい。すごいピッタリだったじゃんかぁ」

「前も言ったけどさ、だってNと洋一、そっくりだもん」

「ないない。絶対ないってぇ」

 Nは大仰に手を振ってみせた。

「だって梶原先輩、頭いいじゃん」

「いや、馬鹿でしょ、あいつは」

「そんなことないってぇ。なんか難しそうな文章書いてたし、文芸部だったし、吹奏楽だったし」

 ああ、あったなあ、そんなの。文芸部に吹奏楽部、科学部、放送部、あとはなんだろう、書道部。いかにも頭が良さそうな人たちが入っていた部活。マジメ部。みんなそう言ってからかっていた。

「そんなこと言ったらNだって文芸部だったじゃん」

「あたしはサボりたくて入ったんですぅ」

「まあ、Nはそうよね」

 似ていると言ったけれど、改めて考えてみるに、二人は本当に似ている。どこって、自己中心的なところ。そして、いっつも自分の世界に入りこんでいるところ、他人に対して優しいところ、私を振り回すところ。

「やば、私、やっぱドMだわ」

「どうしたのぉ? 急に」

 ああ、駄目だ、駄目、駄目。酔っているんだ。こんな時間まで飲んでいるんだもん。しょうがないじゃない。

 手元の缶を一息にあおった。急に甘ったるく感じた。

 どうして私はこんなにもうじうじと。明日からはもう、いつもの私に戻ろう。朝が来たら始発で帰って真っ先にシャワーを浴びよう。洗い落とす。そして仕事の資料を早くまとめよう。お昼までに終わったら、自分へのご褒美に、欲しかった香水を買いに行こう。ううん、そういえば明日は夕方にT君が来るんだっけ。買いに行けないじゃない…。

 …ごめんN、なんか…眠い、かも…。

「でも、やっぱ手ぇ合わしに行くくらいはしたいよねぇ。私も梶原先輩には色々おごってもらったりとかしたしさぁ」

 うんと、声に出したつもりが、曖昧なうめき声しか出てこなかった。Nは気づかずにしゃべり続ける。うなずいた首が上がらなくなった。そして次に顔を上げた時には、すでに日が昇っていた。なぜかNが私の背中にもたれかかるようにして寝息を立てていた。

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梶原洋一の音楽 佐藤佑樹 @wahtass

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