料理が殺人的に苦手な女子って実在するのよね

たいらひろし

朽木螢子と霜月弥生

 放課後、恋する殿方のために家庭科室で料理の練習をする女子など幻想、あるいはメルヘンの類だと思っていたがそうではないらしいです。少なくとも我が後輩、霜月弥生(しもつきやよい)は家庭科室使用の許可を得たことをひどく喜んでいました。

 家庭科室のドアを開くなり弥生は、しゃらんらん、と貝殻のイヤリングを鳴らしてこちらを振り返りました。卵型の丸い顔に大きな瞳。高めのサイドテールが健康的なヱロスを醸しています。背は170センチの私よりも頭ひとつ分低く、それがまた女の子らしさを引き立てています。華奢な体つきのわりに激しく自己主張する大きな胸。ほっそりとした白い足は触れば折れてしまいそう。男子からは人気を博し、しかし一部の女子を敵に回しかねない危うげな雰囲気をまとった花も恥じらう15歳──霜月弥生はそういう娘です。ちなみに貝殻のイヤリングは校則違反ですが、彼女の愛らしさの前にすべての教諭は弥生のおしゃれを黙認してくれたそうです。

「蛍子先輩ありがとー、あたしの特訓に付き合ってくれて」

 そういって彼女は私の薄い……もとい控えめな胸に飛び込んできました。どおん、という感触がくるかと思いきや、彼女のバストがクッションになってそこまで強い衝撃はきませんでした。擬音で当てはめるなら、ぐにゅ、あるいは、ぷにゅん、といった具合でしょうか。男性でなくてもクセになる柔らかさ、触り心地は、例えるなら太った猫にお腹に乗られたような心地よい感触。そんな女性の神秘を二の腕で心ゆくまで堪能しながら、しかし私の胸の内はどんよりと曇ったままでした。

「どういたしまして……」

 私はげんなり口調で言葉を返します。

 ああ。弥生に頼まれるまま、せがまれるままにここまできてしまいました。

 これから私は弥生と──彼女の恋の相手のために料理の特訓をしなければなりません。


 ──────


 同じ吹奏楽部の後輩、霜月弥生が私の教室に飛び込んできたのは本日の昼休みのことでした。コンビニで買ったパンを食べ終え、のんびりとハーレクイン小説を読んでいた私の名を叫びながら、彼女は我が教室のドアをえいやと開いたのです。びっくりするクラスメイトたちをよそに、彼女は蜂蜜ごときに甘い微笑みを浮かべつつ、つかつかと私に歩み寄ってきました。

 なにも直接教室まで来なくてもケータイを使えばいいんじゃないかと訪ねたら、

「だってだって、電話代がもったいないじゃないですかぁ」

 と、至極ごもっともな指摘を受けました。

 ここでふと疑問に思います。なぜ、わざわざ上級生の教室まできたのでしょう。ひょっとしてよほど大切な要件なのでしょうか。

 その旨を問うと、彼女いわく、

「今度、ピクニックにいこうと思うんですよぉ。なのでぇ、おいしいお弁当を持っていけるように特訓したいなって思うんです。でもあたしいまは一人暮らしで、いっつも外食ばっかりだから調理器具も調味料もまともに揃ってないんでうちのアパートでは特訓ができないんですよね。え? ピクニックっていったらお弁当じゃないですかぁ」

 とのこと。

 胸中、ガッツポーズをしました。

 いまどき女子高生がピクニックですよあなた。それもお弁当を持参してですよ奥さん。弥生とは普段から懇意にしておりますが、よもやふたりきりでピクニックのお誘いを受けるとは。

 いいじゃないですか。ええ、いいですとも。かしこまりました私がみっちりと特訓してさしあげます機材が揃っていないなら家庭科室を借りれば解決ですよ、そう二つ返事で答えました。本当は自分の家の台所を使って手とり足とり胸とり唇とりしたいところですが、平日に家でごろごろしている兄がしゃしゃり出てこないとも限りませんのでそれは却下。自宅で弥生とふたりきりになろうものなら、あの自制のきかないバカたれが弥生にちょっかいをかけてくるに決まっています。

 そして同時に、そっと胸の内に思い描くのです。放課後の家庭科室で料理の特訓をするふたりの女子高生。かたや調理の手腕もそこそこな先輩と、あまり炊事が得意でない後輩によるふたりきりの逢瀬。美味しくできましたね。先輩の教え方がいいからです。あなたのセンスがいいからよ。先輩抱いて。夕闇に染まるふたつの影。重なる手と手。

 はい。断れようはずもありません。

 早速今日の放課後、家庭科室に集合することに決定しました。

 と。そのとき、弥生は可憐なほほを桜色に染めてぽつりとつぶやいたのでした。

「彼、喜んでくれるかなぁ……」

 弥生がぽつりともらした一言が私を冥王星のダイヤモンドクレバスより深くて冷たい奈落に突き落としました。

 なんということでしょう。弥生には懇意にしている男がいたのです。そりゃそうです。こんな可愛い子を男どもが放っておくはずがありません。そもそも弥生は私とピクニックにいくとはひとこともいってはおりません。弥生は上げて下げる娘でした。

「じゃあ今日の放課後よろしくお願いね、先輩っ」

 ウインクしたまぶたからキラキラ星が飛び交いそうな素敵な笑顔を残して弥生は去っていきました。


 ──────


 ええ、私はピエロです。

 なにが悲しくて、後輩の彼氏のために料理の特訓に付き合わなくちゃならんのですか。私がどれほど彼女のために力を注ごうとも、それは弥生と見知らぬ男との仲を深めるに過ぎないのです。

 でもいつもでもメソメソしてはいられません。弥生の幸せを思うのであれば、彼女のために料理の手ほどきをしてあげるのが優しい先輩というもの。ああ、私はなんて献身的なのでしょう。あるいは貧乏くじともお人好しともいいますけど。

「じゃあ、そろそろ始めましょー」

 私のおよよな気持ちもくみ取らず、弥生がスーパーのビニール袋を家庭科室の無骨な机の上におき、中身をざっと並べました。

 お米、野菜各種、Sサイズの玉子に豚のひき肉などなど、ざっと確認したところ、無難な食材ばかり。彼女のことだからドリアンとかフランスパンとかマグロの刺身とかを買い込んでくるかと思っていましたが、一応は一安心です。

 そして机の下から引っ張り出したりますは包丁。まな板。鍋にフライパン。それから各種調味料。期待通り、家庭科室には必要な調理器具が完備されています。

 役者は揃いました。あとは必要なのは料理の腕前だけですね。

「うっし。これだけそろってれば、最高のお弁当が作れるよね。ね、先輩っ」

「そうですね……あ、でも、これはあくまで練習であって、明日は明日であなたがひとりで作らないと」

 私のつっこみもどこ吹く風、彼女は「きゃっほう」と騒ぎつつ踊っています。好きな相手のために料理の特訓ができることがそんなにうれしいのでしょうか。あ、なんだか胃が痛くなってきた……。

「じゃあ先輩、まずなにから始めましょうか」

 え、と私は怪訝に思いました。なにから始めるって、それはこちらが聞きたいところです。お弁当の具材をなんにするかでレシピも材料も変わってきますし、制作時間も左右されます。それを問いただすと、

「いやぁ、あたしお弁当作るのって初めてなんで、どういうのが簡単においしくできるのかわからないんですよねー」

 と、悪びれもせずにいってのけました。〝彼〟の存在を会話の端々にほのめかすのは私の片思いハートをずったんずったんに切り裂きたいわけではなく、単純に頭が温かいだけなのでしょう。それがまたこの娘の魅力でもあるのですが。

「そうねえ……」

 と、私は考え深げにあごを撫でました。

「シンプルかつおいしく作れそうなお弁当の具材といえば、まず挙げられるのがおむすびと卵焼きかしら。あとウインナーとか、ハンバーグとか。栄養簿バランスを考えたらサラダも付けるとベターかも。おむすびの具材にはおかかとか梅干などが無難なところね。贅沢をいえば、加えてデザートなどがあればいいアクセントになるんじゃないかしら。ホットケーキなら簡単に焼けますし、冷めてもおいしいですよ」

「おおー、さすが先輩! やっぱり先輩にレッスンをお願いしてよかったぁ」

 いえ、これくらいでそんな尊敬と憧れがないまぜになった眼差しで見つめられると困ります。ああ、そんなにくっつかないでください。鼻血が出そうです。

 と、弥生はあたしのそばから離れると愛らしくはにかみ、炊飯器のプラグをコンセントに差し込み、ひよこの刺繍がされたエプロンをかけました。しゃらんらん、と貝殻のイヤリングを響かせてその場で一回転。

「じゃああたし、早速作ってみますね。どこか悪いところがあったら教えてくださいっ」

 感心しました。

 なるほど。てっきり私が作っている姿を見学してから実践するのかと思っていましたが、まず自分の腕を披露して、そこを矯正してもらうスタイルでくるとは。さすがは弥生、素晴らしい向上心です。

「ええっと、まずはおにぎりを作るためにごはんをたかなきゃね。最初にお米を磨いでっと……」

 弥生は白米を二合ほどボウルに移すと、液状洗剤を握りしめてお米めがけて逆さまに振りました。

 いえいえいえちょっと待ってくださいなにをしているんですか彼女は。

 泡を食ってその愚行を制止すると、

「お米を磨がなきゃ食べられないじゃないですかぁ。え、洗剤を使って洗うんじゃないんですか? てへ、実はあたし、ご飯を炊くのって初めてで」

「けっこうですお米を研ぐのは私がやります」

 ボールを奪いましたが時すでに遅し、すでに白米は見るも無残にぶっくぶく泡立っていました。どうしましょうこれ。清水でよく磨ぎなおせば食べられるんでしょうか。

 お米研ぎする権利を奪われた弥生はほほを膨らませながら、今度は野菜に手を伸ばしました。ニンジン、キャベツ、キュウリにレタス……それらをまな板に並べた弥生は、我が意を得たりとばかりに妖しげに微笑みました。ああ、なんだかいやな予感しかしません。そもそもどうしてすべての野菜を一度にまな板へ乗せるのですか。緑黄色野菜がごみごみと並ぶその様は、まるで手入れのされていない植物園状態です。

 弥生は最初の生贄に人参を選んだようでした。

「えいっ」

 左手を野菜にあてがわずに包丁を滑らせた結果、人参はちょっと切れ込みを付けられただけでまな板からごろりと転がり落ちてしまいました。なんて危なっかしい手つきでしょう。怪我でもしたら大変です。

「弥生、包丁はもっと慎重に扱わなくちゃ……」

「わかってます、次が本番ですからっ」

 彼女は温度の低い瞳で包丁を青眼に構えたのち、おもむろに刃の切っ先を頭上へとかざしました。

「ほわちゃーっ」

 およそ野菜を切るとは思えない掛け声とともに弥生は上段から腰だめに柳刃包丁を振り下ろしました。スコッと軽快な音がして、みごと人参が真っ二つになりました。それと、まな板も。勢い余った包丁は机にめり込んでしまっています。ああ、忘れていました。この娘は朝青龍も真っ青の怪力の持ち主だったのです。

 私は、恐る恐るたずねました。

「……弥生。人参を分断して、なにを作るつもりなのですか?」

「え」

 我が後輩は呆気にとられた面持ちをしてから、てへ、と笑いました。

「どうしよう、なにも考えてなかった。これ、サラダに使えるかなぁ」

「……ひとまずそれはおいといて、野菜を洗うところから始めましょうか」

 そんなこんなで、時はあっという間に経過していきます。


 ──────


「いやあああっお鍋から火がっ火があっ! お母さああああん」


 中略。


「危ないところでしたわ……あなた、もうすこしでサンドイッチのハムになるところよ」


 中略。


「あ……ありのまま、いま起こったことを話すよ先輩! ホットケーキの隠し味にブランデーを入れていたら、いつのまにか酒瓶が空になっていた!」


 ──────


 かくして。

 世にも恐ろしいお弁当が生誕したしました。カーテンが焦げていたり、壁には包丁が突き刺さった跡なんかがありますが、あとで先生に怒られないか心配です。といいますか、よく私たち死ななかったものです。

 弥生、ちょっと満足げにこちらを振り返り、こちらへデキソコナイのオベントウバコを差し出しました。

「こんなもんでいいかな。ねえ先輩、どう思う?」

「……そうですねえ」

 生臭いおむすび。

 素材が原型を留めたままのサラダ。

 黒以外の色が存在しない卵焼き。

 異様に重いサンドイッチ。

 ロシア人も急性アルコール中毒死しそうなほどリキュールのつっこまれたホットケーキ。

 ああ──きっとこのお弁当を見たひとは、メンヘラさんがドラッグきめきめでこしらえたものかと思うでしょう。しかし、これが我が後輩の精一杯の愛の結晶なのです。

 こほんと咳払い。私は厳かな口調で告げました。

「はっきりいってまだまだ改善の余地があります」

「えー、やっぱり」

 がっくりと肩を落とす弥生の背中をそっとさすってあげます。おおっと、この制服越しのごつごつした細長い感触はブラジャーでしょうか。可憐な女子高生のDカップを包み込む魅惑の布切れ。ちょっといたずらで服越しにホックを外してみたくなりますが、変質者丸出しになるため自主規制。

「でもね、弥生。料理の腕なんてこれからいくらだって腕をあげられるから気にしてはだめですよ」

「うー……あたし、ちゃちゃーっと簡単に美味しく作れそうなものを選んだんだけど……」

 まったくそのとおりです。どうしてサンドイッチひとつまともに作れないのかしら。まあ、とはいえ美味しい料理を作っても、それを食べるのは、

 そうです。思い出しました。

 この弥生の手作り弁当を口にするのは私ではない。どこかの馬の骨なのです。これまでの私の助力は、すべてその男のため。私はピエロ。

 ああ──そう考えただけで、まだ見ぬ弥生の彼氏に殺意が湧いてきました。どれほど弥生が想いを込めたお弁当を作ろうとも、私がそれを食べることはならないのです。よしんば食べたところで、それはつまみ食いにすぎないのですから。

 弥生はきっと、精一杯に腕をふるったこのオベントウを差し出すのでしょう。「心を込めて作ったの、うまくできたかどうかわからないけれど喜んでくれるとうれしいな」とかなんとかいいながら水玉模様の風呂敷に包まれたこのオベントウをパンドラの箱よろしく開くのです。しかし中から飛び出すのは恋のオブラートに包まれた絶望こもごもであり、当然、希望なぞ一片たりとも入ってやしません。おいしい? おいしい? と詰め寄られては馬の骨は逃げることもできないはず。毒物すれすれの弥生兵器を嚥下するたび、彼は着実に死地へと追いやられていくことでしょう。

 あ、そう考えると、ちょっとだけ溜飲が降りたかも。

 そうですよね。

 弥生に手を出そうなんてケダモノは、せいぜいこの発がん性物質を口にして内蔵からヤられて死兆星でも見てればいいのです。

「どうかな。これ、食べてくれるかな……?」

「もちろん。こんなに一生懸命作ったんですから」

 ふふふ。ここでちょっと一押ししましょう。

「たしかにこのお弁当はまだ発展途上といっていいでしょう。でも、そのひとが弥生ことを好きならばどんな料理だって食べられるはずです。もしもそのひとがお腹を壊したとすれば、それはそのひとのお腹が弱いか、もしくは弥生への愛がたりないんです。愛あればこそ、食事を美味しく食べられるというものです」

「え……そうなの」

 弥生、あなたは素直ですね。美点でもあり欠点でもあるその懐疑心のなさがとても愛おしいです。

 そこまでトントン拍子に会話をすすめると、ふいに弥生がぽんと手を叩きました。

「よかったぁ。そこまできけたら安心です。先輩、ありがとうございました。お父さん、きっと喜んでくれると思います」

 …………。

 は?

「お父さん、ですって」

「うん。あたし、お父さんと三ヶ月ぶりに会うんですよ。お父さん単身赴任で大阪までいってて、久しぶりに休暇をとってこっちへ帰ってくるんです。だから、こんな時くらい手料理を食べてもらいたくて……もっと前からお料理の練習をしていればよかったんですけど、あたしってずぼらだから」

 てへへ、と恥ずかしげに頭をかく弥生。その瞳には嘘偽りの陰りはなく、ただ真摯に私を見つめています。

 ああ、なんということでしょう。私は思い違いをしていたようです。お弁当はてっきり彼氏にくれてやるものと早とちりしていましたが、どうやら滅多に会えない父のために自分の料理の腕をあげようとしていたみたいです。そうです、いまになって思い出しました。彼女の家はたしか父子家庭。家庭の事情ゆえに詳細は知りませんが彼女に母親はおらず、たったひとりの父と互いに支え合いこの歳まで生きてきたのです。娘が料理下手なのは父親の日常にとって致命的だったことでしょうが、だからこそこうして彼女は苦手を克服しようとがんばっているのでしょう。なんて愛らしい、いじらしい少女なのでしょうか、弥生は。この可憐な父への想いの前には、こんなベッタベタなオチであることなどどうでもよくなってしまいます。

 弥生はフンスッと鼻息を荒くして腰に手を当て、ふんぞり返りました。

「先輩ありがとうございます、あたし自信がつきましたっ。お父さんはあたしを愛してくれてるもん。だから、お弁当がちょっと失敗したくらいなら、笑って許してくれるよね」

「そ、そうです。大事なのは気持ち、ハート、ラブ愛情なのです。あ、ちなみにこれを」

「……? なぁに先輩、このラッパのマークは」

 せめてもの手向けです、とはいえず、

「隠し味です。中の錠剤を数粒、サンドイッチにでも挟んでおけばおなかの消化がよくなりますよ」

「ほんとにっ。先輩、いろいろありがとー♥」

 にぱーっと向日葵のような弥生の笑顔が家庭科室を明るく照らします。

 お父さん、お気の毒に。こんな笑顔を向けられたら父として愛娘弁当を平らげなくてはならないでしょう。それはきっと可愛くも不器用な娘をもった父親の宿命なのです。

 と、どこか胸に郷愁の念を誘うカラスの鳴き声がきこえてきました。

 ふと窓の外を見ると、いつのまにか校庭に夕闇が差し迫っています。家庭科室は紫色と柿色のコントラストで淡く染まり、ふたりの顔を鮮やかに照らしています。

 家庭科室をレンタルできるのもそろそろタイムアップ。楽しい時間はここまでです。

「……じゃあ、そろそろ片付けましょうか」

「そうですねー。今度またしっかりお料理を勉強して、先輩にもおいしいご飯をご馳走してあげますねっ」

「あ、あはは……。ああ、ところでちょっと気になっていたのだけれど」

「?」

 私が片付けの手を止めて弥生を振り返ると、彼女はつぶらな瞳を瞬きさせ、きょとんとした面持ちでこちらを向いて佇んでいました。そのさまは夕景に浮かび上がる北欧の精霊のようでもあり、黄昏時を精一杯生きるホタルの化身のようでもありました。

「かわいい……じゃなくて、こほん。お父さんが単身赴任だっていってましたよね」

「はい。あと二年ほど、大阪でがんばってくるっていってました」

「ならお父さんと一緒に大阪に引っ越したほうが、なにかと便利だったんじゃありませんか? あなただけこの街に残ったらお父さんと離れ離れに」

 しーっ。

 というふうに、弥生が私の口元に人差し指をたててきました。彼女の指には魔法が込められているのでしょうか。私はそれ以上ひとことたりとも言葉を発せなくなりました。

 心臓が三三七拍子を奏でます。私は石膏の彫像と化しました。唇に彼女の肌がふれた感触が微熱と化し、口から喉へ、胸から全身へと伝播していきます。

 そして、彼女は一歩、私に歩み寄りました。

「ここから離れたくなかったんです。だって、この学校には、蛍子先輩がいるから」

 私の顔はみっともないほどに真っ赤になっていることでしょう。きっと、いまの弥生と同じように。

 弥生は、てへ、と照れくさそうに頬をかきました。

「あたしね、先輩にもっともっといろいろ教えてもらいたいんです。先輩の好きなおにぎりの具とか、好きな卵焼きの味付けとか、好きなサンドイッチの中身とか。もっといっぱい先輩のことを知りたい。だからまたお料理の特訓、付き合っていただけませんか、先輩」

 …………。

 ああ、この娘は。

 私の唇に添えられたままの弥生の指を、ぺろ、と舐めてみました。甘酸っぱい味。さっきまで父親のために必死でおにぎりを握っていた健気な塩味。ふっと小さく吐息をもらし、弥生が目尻をたわめました。私の愛撫を拒まず、なすがままに切なくあえぐ少女。昇ったばかりの丸い銀月が私たちをすこし大胆にしているようでした。

「私のこと、もっと知りたい?」

 愛しい少女の身体を寄せて、私はささやきました。ふたつの制服が密着し、淡く世界を照らす星の光にふたりの影が重なります。家庭科室の鍵の返却はもうすこし先のことになりそうです。

「いまから、たくさん教えましょう」


 ──────


 P.S

 翌日、弥生のお弁当を食べたお父さんは急性高血圧とショック症状で緊急入院しました。

 ラッパのマークの力不足じゃありません。私の料理指導が悪かったんです。

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料理が殺人的に苦手な女子って実在するのよね たいらひろし @tairahiroshi

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